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【引きこもりの子どもを部屋から出す方法】-成功率は100%だと恩師は言った

息子が不登校になった頃からずっと「不登校親の会」的なモノに関わってきた。
そのメンバーとの勉強会でスクールソーシャルワーカーの講座を受けた。
講師が話す「子どもとの関わり方」は、実践的で納得ができることばかり。
その頃勉強した内容が、いまの私を作ってくれたと言っても過言ではない。

その方との関わりから私が得たことを記事にしようと思い立った。


ある日の講座。
「不登校で部屋に引きこもっている子どもが学校に通うようになるまでの事例」

今でこそ「不登校は、どんな子でもなり得る」という認識が社会に浸透しているが、当時(約10年前)は不登校への理解は少なく「親が甘やかすから」とか「親の育て方が悪い」とか「不登校の行く先は引きこもり」という誤解も多かった。

また、当事者である「不登校の子ども」も「不登校児の親」も、そう思っていることが多かった。

不登校児がその後どうやって成長し、どんな大人になるのかという事例が、まだそれほど世に出ていなかったせいもあるだろう。

しかし、引きこもりのことは社会でも問題になっていた。
かくいう私も、その頃「息子が不登校のまま引きこもりになったら…」という心配を抱えていた。

その事例を紹介する講座で、講師(スクールソーシャルワーカー)の方がさらっと「その子が部屋から出てきたら…」と話をした。

は???
いやいやいや。
「引きこもりの子どもが部屋から出てくるかどうか」が、一番の難関なのでは?
「部屋から出てきたら」なんて簡単に言うけど、こっちは、その「部屋から出る方法」が知りたいんだよ!

私は講師に質問した。
「不登校で引きこもりの子どもが部屋から出てくるのですか?」

講師は答えた。
「そうですね。たいがいは出てきてくれますね。残念ながら、部屋から出てくれる前に任期が終わってしまい、後任に引き継ぐこともあるのですが。」

驚いた。
出てきてくれるんだ。

あんなにみんなが悩んでいることなのに、この方は「引きこもりの子どもを部屋から出せる」と、さらっと言ってのけた。

私は更に聞いた。
「どうやって、部屋から出すんですか?」

子どもといっても、思春期の子どもの身体は大人サイズだ。
引きずり出すにも限度があるだろう。
ドアを開けて手を引っ張って、というのは現実的では無い。

私のぶしつけな質問に、講師は丁寧に話し始めた。


毎日、毎日、その子の家に通うんです。
雨の日も風の日も。

決まった時間だと、なお効果的です。
「だいたい、この時間に来る」ってわかっていれば
子どもも、心の準備ができますから。

そうして、玄関先で声をかけます。
「○○さん、私だよ。今日も来たよ。」って。

それを、ただ繰り返します。

「出てこい」なんて言いません。
「出てきて欲しい」なんて、望みません。

ただ、毎日、姿の見えない子どもに、遠くから声をかける。

そのうちに、その子どもが
「こいつは自分に危害を加えなそうだな」
とか
「なんか面白そうなおっさんだな」
と思ってくれるまで、ずっと続けるんです。
それだけです。

子どもは、興味があるモノには自分から触れたくなります。

私は子どもにとっての
「安心できて興味のあるモノ」になるために
毎日通って、声をかけ続けます。

ずかずか上がり込んで部屋の前に行ったり
無理矢理ドアを開けようなんてことは一切しません。

ただ、待つのです。

その子が私のことを「安心できて興味のある人間」だと認識してくれるのを。


そ。
そんなことで?

引きこもりの子どもが、部屋から出てくるの??

さらに聞いた。

私「どのくらいの時間がかかりますか?」

講師「そうですねぇ。一番長くて、2年半、ですかね。」

私「2年半…。ですか…。」

講師「そうです。最長ですが。だいたいは、一年かからないぐらいで顔を見せてくれますね」

私「2年半は長かったですか?」

講師「正直、長かったですね。笑。でも、諦めたら、そこで終わってしまうし、子どもの信頼を失ってしまうことになる。子どもを絶望させてはいけません。命ある限り通い続ければ、いつかは叶う。仮に途中で私の命が尽きたとしても、それは『終わり』ではなく『道半ば』ということです。だから、成功率は100%」


ものすごい衝撃を受けた。

もし、自分が「子ども」の立場だったら。

「学校に行け」と親に責められ続け。
「学校に行けない自分が悪い」と自分を責め続け。
結果、部屋から出られなくなった自分。

このまま外に出られないんじゃ無いだろうか。
自分はいったい、どうなってしまうんだろう。
このままこの部屋で死んでいくのかもしれない。

そんなふうに思っていた自分に。
見ず知らずのひとが、毎日会いに来てくれる。

こっちが声を出さなくても。
こっちが顔を出さなくても。
毎日、毎日、決まった時間に。
優しい声で、自分に声をかけてくれる。

無理矢理、何かをさせようともしない。
ただ、自分が、ここにいることを、認めて受け入れてくれる。

そんな人がいたとしたら…。

「この人となら、外に出られるかもしれない」
「この人となら、外に出ても大丈夫かもしれない」
そんな希望も湧くかもしれない。

自分を責める親。
自分を責める自分。

そんな狭い世界の中に、現れた。
「自分の存在を認めて受け入れてくれる」ひと。

もしかしたら、それは。

希望の光にも、見えるのかもしれない。