『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』イルゼ・ゾマヴィラ編 鬼界彰夫訳

一九三〇年四月二六日
 いくばくかの勇気なしには、一度たりとも人は自分自身に関するまともな考察を書くことはできない。
 私は時に思う、
 自分は一種の精神的な便秘を患っている。それともこれは、腹の中に実はもう何もないのに吐き出したいと感じる時のような幻想に過ぎないのか?
 私はとても頻繁に、というか、ほとんど常に不安で満たされている。
 私の頭はとても興奮しやすい。今日マルガリートから誕生日にハンカチをもらった。どんな言葉であっても、そのほうが私にはもっとうれしかっただろうし、そしてキスだったらさらにもっとうれしかっただろうけど、それでも私は喜んだ。
 今生きている人間の中で、彼女を失うことは私にとって最も大きな打撃だろう。私は軽はずみでこう言っているのではない。というのも、私は彼女を愛している。あるいは愛したいと願っているからだ。
 疲れていて考えが湧かない。もっとも到着したばかりの何日間かは、この気候に慣れるまでいつもこうなのだが。とはいえもちろん、自分がこれから絶対に空虚な時をすごさないと言っている訳ではない。
 いつ私から奪われるかもしれない一つの才能に、自分の職業がいかに完全に依存しているか考えると、私はいつも恐ろしくなる。きわめて頻繁に、何度もこのことについて考える。とりわけ、一人の人間からいかにすべてが奪われうるかについて、自分がどれだけのものを持っているかを人が決して知ることがないということについて、そして、あらゆるものの中で最も本質的なものに人がはじめて気づくのは、まさにそれを突然失ったときであるということについて考える。まさにきわめて本質的で、それゆえ、きわめて当たり前であるがゆえに、人はこのことに気づかないのである。ちょうど気管支炎になり、当たり前だと思っていたことが決してそんなに当たり前ではないと分かるまでは、自分が絶えず呼吸していことに気づきもしないように。そして精神的気管支炎には、より多くの種類が存在するのだ。
 私は何度も、あたかも自分の中に何か塊のようなものがあり、それが柔らかくなりそうになると私を泣かせたり、あるいは私がそのときにふさわしい言葉(あるいはひょっとするとメロディーですら)を見出すのであるかのように感じる。しかしこの何か(それは心なのか?)は私の中で革のような手触りがして、柔らかくはならないのだ。それともただ私が臆病で、体温を十分に上げられないだけなのか?

折れるにはあまりにも弱すぎるという人間が存在する。私もその一人だ。

私の中でおそらくいつか壊れそうで、そして時としてそれが壊れるのではないかと恐れる唯一のもの、
それは私の理性である。

時に私は、自分の頭脳がいつか酷使に耐えられずたわんでしまうのではないかと思う。なぜならその能力に比べて恐ろしいほどのことを要求されているからだ。少なくとも私にはしばしばそのように思えるのだ。
二七日
 確かにフロイトは実にしばしば間違っているし、彼の性格はといえば、多分下劣な人間かそれに近いものだろう。しかし彼が言うことの中には、恐ろしく多くのことが含まれている。そして同じことが私にも言える。私が言うことの中には、多くのことが含まれている。

 私はだらだらするのが好きだ。おそらく今ではもう以前ほど好きではないが。

二八日
 自分が成し遂げてみたい最高のことは、旋律の作曲だろうとしばしば思う。というか、旋律を作ろうとしても自分にはひとつたりとも浮かんでこないことが私には驚きなのだ。しかしそれに加えて私はこう言わなければならない、私に旋律が浮かぶなどというのは多分決して起こりえない、なぜなら、まさにそれにとって本質的な何かが、あるいは本質的なるものが私には欠けているのだから、と。旋律を生み出すことがかくも高い理想として私に浮かんでくるのは、そのとき自分の生をいわば要約できるだろうからであり、結晶化できるだろうからである。そしてたとえそれが小さなみすぼらしい結晶にすぎなかったとしても、それはやはり結晶なのである。

二九日
ある特別な意味で熱狂しているときだけ、私は健康なのだ。そしてそうしたときにも、この熱狂が壊れてしまうのではないかという不安を感じる。
 今日、ムーア夫人がブルックナーの第四交響曲に関するひどい批評を見せてくれた。その批評家はブルックナーを罵り、ブラームスとヴァーグナーについて失礼なことを語っていた。犬が大小あらゆるものに吠えるのは当たり前のことだから、最初は何の印象も抱かなかった。しかしそれから私は痛ましく感じた。精神が決して理解されないと思うとき、私は自分がある意味で(変な具合に)触れられたように感じるのだ。

三〇日
収穫乏しく、だらけている。精神的なものについて。この頃つまらない奴が出てきて自分の意見を述べることで、この偉大な者たちはかつてないほどひどく傷ついてしまったと、そんな[昨日のような]時にはいつも思う。こう考えるとき、私はしばしばある種の絶望感に襲われる。──トリニティー[カレッジ]の庭で昨日しばらく座っていた。そこにいる一人一人の中で、見事な肉体的発達と精神性の完全な欠如(理解力の欠如と言いたいのではない)がいかに同居しているのか私には不思議だった。そして他方で、ブラームス本人の腹は出っ張っていたのに、彼の主題にあふれる力と気品と活力がどうして備わっているのかが不思議だった。それに対し今日の精神には足下の跳躍台が欠けている。
一日中ただ食べて眠りたいだけだ。私の精神が疲れているかのようだ。でも何に? ここのところしばらく、本当の仕事をまったくしていない。自分がくだらない臆病者のように感じられる。

五月一日
 私には何かがはっきりするまで異常なほど長い間かかる──これはいろんな分野に当てはまる。たとえば他人との関係も、いつも長い時間たって初めてはっきりする。それはちょうど大きな霧の塊がゆっくりと消えて、対象そのものが見えるのに恐ろしく長い時間がかかるようなものだ。しかしその間私は一度たりとも自分の不明瞭さを完全に意識するということはない。そして突然、事が本当はどうなっているのか、あるいは、いたのかが見える。それゆえ途中ですばやい決断をしなければならないような場合には、おそらく私はまったく役に立たない。いわば私は、しばらくの間目がくらんでいて、それから初めて目から鱗が落ちるという人間なのだ。

五月二日
講義で聴衆の機嫌をとるために、私はしばしばちょっと面白い言い回しを使う。進んで私に耳を傾けてくれるように、聴衆を喜ばせようとするのだ。これは確かに悪いことだ。
 自分がしていることの成功や価値がどれほど自分の素質に依存しているかを考えて、しばしば私は悩む。コンサートの歌手以上に悩む。いわば私の中には何も蓄積されておらず、ほとんどすべてが瞬時に生み出されなければならないのだ。思うに、これはきわめて異常な種類の活動あるいは人生である。

自分がきわめて弱いため、私は並外れて他人の意見に左右される。少なくとも行動に際してはそうだ。自分を持ち直すだけの十分な時間があるのでない限り。
 誰かが私に述べるやさしい一言や好意的な笑顔は、長い間気持ちよく励ましたり、保証するような影響を私に残す。そして不快な、つまり好意的でない言葉も同じように長い間気持ちをくじくような影響を残す。
 そんな時一番いいのは自分の部屋で一人過ごすことだ。そこで自分のバランスを回復させるのだ。神経がなお印象をひきずっているとしても、少なくとも精神的なバランスを回復させるのだ。

私にとって最良の状態とは熱狂の状態だ。笑うべき考えを熱狂は少なくとも部分的に食いつくし無害なものにするからだ。

私がするすべてのこと、あるいはほとんどすべてのことは、そしてこのノートへの記入は、虚栄心に染まっている。そして私にできる最良のこととは、言ってみれば虚栄心を切り離し、孤立させ、虚栄心が常に見つめていてもそれを無視して正しいことを行うことだ。虚栄心を追い払うことは私にはできない。時にそれが不在となるだけだ。

マルガリートのことをとても愛している。もう一週間も彼女から手紙が来ないので、彼女の具合が良くないのではととても不安になる。一人のとき繰り返し彼女について考えるが、一人でなくてもそうだ。私がもっときちんとしていれば、彼女への愛ももっときちんとしていただろう。それでも今彼女のことを精一杯心から愛している。心から、というのは多分私にもできる。だが、きちんと、というのはできない。

五月六日
シュペングラーの『[西洋の]没落』を読む。一つ一つをとってみれば無責任なところもたくさんあるが、多くの本物の重要な思想を見出す。多くは、多分ほとんどは、私自身が考えてきたことに完璧につながっている。同時に眺めると一つが別のものの継続であるかのような複数の閉じた体系の可能性。
 そしてこれらすべては、どれだけのものが人間から奪われうるのか、あるいは人間に与えられうるのかを我々はまったく知らない(考慮していない)のだ、という思想と結びついている。

つい最近[トーマス・マンの]『ブッデンブローク家の人々』で偶然チフスについて読んだ。そしてハンノB.が最後の病気で、どんなふうに一人の友人を除いて誰もわからなくなったかについて読んだ。そこで私の注意をひいたのは、一般に人がこのことを当たり前とみなし、当然だ、いったん脳がそこまで損なわれたら、そうなるのはまったく当然だ、と考えているということである。だが、なるほど現実には我々が人を見て誰か認識できないというのは普通に起こることではないとはいうものの、我々が「認識」と呼ぶものは、それを失っても劣等とみなされることなく突然失われうる一つの特殊な能力に過ぎないのだ。私が言いたいのはこういうことだ。我々が人間を「認識する」のは当たり前のことであり、もし誰かが人間を認識できないとそれは完全な崩壊である、と我々は考えているように見える。しかしこの認識という石が建物から欠けることは実際にありうるのであって、その場合も崩壊が問題になったりはしないのだ(他方この思考はフロイトの思考と、言い間違いに関する彼の思考と近い間柄にある)。

つまりこういうことだ。我々は自分たちが持っているものすべてを当たり前とみなしており、自分の理性の完全性にとって不可欠に見えるので個別特殊な能力とは決して思っていないしかじかの物がたとえ無くなっても、自分たちは完全でありうる、ということをまったく知らないのだ。
 一六年前に、因果法則それ自身は無意味であり、因果法則を考慮しない世界の考察が存在するという思想を抱いたとき、私は新時代の始まりを感じていたのだ。
一つの発見は偉大でも卑小でもない。それが我々に何を意味するのかが問題なのだ。

我々はコペルニクスの発見に何か偉大なものを見る。それはその時代にとってその発見が大きな意味を持っていたことを我々が知っているからであり、おそらくはそれに加えて、その意味の残響が我々にまで届いているからである。そして類推によって我々は今、アインシュタインの発見、等も少なくとも同じくらいに偉大なものだと推定する。しかしそれらは、大きな実践的価値を持ち多面的な興味を引くとしても(象徴的な)意味を持つ度合いに応じてのみ偉大なのである。それゆえ当然のことながら、事は──例えば──英雄的精神についてと同じなのである。正当にも、古い時代の闘いは英雄的行為と賞賛される。しかしながら、それと同じくらい困難な、あるいはもっと困難な今日の闘いが、純粋なスポーツであって英雄的行為と呼ぶにはふさわしくない、ということが十分にありうるのである。困難さ、実践的意味、それらはすべて、いわば外側から判断されることである。偉大さ、英雄的精神、それらは行為の持つ意味によって決定される。行為の様式と結びついた熱情によって決定される。
 しかし特定の時代や人種は、まったく特定の行為様式と熱情を結びつけるので、人間は誤って偉大さと意味がその行為様式に宿っていると信じるのである。そして常にこの信念は、大激変により価値の転倒が起こるときに初めて、つまり本当の熱情が別の行為様式に宿るようになって初めて馬鹿げたものになるのである。そして、おそらくは常に、新しい洞察がやがて当たり前のことと見なされ、「当たり前だが、これらの古い紙幣は無価値だ」と人が言うようになるまでは、古く、今や無価値となった紙幣が流通し続け、まったく誠実というわけではない人々によって、偉大で意味あるものの代わりとして使用されるのである。

ある時代には象徴的意味を持つ飲酒という行為が、別の時代には飲んだくれることとなる。

すなわちこういうことだ。輝き、つまり本当の輝きとは、外的な事実に、つまり事実に付着しているのではない。

「俺たちをならず者にする悪党本人ども!」、哲学の講義では、しばしばこう言える。

八日
私は一度もふざけたことがないし、多分これからも決してそうすることはないだろう。それは私の性分に合わないのだ(すべての本性的なものと同様に、これが短所だとも長所だとも私は思わない)。

九日
私はR.[マルガリート・レスピンガー]に夢中だ。もちろんずいぶん前からそうなのだが、とりわけ今激しく夢中なのだ。けれども、十中八九絶望的だということはわかっている。つまり、いつ何時彼女が婚約し、結婚するかもしれない、という覚悟を私はしなければならないのだ。そしてそれが私にとってきわめて大きな苦痛になろうことはわかっている。だから、いつか切れてしまうことがわかっているこの紐に自分の全体重をかけるべきでない、ということもわかっている。つまり私は両足で大地にしっかりと立ち続け、紐はただつかむだけにしておき、それにぶら下がるべきではないのだ。でもこれが難しいのだ。愛をつかみながら、そして愛にはつかまれないように無私に愛することは難しい。──うまく行かなくなったとき、それを負けゲームと見なす必要がなく、「心構えはできていた、それでも事は申し分ない」と言えるように愛することは難しい。次のように言えるだろう、「馬にまたがらず、馬に完全に自分を委ねないなら、もちろん君は振り落とされないだろう、けれど同時に馬に乗ってゆくことも望めない」。これに対しては、ただ次のように言えるのみである。「君は馬に自分を完全に捧げなければならず、でもいつ振り落とされるかわからないという覚悟もしなければならない」。

しばしば人は──そして私自身しばしばこの誤りに陥るのだが──自分が考えることすべてが書き付けられるのだと信じる。現実に人が書き付けられるのは──つまり馬鹿げたことや場違いなことをせずにそうできるのは──我々の中で文字という形で生まれるものだけだ。他のすべてのものは滑稽でいわば泥のように見えるのである。つまり、ふき取られるのがふさわしい何物かのように。

ヴィッシャーは、「話されたものは書かれたものではない」と言った。そして考えられたものは、なおさらのこと書かれたものではないのだ。

(新しいページを始められるのは、いつもうれしい。)

私は考える、いつかもう一度R.[マルガリート]を抱擁し、口づけできるだろうか? そして、それが起こらないという覚悟もし、それに甘んじられるのでなければならない。

スタイルとは普遍的な人間の必然性の表現である。これは文章のスタイルにも建築のスタイルにも(そして他のすべてのスタイルに)当てはまる。
 スタイルとは永遠の相の下で見られた普遍的必然性である。
一二日
 これまでずっとかなり上手くいっているにもかかわらず、講義を前にすると私はいつも不安になる。その上この不安はあたかも病気のように私を捕らえる。ついでに言うなら、これは試験を前にした不安以外の何物でもない。
 講義はまあまあだった。とにかくもう疲れた。私の頭脳が為し遂げたことをするのに、私の頭脳がどれだけ働かなければならなかったか、聴衆の誰も想像できないだろう。私の成果が一流のものでないとしても、それは私の為しうる最高のものなのだ。

一六日
 私が思うに、事物をクラウスの意味での記号と見なさないことが、今日では英雄的行為に属している。すなわち、決まりきった繰り返しになりうる記号体系から自由になるということが。もちろんこれが意味するのは浅薄に記号体系を今一度見直すといったことではなく、いわば安っぽい記号体系の雲をより高い気圏へと蒸発させることである(大気が再び透明となるように)。
 今日においてこの記号体系に身を委ねないのは困難なことである。

私の本『論理哲学論考』には素晴らしい真正の箇所と並んで、まがい物の箇所、つまり、言ってみれば私が自分特有のスタイルで空所を埋めた箇所も含まれている。この本のどれだけがそうした箇所なのか私にはわからないし、今それを公正に見積もるのも困難である。

五月二六日
私より才能のある人間とは、私が眠っているその時に目覚めている人間だ。そして私はよく眠る。だから私より才能があるというのは簡単なことだ。

一〇月

三日
M.[マルガリート]に手紙を書いた。頭の中で私は、彼女が考えているのが私のことでないと分かっていながらも、ただ彼女が無意識のうちに支えや助けが得られるようにと、バーゼルに行く途中でしたように彼女の手を握っていた。あるいは多分、彼女がいつかそのことを良き感情とともに思い出すようにと。

四日
自分がM.を助けられないと考えると悲しくなる。自分はとても弱く、お天気屋だ。もしも神の助けによって自分が強くあり続けたなら、多分それで彼女を助けられるだろう──彼女が必要としているのは、何より強くそしてしっかりとした杭、彼女がどれだけ揺れようがじっと動かない杭なのかもしれない。そんな力を自分が持つようになるだろうか? そして無くてはならない誠実さを? 無くてはならないものを神が私に与え給うように。

 未来の音楽が単旋律になったとしても私は驚かないだろう。それともこれは単に、複数の旋律をはっきりと思い描くことが私にはできないからなのか? いずれにしても古い偉大な諸形式(弦楽四重奏曲、交響曲、オラトリオ、など)が何らかの役割を果たしうるだろうとは私には考えられない。何かがやってくるのなら、それは──私が信じるに──単純でなければならない。透明でなければならない。
 ある意味で、裸でなければならないのだ。
 それともこれは、ある特定の民族にだけ、ある種の音楽にだけあてはまるのだろうか(?)

十〇月七日
部屋を探す、惨めで落ち着かなく感じる。集中できない。M.からまったく手紙が来なかった、このことも私を落ち着かなくする。自分が彼女を助ける可能性がないということ、あるいはどのように彼女を助けたらいいかも分からないということは恐ろしい。自分がどんな言葉をかけるのが彼女にはいいのか、あるいは私からは何も聞かないのが彼女にとって最善なのか分からない。どんな言葉なら彼女は誤解しないのだろうか? どんな言葉なら耳を傾けるのだろうか? ほとんどいつも、どちらの答え方もできる、そして結局は神に委ねなければならないのだ。
 自分はペーター・シュレミールの一種だと、あるいは、であるべきだと繰り返し思う。そしてこの名前が「不運なやつ」と同義なのであれば、その意味するのは、彼は外的な不幸を通じて幸福になるべきだ、ということである。
九日
本当に親切な人たちの中にいるのに(あるいは、まさにそれゆえに?)、いつも邪魔されているように感じ、──現実に彼らは邪魔をしていないのに──自分に戻れない。これは恐ろしい状態だ。彼らが話す言葉が聞こえるたびに、それが私を妨げる。取り囲まれ、仕事に取り掛かるのを邪魔されているように感じるのだ。

自分の部屋にいると、孤独というよりは追放されているかのように感じる。

一六日
総じていくらか具合よく感じる。自分の仕事はまだできない、自分の中での英語とドイツ語の表現方法の葛藤が部分的にその原因になっている。本当に仕事ができるのは、持続的に自分自身とドイツ語で語り合えるときだけだ。しかし今は講義のために事柄を英語でまとめなければならず、ドイツ語の思考は妨げられている。少なくとも二つの言葉の間に平和状態が築かれ、いくばくかの間、おそらくはずっと長い間その状態が持続するようになるまでは。

私はどんな状況にも順応できる。違った環境下の新しい住居に引っ越す場合、私はいろんな不便さに耐え、摩擦を避けるための術をできるだけ早く用意しようとする。与えられた環境に私はこうして順応するのだ。そしてこのようにして、徐々に、これはある程度の克己と分別だけでやっていけるというものではないのだ、という考えにも自分を慣らしてゆく。そうではなくこうしたことは自然になされ、整わなければならないのだ、という考えに。ちょうと、こうした強いられた状況でも、結局人は眠ってしまうのと同じように。そして仕事ができるということは、実に多くの点で、眠れるということに似ているのだ。フロイトの睡眠の定義を考えるなら、どちらの場合も関心の部隊移動が問題なのだ、と言えるだろう。(一方の場合は単なる撤退が、他の場合は撤退と別の場所への集中が)

私の質問に対して後からムーアがこんな風に答えてきた。確かに私の事は本当のところ、好きという訳ではない、しかし私の付き合いは彼にとってとてもためになるので、それを続けるべきだと思っている、と。これは奇妙な返事だ。

一方で好かれるいくばくかの理由もあるだろうに、総じて私は愛されるというよりはむしろ尊敬される(そしてもちろん私が尊敬されるというのは正当なことではない)。

 私の思考装置は飛びぬけて複雑で、繊細な造りであり、そのため普通より敏感なのだと思う。もっと粗い仕組みなら妨害しないような多くのことがこの装置の働きを妨害し、活動できなくさせる。小さな塵が精巧な器具を止めても、もっと大造りの器具には影響を与えないように。

私の考察が特に洞察に富んでいるわけではまったくないのに、論理について何かを今一度書けるということがいかに強く私を幸福にするかというのは、不思議で奇妙なことだ。それでも単に論理だけと一緒に居られるということが、私に幸福感を与えるのだ。再び守られ、再び我が家に在り、再びぬくもりの中に居られるということ、それが私の心の求めるものであり、私の心をかくも幸せにするものなのだ。

一八日
ものを書く技法とは、その背後で心が自分の顔を好きなように切り整える、一種の仮面である。

真の謙虚さとは、一つの宗教的問題である。

一九日
本当に自分のことを理解していない人たちと話すとき、常に人は自分が馬鹿にされたと感じる、少なくとも私はそうだ。そしてこれはここでは繰り返し起こる。完全な疎外とこの不愉快な体験のどちらを選ぶかだ。それどころか次のようにさえ言えるだろう、この危険に陥ることなく話せる人間がここにも一人か二人はいる、なぜ他の人間との交際を完全に絶たないのか、と。しかしそれは困難で私にとって不自然なのだ。難しいのは、人と話しながら、互いによく理解しえないようなことには触れないことだ。誤解につながるに違いないことには触れずに真剣に話すこと、私にとってそれはほとんど不可能なのだ。

二二日
 本当に我々の時代はあらゆる価値の価値転倒の時代である(人類の歩みがある角を曲がり、以前の上が今は下である、など)。ニーチェは今起こっていることを目論んでいたのか、それとも彼の功績はこれを先んじて予感し、それに対する言葉を見つけたことにあるのか? 芸術においても、優れた業[ドイツ語では「作品」も意味する]によって永遠の生命を無理やり手に入れることができると信じる人間と、神の恵みに身を委ねる人間が存在する。

 今日の咽頭炎みたいに体に具合の悪い所があると、私はすぐにとても不安になり、もっとひどくなったらどうなるのか、医者に診てもらわないといけない、ここの医者はまったくだめだ、多分長い間講義を休まないといけない、などと考える。あたかも神様が、ここではお前を妨げずにおく、という契約を私と結んだかのように。もし他人がこんな不安を抱いているのを見たなら、「とにかくそれを甘受せねばならない」、と私は言う。享受ではなく甘受する心構えをするというのは、自分自身の場合とても難しい。
 人は(自分たちに演じられている)劇として、喜んで他人のうちに英雄を見る。しかし自分自身が英雄であるということは、それがどんなに些細なことであっても、まったく違った味がするものなのだ。

もれ出てくる光の中での英雄的精神は、派手な光の中でとは違った色彩を帯びる([この考察は出来が]良くない)。
 むしろ違いは、眺められた料理と食べられた料理の違いだ。なぜならここで経験は本当にまったく違っているからだ。

一一月一日
私の睡眠の邪魔をするものは、私の仕事の邪魔もする。口笛に会話。でも機械の騒音は違う、少なくともその度合いはずっと小さい。

九日
 愛国心とは、一つの観念に対する愛だ。

一六日
睡眠と精神的仕事は多くの点で互いに対応している。明らかにこれは、どちらにも注意を一定の物事からそらすということが含まれているからだ。

二六日
神と結ばれている存在は強靭である。

一九三一年一月一六日
 私の人生には、自分が他人よりずっと頭がいいという事実の上に自分の人生を築こうとする傾向がある。しかし自分がそれほどには他人より頭がよくないのではないかと見まわしてみてこの想定が壊れそうになる時、その時初めてこの想定が正しいにもかかわらず、あるいは正しいとしても、これがどれほど誤った基礎なのかに気づく。ともかく他の人間が皆自分と同じくらい頭がよいという想像をしなくてはならない、と自分に言う時、それによって私はいわば生まれつきの長所、親譲りの財産を放棄しているのだ。──それでは善意のみでどこまで行くのか見ようじゃないか、自分にこう言うとき、私は自分の卑小さを意識してしまうのだ。

それとも私は次のように言うべきか、自分の中にあって、ある性格の標識と見なしたがるものの中のどれだけ多くが、単なるみすぼらしい才能の結果に過ぎないことか! と。

これはほとんど次のようなことだ。ある男が自分の軍服の勇敢勲章を見て、「俺はまったく勇敢な男だ」と言うが、やがて多くの人間に同じ勲章を見つけて、これは勇敢さの報酬ではなく、ある特定の技能の認証なのだ、と自分に言わなければならなくなる。

自分が師匠だと感じたい場所で、繰り返し自分は生徒だと思ってしまう。
 自分はものをたくさん知っていると思っていたが、他人と比べると何も知らないことに気づく生徒のように。

一七日 土曜日
 今一番肝心な時期なのにマルガリートとの関係に考えが行ってしまって、仕事、つまり講義の準備をするのが難しい。ほとんど自分が与えるものだけから満足を得られる関係。仕事をさせてくれるよう神に願わなければならない。

二七日
過去の時代の音楽というものは常に時代自身の特定の良き、正しき規範に対応している。だから我々はブラームスの音楽にケラーの原理を認めたりするのだ。それゆえ今日、あるいは少し前に見出された良き音楽、つまり現代的な音楽は、馬鹿げたものに見えざるを得ない。なぜなら今日言い表されている規範のいずれかに対応しているとすれば、それはつまらないものに違いないからだ。この命題は理解しやすいものではないが、それはこういうことなのだ。たとえそのために今日正しいことを公式化しようとしても、それはどれほど利口な者でもできないほど大変なことであって、言葉で言い表されているいかなる公式や規範も無意味なのである。真理はいかなる者にとってもまったくの逆説と響くだろう。そして自身のうちに真理を感じる作曲家は現在言い表されているすべてのものと対立せざるを得ず、そのため現在の基準では馬鹿げたナンセンスなものに映らざるを得ないのである。しかし人を惹きつけるような風に馬鹿げているのではなく(というのも、そうだとすると根本においてはまだ今日的見方に対応していることになるから)、何も語らないがゆえに馬鹿げているのである。いくつかの少数の作品に見られるように、真に意義深い創造を行った時のラボールは、こうした作曲家の一例である。

宗教的人間は歩くときに上を向いている、非宗教的人間はまっすぐ前を向いている、この点だけで両者を区別する世界を想像することができる。そしてここでの上を向くという設定は事実我々のある宗教的仕草と関係している。しかしそれは本質的なことではなく、逆に宗教的人間がまっすぐ前を向くのであっても構わない。私が言いたいのは、この場合、宗教性は言葉ではまったく言い表されないように見えるし、それでもあの仕草は、我々の宗教的経典の言葉とまったく同じだけのことを語っている、ということである。

二月

五日
 我々は自分の皮膚の中に捕らわれている。

七日
授業ができるようになるために、私には途方もないエネルギーが必要である。少しでも無気力になったり、すぐに講義の準備ができなくなったりするとき、これがわかる。

第九交響曲の合唱導入前の三つの変奏は、歓喜の早春、歓喜の春、歓喜の夏と名づけられるだろう。

もし私の名が死後も生き続けるなら、それは偉大な西洋哲学の終点としてのみである。──あたかもアレキサンドリアの図書館を炎上させた者の名のごとくに。

八日
私には少し感傷的になる傾向がある。ただ感傷的な関係への傾向はまったく無い。──感傷的言語への傾向も無い。

 ある人間の思い出にとって、独りよがりほど永遠に有害なものは無いと私には思われる。謙虚さという衣装をまとってそれが登場する場合でも。

 歳をとるにつれて、ますます私は論理的に視野が狭くなる。
 私の物事を一挙に見る力は衰えている。そして私の思考は息が短くなっている。

哲学の仕事とは、無意味な問いについて精神をなだめることである。そうした問いを抱く傾向の無い者に哲学は不要である。

九日
 私の思考は、すぐ忘れないようにしようとすれば目覚めた直後に書き留めねばならない夢のようにうつろいやすく、たちまち消えてしまう。

一〇日
 かつて数学のローテ教授が私に、ヴァーグナーの効果的な活動によってシューマンが本来持っていた影響力の大部分は奪われてしまった、と語ったことがある。──この考えには多くの真理が含まれている。

一三日
 読者は私の魂に麻酔をかける。

パンとゲーム、ただし数学や物理学でさえゲームであるという意味でもゲームも含めて。サッカー場におけるのと同様、芸術や実験室においても、人々の精神が現れるのは常にゲームにおいてである。

一四日
人は乏しい食料に胃袋を慣れされることはできても、それに体を慣れさせることはできない。胃袋がもはや何の異議申し立てもせず、それどころかさらなる食料を拒否するまでに、すでに至っている場合でも、体は栄養不足に苦しんでいるのである。同じことが好意や感謝といった気持ちの動きを表出することについてもいえる。以前はなんでもなかったことにも尻込みするようになるまで、これらの気持ちの表出を人為的にせき止めようと思えばできるだろう。しかしその場合も、魂の他の組織は栄養不足に苦しんでいるのである。

一九日
私は、大小のあらゆる可能な浅ましさを、自分自身それを経験したことがあるため知っている。

二〇日
たいていの人は行動するに当たって、抵抗の一番少ない進路を進む。私もまたそうである。

二二日
ハーマンは神を自然の一部と見なし、同時に自然だとも見なしている。
 そしてこれによって、「自然がいかにして自然の一部となりうるのか?」という宗教的パラドックスが表現されてはいないか。

ハーマンへの手紙においてモーゼス・メンデルスゾーンがすでにジャーナリストとして登場しているというのは興味深いことである。

ハーマンやキルケゴールといった書き手とのつきあいは編集者を思い上がらせる。[アンゲルス・シレジウスの]『ケルビムのさすらい人』の編集者は決してそうした誘惑を感じないだろう、ましてやアウグスティヌスの『告白』やルターの著作の編集者ならなおさらである。
 多分書き手のアイロニーが読者を思い上がらせがちになる、ということだろう。

そしておよそこういうことだ、彼らは自分が何も知らないことを知っていると言う、しかしこの知識について彼らは驚くほど思い上がっているのだ。

当たり前の道徳律に私は興味を持たない。少なくとも他のどんな自然法則に対するほどの興味も持っていない、そしてある人間が道徳律を破る理由のほうにより興味を持っている。道徳律が当たり前である場合、私はその侵犯を擁護したくなるのだ。

二五日
今日において誰かがカトリックからプロテスタントに、あるいかプロテスタントからカトリックに改宗するという考えは(他の多くの人にとってそうであるように)私にとってはばつの悪いものである(それぞれの場合で違った風に)。そこでは(今や)伝統としての意味しか持たないことが、信念の問題として変更されるのである。それはあたかも誰かが我々の国の葬儀の風習をよその国のものと交換しようとするようなものである。──プロテスタントからカトリックに改宗する者は私には精神的な怪物に見える。どんな良きカトリックの司教でも、もし非カトリックに生まれていたならそんなことをしなかっただろう。そして逆方向の改宗は、ある底なしの愚かさを示している。
 おそらく第一の改宗はある深遠な愚かさを、第二の改宗はある浅薄な愚かさを示している。

三月一日
マルガリートは私のことが特に好きなのではない、と想定する根拠が今やある。そしてこれに関する事態は私にとって奇妙なものだ。私の中のある声は、それなら終わりだ、この辺にしておけ、と言う。──そしてもう一つの声は、そんなことに屈してはいけない、その覚悟をしなければならない、どんなに望みのことであっても、あることが起こるのを前提にしてお前の人生を築いてはいけない、と言う。
 そして最後の声が正しい。ただそれに従うとは、まさに生き、そして痛みに苦しむ人間の場合である。その人間は痛みによって生きる喜びが奪われないように闘わなければならない。そして彼は弱さが自分を襲う時に対する不安を覚える。
 もちろんこの不安自体が一つの弱さ、あるいは臆病さでしかない。
 要するに人は常に喜んで休息したいのであり、闘わねばならぬことなど望みはしないのである。神が彼女とともにありますよう!

 自分が最も愛するものを結局は神の手に委ねられず、むしろいつも自分の手で弄びたいと思う者は、それに対する正しい愛を抱いてはいないのである。つまりこれが愛に備わるべき厳しさなのだ。(私は『ヘルマンの戦い』とヘルマンが盟友にたった一人の伝令しか送ろうとしなかった理由を念頭においている。)
 確実な予防措置を講じないというのは、安易なことではなく、むしろこの世で最も居心地の悪いことなのだ。

 ベートーヴェンはまったくのリアリストだ。彼の音楽はまったくの真理だ、と私は言っているのだ。私はこう言いたいのだ、彼は人生をまったくそのあるがままに見て、それからそれを高めるのだ、と。それはまったく宗教であり、宗教的な詩などではない。それだから、他の者達が苦しむ者を慰めるのに失敗し、苦しんでいる者が、「この苦しみはそんなものじゃないのに」と自分自身に対して言わなければならないときに、ベートーヴェンは本当の痛みにおいて[苦しんでいるその人を]慰められるのである。彼は決してきれいな夢の中の気休めを言わずに、世界をそのあるがままに英雄として見ることにより、世界を救うのである。

 ルターはプロテスタントなどではなかった。

二日
私は並外れて臆病であり、戦場で臆病者が振る舞うように人生で振る舞っている。

七日
この数か月の仕事で疲れた、そしてマルガリートとのつらい事態に打ちのめされている。私はここに一つの悲劇を予見する。でも要は一つのことしかないのだ、最善をつくし、さらに仕事をすること。

三月一一日
繰り返し何度も思い出されるエンゲルマンの卓抜なコメント。私たちがまだ一緒に働いていた時のこと、[姉グレーテルの住宅の]建築中に彼は、建設業者との打ち合わせの後で私に言った、「この人間と論理について君は話し合えないよ」!──私、「私は彼に論理を教えよう」──彼、「なら彼は君に心理学を教えてくれるだろう」。

五月六日
 使徒であるとは一つの生き方である。それは部分的には多分その者が語ることのうちに表されるだろう。ただしそれが事実であるということのうちにではなく、それを彼が語るということのうちに表されるのである。観念のために苦しむというのが使徒であることの本質をなす。しかし、「この男は使徒である」という命題についても、命題の意味はその検証の方法であるということは成り立つ。ある使途を記述するとは、ある生き方を記述することである。この記述が他人に与える印象については、彼らに委ねなければならない。ある使途を信じるとは、彼としかじかの関係を持つこと、──行為を通じた関係を持つことである。

もうこれ以上怒りたくないと思うなら、喜びもまた違ったものにならなければならない。それはもはや怒りの相関物であってはならないのだ。

キルケゴールへ、私があなたに一つの生きかたを描くから、あなたがそれとどう関係しているかを見てみなさい、そのように生きることがなおあなたを惹きつける(そのように生きるようせきたてる)かどうか、あるいはそれに対して自分が他のどんな関係を持つのか、を見てみなさい。この描写を通じて私は、いわば、あなたの生きかたを和らげたいのだ。

 私の思考がどの程度まで飛行に成功しているのかはどうでもよいことだ(つまり、私にそんなことは分からないし、それについてあれこれ言いはしない)。とにかくそれは跳躍なのだ。

「これは善い、神がそのように命じたのだから」、これは無根拠性の正しい表現である。

倫理的命題は、「汝これをなすべし!」とか「これは善い!」といった内容を持っており、「これらの人間はこれが善いと言っている」という内容を持ってはいない。しかし倫理的命題とは一つの個人的な行為なのである。事実の確認などではないのだ。賛嘆の叫びのようなものなのだ。「倫理的命題」の根拠付けとは、その命題を、自分にある印象を与える別の命題へと連れ戻そうとすることに過ぎないのだということをぜひとも考えよ。もしお前があれに対する嫌悪もこれに対する賛嘆も感じていないのなら、その名に値するどんな根拠付けも存在しないのだ。

ピアノに向かって、ピアノを使って作曲された曲、ペンを使って考えながら作曲された曲、内的な耳だけで作曲された曲、それらはまったく違った性格を帯び、まったく違った種類の印象を生み出すに違いない。
 ブルックナーは内的な耳とオーケストラ演奏の想像によって、ブラームスはペンによって作曲したのだと私は断固として信じている。もちろんこれは現実よりはずいぶんと単純な描写だ。しかしそれはある特徴を言い当てているのだ。

 これに関する情報は作曲家の譜面から得られるはずである。そして実際ブルックナーの譜面は、私が思うに、不器用でぎこちなかった。

ブラームスのオーケストラの響きの色は、道標の色である。

いつであれ悲劇というものは「もし……でなければ、何も起こらなかっただろう」という言葉で始めることができよう。

(もし彼の洋服の端が機械に巻き込まれなかったら?)

しかしこれは、一つの出会いが我々の全人生を定めうる、ということのみを悲劇に言わせようとする一面的な見方ではないか?

私が信じるところでは、仮面で演じられるような劇が今日存在しうるだろう。その登場人物は、様式化された人間のタイプそのものである。こうしたことはクラウスの著作において明瞭に見られる。彼の作品は仮面で演じられうる、いや、演じられねばならないだろう。もちろん、これはこうした作品の抽象性に呼応しているのである。そして私の考えている仮面劇とは、総じて精神的人格の表現なのである。そのため(もあって)この劇への傾向があるのは、おそらくユダヤ人だけである。

喜劇と悲劇の対立は、かつて常に演劇的空間概念をアプリオリに分割するものとして強調されてきた。そして当時は、喜劇は人間のタイプに、悲劇は個人に関わる、といった一定の考察が人を驚かすことができた。しかし実際には、喜劇と悲劇の対立とは、演劇空間から一方を取り除くと他方が残るというものではない(長調と短調がこうした対立でないのと同様に)。それらはむしろ多数の可能な演劇の種類の中で、ある特定の(過去の)文化にとってのみそれ以外にはありえないと思われた二つの種類なのである。正しい比較とは、現代[音楽]の調性との比較である。

 過去の文化的諸時代の理論家に特徴的だったのは、アプリオリなものを、それが存在しない所に見出そうとしたことである。
 あるいは、過去の文化的諸時代に特徴的だったのは、「アプリオリ」という概念を生み出したことである、と言うべきかもしれない。

というのも、もし彼らが最初から事態を我々が見るように見ていたなら、彼らは決してこの[「アプリオリ」という]概念を生み出さなかっただろうからである(その場合、世界は偉大な──重要な、と言いたいのだ──誤りが存在しないまま進行していただろう)。しかし現実には、こうした理屈をこねることはできない。というのも、この概念は文化全体に根ざしていたのだから。

 人が誰か他人を軽蔑していることは、それが無意識的(パウル・エルンスト)と呼ばれるものにすぎなかったとしても、次のようにして軽蔑している当人に明らかにすることができる。すなわち、現実には一度も起こらなかった(そして多分これからも起こらないような)ある特定の状況をその人に示し、その人が自分はその状況でしかじかに振る舞うだろうと、そしてその振る舞いによって軽蔑の念を表しているだろうと認めざるを得ない場合に、このことは明らかにされるのである。

もしキリストの奇跡、例えばカナの結婚式の奇跡[ヨハネによる福音書、第二章]をドストエフスキーがしたように理解しようとすれば、それは象徴として理解しなければならない。水をぶどう酒に変えるのはせいぜい驚くべきことであるに過ぎず、そうしたことができる人間を我々は呆然と見つめるだろうが、それだけのことである。つまりそれは素晴らしきことにはなりえないのだ。──婚礼の人たちにキリストがぶどう酒を調達してやるというのも、彼らにぶどう酒をあのような前代未聞のやり方で届けてやるというのも素晴らしきことなのではない。奇跡とはこうした行為にその内容と意味を与えるものなのでなければならない。そして奇跡ということで私が意味するのは、尋常でないことでも、現に起きた出来事でもなく、そうした出来事がなされる精神、水のぶどう酒への変化がそれの象徴、(いわば)それを示すジェスチャーに過ぎないような何かなのである。もちろんそれは、こうした尋常でないことをなしうる者のみが示しうるジェスチャーである。奇跡が我々に語りかけるものであるのなら、それはジェスチャーとして、表現として理解されなければならない。奇跡とは、それを奇跡的な精神でなす者がなした場合にのみ奇跡なのである、とも言えるだろう。この奇跡的精神がなければ、それは単に異常で奇妙な事実であるに過ぎない。それが奇跡だと言えるために、私はいわばすでにその人物を知っていなければならないのだ。そこに奇跡を感じるために、私は全体を本当に正しい精神で読まなければならないのだ。

おとぎ話で魔女がある人を野獣に変えるという話を読むときも、私に対して感銘を与えるのはやはりその行為の精神なのである。
(ある人間について我々は、もしできるのであれば、彼は敵をにらみ殺すだろう、と言う。)

かつて偉大な作曲家の下にいた後代の作曲家たちが、単純で調和的な進行の曲を作曲する場合、彼らは自分たちの祖先への賛意を表明している。
 まさにこうした瞬間に(他の作曲家たちが最も感動させる時に)、マーラーは私にとってとりわけ耐えがたく思えるのだ。そうしたとき私はいつも言いたくなる。君はこれを他の作曲家から聞いただけじゃないか、それは(本当は)君なんかの物じゃないのだ、と。

 私はすべてを自分の虚栄心で汚してしまう。

ある者にとって教育(教養の獲得)とは自分を自分本来の財産へと導くことにすぎない。その人はそれによっていわば父の遺産を知るにいたるのである。他方、別の者は教育を通じて自分の本質にそぐわない型を身につける。こうした者にとっては、たとえまったく無教養のままだとしても、教育を受けないでいるほうが良いだろう。

 臆病さからではなく、正義感から、あるいは他人への配慮から正しくありたいと思う者は幸福である。──私が正しくする場合、私の正しさはたいてい臆病さに由来する。

 ついでながら言えば、自分の中の、いわば宗教的次元で生じるあの正しさを私は断罪しない。自分の欲望と嫌悪の汚らわしい低地から私はその次元へと逃れる。この逃避は、それが汚れへの恐れから生まれる場合、正しい。

つまり私がより精神的な次元に赴く場合、その次元においては自分は人間で在ることができるのだが、そこでは私のすることは正しいのだ。──これに対して他の人たちはそれほど精神的ではない次元においても人間で在ることができるのだ。
 まさに私は建物のその階に彼らのような権利を持っていないのだ。そして彼らの次元においては、正当にも自分に劣等感を感じるのである。

私はもっと希薄な大気の中で生きなければならない。そこに属しているのだ。そしてもっと濃い気圏で生きようと望むのを許されている他の人々と、共に生きようという誘惑に屈してはいけない。

哲学においてと同様に人生においても、うわべだけのアナロジーが我々を惑わす(そして他人がすること、するのを許されていることへと我々を導いてしまう)。そしてここでも誘惑に対抗する手段はただ一つしかない。ここでの事情はあそことは違うのだよ、とささやく小さな声に耳を傾けることである。

ここで私は自分の虚栄心の最後の根底(最深部、のことを言っているのだ)をまったく暴露していない。

悲劇に感動するとき(例えば映画で)私はいつも自分で、ちがう、僕ならそうはしない、とか、ちがう、こんな風になるべきじゃない、と言う。ヒーローとすべての者たちを慰めたくなるのだ。しかしこれは私が出来事を悲劇として理解していないということである。それゆえ同様に私には(初歩的な意味での)ハッピーエンド[原語:グーテン・アウスガング(良き結末)]しか分からない。ヒーローの転落というのは私には理解──心の底からは──できない。つまりもともと私はいつもメルヘンが聞きたいのだ。(映画が好きなのもこうした理由からである)そしてそこで私はいつも感動し、思考に動かされるのである。すなわち、恐ろしく出来が悪くさえなければ、映画はいつも私に思考と感情の材料を提供してくれるのである。

私の兄ルディの写真には、どこかオーバーレンダーのようなところが、もっと正確に言うなら、昔の雑誌「フリーゲンデ・ブレッター」の良きイラストレーターたちのスタイルに似たところがある。

英国の建築家、あるいは音楽家(たぶん芸術家全般)がペテン師であることは、ほとんど確信してもよい!

私は絵筆の質を判断することはできないし、絵筆のことは何も分からない。絵筆を見てもそれが上質か悪質か普通なのか分からない。でも私は英国の絵筆は飛びっきり上等だと確信している。そしてまったく同じように、英国人は絵画のことが何も分からないと確信している。

ここ[英国]では材料は常に際立っているが、それを形にする能力が欠けているのだ。つまり人々に几帳面さも、知識も、器用さもあるのだが、技と微妙な感覚がないのだ。

 私の自己認識の仕方は次のようなものである。いくつかのベールが私を覆っている場合、まだ私ははっきりと見ることができる、つまりベールを。しかしそのベールが取り除かれ、自分の視線をもっと自分に近づけられるようになると、自分の像が自分にとってぼやけ始めるのだ。

 私はあまりにも簡単に多弁になりすぎる。──人は一つの質問、一つの異議で、私を、流水のごとく話すようにそそのかすことができる。話している途中に、自分が下品な水路へと向かっていると分かることが時としてある。意図している以上に話したり、人を喜ばせるために話したり、印象付けるために余計なことまで引っ張り込んだりするのが分かるのだ。そうした時、私は会話を修正し、もう一度もっと上品な軌道へと戻そうとする。しかし恐れのため(勇気がないため)軌道を少し変えるだけで、十分に変えようとはしない。そして悪い後味が残る。
 特に英国でこのことはよく起こる。意思疎通が初めから(言葉ではなく性格のせいで)とてつもなく難しいからである。その結果しっかりとした大地の上ではなく、揺れ動く筏の上で意思疎通の訓練をしなければならないことになる。というのも他人が自分を完全に理解しているかどうか決して分からないからである。そして他人が自分を完全に理解することは決してないのである。

一九三一年一〇月一二日

 たとえ人が夢の中で地獄を体験し、その後目覚めるのだとしても、地獄はやはり存在しているのだろう。

私の言葉はうまく訓練されていない(あるいは、全く訓練されていない)。つまりしつけが良くないのだ。──恐らくはたいていの人間の言葉がそうであるように。

かつてクラウディウスの本で、スピノザが自分自身について書いている箇所の引用を読んだことがある。でも私はその考察があまり気に入らなかった。そして今では、その考察を、具体的にどことは言えないが、ある点で信じていなかったのだと思えてくる。しかし本当のところ今思うのはスピノザは自分自身を認識していなかった、と私は感じているということである。これはすなわち、私が自分自身について言わなければならないことだ。

下らないおしゃべりはよせ!
彼[スピノザ]は自分が惨めな罪びとであることを認識していなかったようだ。もちろん今私は自分が惨めな罪びとだと書ける。しかし私はそのことを認識してはいない、認識しているならこんな風ではないだろう。
 認識という言葉は実に紛らわしい。というのも問題なのは勇気を必要とするある行為なのだから。

自叙伝について、それは劫罰を受けた者が地獄から書いているのだ、と言えるだろう。

ある命題には、その背後に存在するだけのものが詰まっている。

今自分の夢の中での気持ちが少し理解できる。

スピノザからのあの引用中の「知恵」という言葉について考える。私にはそれが、現実にあるがままの本当の彼[スピノザ]という人間がその背後に隠れる(自分から隠れる、と言いたいのだ)、ある究極的には空しいもののように思われた(そして今も思われる)。
お前が何なのかを暴き出せ。

例えば、私は了見の狭い嘘つきな小人だ、しかし偉大な事物について語ることができる。

そしてそれらについて語っている間は、自分が自分の了見の狭さから完全に切り離されているように思える。しかしまったく切り離されてなどいない。

自己認議と謙虚とは一つのことだ。(これらは安っぱい考察だ。)

一三日
私は多くの商品に起こることが自分に起こってほしくない。それらは陳列台に並べられ、買い物客が見る。商品の色や艶が買い物客の目を捕らえ、彼らはそれらを一瞬手に取り、それから欲しくない物のように陳列台に戻す。

私の思考が無傷で生まれてくることは滅多にない。
 生まれたとき、それはどこかが曲がっているか折れている。さもなくば思考は総じて早産であって、まだ言語の中で生きてゆく力がない。その時小さな命題の胎児が生まれるが、最も重要な手足はまだそろっていないのだ。

若い頃のベートーヴェンの作品のメロディーは(すでに)、例えばモーツァルトのメロディーとは違った種族の顔立ちをしている。この種族に似つかわしい顔のタィプを描くことができるだろう。その中でも特にベートーヴェンの属する種族の顔は、丸顔であれ四角い顔であれ、ずんぐり、がっしりしており、モーツァルトの種族は繊細ですらりとしているが丸みを帯びている。そしてハイドンの種族はオーストリアの相当数の貴族のように面長でほっそりした顔をしている。それともここで私はこの人々の外見について自分が抱いている像に惑わされているのか。そうではないと信じる。

 いかにある素材がある形式に抵抗するかを見るのは興味深いことである。いかにニーベルンゲン神話という素材が劇という形式に抵抗するかを。この素材は決して劇になろうとしないし、決して劇にはならない。それは詩人や作曲家が自ら叙事詩的になろうと決心した場合にのみ、彼らに従うのである。それゆえ「指輪」で後世に残る本物の箇所はどれも、せりふや音楽が物語を述べている叙事詩的な箇所なのである。そしてそれゆえに 「指輪」で最も印象深い言葉とはト書きなのである。

私は哲学をする際の自分の思考の動き方にいささかほれ込んでいる。(そして多分私はこの「いささか」という語を省くべきである。)

ついでに言えば、これは私が自分の文体にほれ込んいるということではない。私ははそのようなことはない。

ものは、 それが現実に真剣である程度においてのみ真剣なのである。

多くの人が自分の話すのを喜んで聞くように、私は自分が書くのを喜んで聞く、多分そういうことなのか?

何か考えがお前に浮かぶというのは天の贈り物である。しかし問題は、それを用いてお前が何をするかだ。

もちろんのことだが、正当にも、こうした素晴らしい教訓もまた、それに倣ってお前が行動する一つの行為なのだ。(前の命題で私はクラウスについて考えていた。)

お前自身を認識せよ、そうすれば自分が繰り返しあらゆる仕方で哀れな罪びとであることが分かるだろう。しかし私は、決して自分が罪びとでありたくないと思い、あらゆる方法で逃れようとする(この判定から逃れるための扉としてすべてを用いる)。

私の正直さはいつもある特定の地点で行き詰まってしまう!

歯医者て虫歯に穴をあけられる時、虫歯の様子がよく分かっているような気がするように、人は穴をうがつように考えながら、ある思考のあらゆる場所、あらゆる穴を認識し、そして再認するのである。

私が、いわば、魂の中の劇場で(キルケゴール)演じていることは、魂の状態をより美しくするのではなく、(むしろ)より忌むべきものにする。それなのに私は繰り返し何度も、舞台の美しい場面を通じて魂の状態をより美しくしているのだと信じてしまう。
 というのも私は、全体を外から眺める代わりに、その劇場の観客席に座っているからである。なぜそうするかといえば、私は飾り気がなく、平凡で、無愛想な大通りより、暖かくて快適な観客席に座るほうが好きだからだ。

そうなのだ、ただわずかの間だけ私は屋外へと出てゆくのだ、そして恐らくそれでさえ、いつでも暖かさの中に逃げ戻れるのだと感じる場合にのみ。

他人の好意なしでいることは、私にはまったく不可能だろう。というのもこの意味での私の自己はあまりにも小さい(あるいは、まったくない)からである。

 恐らく私の自己とは、自分が本当に拒絶されたと感じる限りにおいてのみ存在するのだ。 

 そして拒絶されたように感じると私が言う場合、それはこの感覚の表現ではまったくない(あるいは単に、表現であることはほとんどないと言うべきか?)

私はしばしば自分がクラウスや彼に類した人々にかなわない事に思い悩んできた。そしてこうした考えを自分に突きつけては傷ついてきた。こんなことを考えるとは、いったいどれほど巨大な虚栄心が私にはあるのか。

一〇月二四日
 椅子や家の寸法取りの秘密とは、それによって対象の把握が変化するということである。これを短くすると、それはこの部分の延長のように見えるし、長くするとまったく独立した部分に見える。これをもっと分厚く頑丈にすると、もう一方がそれに支えられているように見えるし、薄くするともう一方に寄りかかっているように見える、等々。
 本当に大切なのは連続的な寸法の相違ではなく、把握の質的な相違なのである。

 ブラームスのオーケストレーションには色彩感がないと批判しようとするなら、そもそもブラームスの主題には無彩性が存在しているのだと言わなければならない。ブルックナーの主題がすでに色彩に富んているように、ブラームスの主題はすでに白黒なのである。何らかの訳があって、ブルックナーは実はいくつもの主題を一つの体系へとまとめ上げたのてあって、彼のオーケストレーションについては何も分からないのだとしても、そうなのである。 
 そこで次のようにも言えるだろう、それなら結局すべてはうまく行っているのだ、主題に同じような白黒の(無彩の)オーケストレーションが加わるのだから、と。ただ私としては、ブラームスのオーケストレーションの弱点とは、しばしばそれがはっきりと白黒〔無彩的〕になっていないという点にこそあるのだ、と思うのだが。
 そこから次に、何かに色彩が乏しいと思われるのは、現にそこにある色彩が我々を楽しませるように作用していないからだ、としばしば我々に思わせる印象が生まれる。しかし私が思うに、そうした場合に必要だが欠けているのは実は無彩性なのである。このことは実にしばしばはっきりと現れる。例えば〔ブラームスの〕バイオリン協奏曲の最終楽章で、きわめて特異な音の効果が用いられている箇所があるが(音があたかも枯葉のようにバイオリンから落ちるように聞こえる箇所)、それは聴衆には孤立した音響効果としてしか体験されない。それに対してブルックナーでは、音の響きが主題という骨格の自然な外皮として体験される(これと事情がまったく違うのがブラームスの合唱曲の音である。それは、ブルックナーのオーケストレーションがブルックナーの主題に根ざしているのとまったく同じように、主題に根ざしている。)(ドイツ・レクイエム第一部の最後のハープのパート。)

「寸法取りの秘密」について。寸法取りの本当の意味は、対象の様々な寸法の比率が変化するに応じて、それを違った名前で呼ぶことができるということのうちに示されている。(言うまてもないが、顔の部分の比率が変わると、「悲しげな」、「ふてぶてしい」、「荒々しい」等と表情の呼び力が変わるのとまったく同様に。)

自分の思考(哲学的思考)に対する喜びとは、私自身の奇妙な生に対する喜びである。これは生きる喜びなのか。

自分のことをたいした者だなどと思わず、しかも、自分のことをひとかどの者だと思う権利は誰にでもあるという(アナロジーによる)あらゆる証明は、誤りであるとはじめから断言すること、しかもその証明がどこかおかしいと見抜く前に(それどころか、たとえ決して誤りが見抜けなくとも)、そのように断言することはとても難しいことだ。

一〇月三一日
今日、哲学の研究への準備が最もよくてきているのは、依然として物理の学生である。自信に満ちた伝統の中にはまりこんている数学者に比べると、彼らの理解力は誰の目にも明らかな物理学の不明瞭さによって、より柔軟になっている。

私は自分のことを、他人の道徳的概念がその上に簡単にくっついてしまう非道徳的な核のようなものと見なしても、おそらく構わないだろう。 

その結果として、私が話すことそれ自体は決して私自身のものではないことになろう。というのも、なにしろこの核は話せないからである (それは私には白い死んだボールのように見える)。そればかりかこの核には印刷された紙きれがぶら下がっている。そしてこれらが話すのだ。もちろん元のままの状態で話すのではなく、他の紙きれとごちゃ混ぜをになり、核に対する位置関係に影響されながら話すのだ。――しかし、たとえこれが私の運命なのだとしても、私から責任というものが免除されることはないだろう。そしてこの運命を嘆いたりするのは罪あるいは無意味なことだろう。

お前は生まれついての徳というものを軽蔑しているな! 自分にそれがないものだから、と人は言えるたろう。――しかし、そうした生来の贈り物をまったく受け取らなかった人間でも人間で在りうる、ということのほうがもっと驚くべきことではないか、あるいは、同じくらい驚くべきことではないか!

「お前は苦境を徳に転化しているな」。確かに。でも苦境が徳に転化てきるということは驚くべきことではないか。

 これを次のように言い表せよう。死者には罪が犯せない、ということが驚くべきことなのだ。そして生者は確かに罪を犯しうる、しかし罪を断念することもまたできるのだ。
 私は善くも在りうる限りにおいてのみ悪しく在りうるのだ。 

時々私は人間を球として想像してみる。あるものは全部本物の金でできている。別のあるものは表層が無価値な材質でできていて、その下が金になっている。また別のものは表面が紛らわしいニセの金メッキで、その下が金。さらに別のものは金メッキの下がごみになっており、また別のものはそのごみの中に小さな本物の金の球がある等々、等々。

たぶん最後の種類が自分なのだと信じている。

しかしこうした人間を判別するのがいかに難しいか。ある人間について第一の層が偽物だと分かり、「そうか、あいつには値打ちがないのだ」と人は言う。というのも本物の金に金メッキがしてあるとは誰も思わないからだ。あるいは金メッキの下にガラクタを見つけて、「当然だ! こんなことだと思っていた」と人は言う。だが、その場合でもガラクタの中にまだ本当の金が隠れているに違いない、こう想像することは難しいのだ。

もし対空砲が彩色されていて、上空からは樹や石のように見え、本当の輪郭が分からなくなり、その代わりにニセの輪郭がこしらえてあったなら、この物を判別するのはいかに難しいことか。次のように言う者も想像できよう、「つまりすべてはニセの輪郭なんだ、だからこれには本当の棆郭というものはないのだ」。だがそれには確固とした本当の形があるのであり、ただ普通の方法ではそれを判別できないのだ。
 かつて姉のグレーテルがエマソンの『エッセー』 のある箇所を読んでくれたことがある。そこでエマソンは友人のある哲学者を (名前は忘れてしまった) 描写してしいた。姉はこの記述から、この人物は私に似ていたに違いない、と読み取れたと信じていた。私は内心、何たる自然のいたずらだろう、と考えた。――カプト虫が木の葉のように見えるとはなんという自然のいたずらだろう! でも、その場合にも本当のカプト虫は存在するのであり、人造の木の葉が存在するわけではない。

正しく書かれた命題においては、一つの粒子が心や脳からはがれ落ち、命題として紙の上に飛来する。

私の命題はたいていの場合、自分に浮かんだ視覚的な像の描写だと思う。 

 リヒテンベルクの機知とは、ある純粋な蠟燭においてのみ燃える炎である。 

「私はこうした嘘をつくことができる――あるいはこうした嘘もつくことができる――あるいは最高の方法としては、真実をまったく率直に語ることによって嘘をつくことができる」。私はしばしばこのように自分自身に対して語る。 

一一月二日
 あるところでドストエフスキーは、今の悪魔とはくだらないことを恐れる心という姿をしている、と書いている。そしてこれは本当に違いない。というのも、くだらないことほどに私が恐れるものはなく、くだらないことほど私が無条件に避けたいとうものはないからである。しかし私には、これが他のすべての恐れと同じく一つの臆病さであり、あらゆる場所から追い出されてしまった噫病さが、それを最後の難攻不落の砦としているのがわかっている。あれやこれやの場所を放棄しても、臆病さの敗北が見かけだけのこととなるように、臆病さはそれを砦としているのである。というのも、噫病さは最後に平然とこの砦に戻り、そこでは安全だからである。

 もし私が人々に対して、自分について彼らに言うべきことを言ったなら、私は私を知っているほとんどすべての人の軽蔑と嘲笑に晒されるだろう。

 (ユダヤ人に対する表現としての)「祖国なき無頼の徒」とは「鷲鼻の無頼の徒」という表現と同水準のものである。何故なら人は欲しいからといってまっすぐな鼻が手に入るわけではないように、欲しいからといって祖国が手に入るわけではないからだ。

 罪を負った良心は簡単に告白できよう。虚栄心の強い人間は告白できないのだ。

 私は自分のどんな決定のとりこにもなりたくない。ただし決定が私を捕らえた場合は別だが。

 自分のためにではなく、その者のために人を抱きしめよ。

七日 
 良心と思考のために、今心はまったく乱れている。

上下二つの部屋に二つの世界が宿れるとしたら、それは奇妙なことだ。上で大騒ぎをしている二人の学生の階下て私が暮らすとき、それが起こっているのだ。それは本当に二つの世界であり、いかなる意思疎通もありえない。 

もしマルガリートを失うようなことがあれば、自分は (内面で) 修道院に入らなければならないかのような感覚が今ある。

 マルガリートの法的な婚約のことを考えると、吐き気を催す。違う、この場合、私は彼女のために何もできないだろう、そして私は彼女が酔っ払った場合のように彼女を扱わなければならないのだろう。すなわち、彼女が眠って酔いからさめるまでは、彼女と話さないことである。

確かに人はかつて住み慣れた家々が瓦礫の山となったその跡にも住めるはずだ。だがそれは困難である。自分では気づかなかったにもかかわらず、やはり人は部屋の暖かみとくつろぎに喜びを見出していたのである。しかし廃墟をさまよっている今、人はそのことを知る。
 今や精神のみが暖めてくれること、そして精神に暖められることに自分がまったく慣れていないことを人は知るのである。

 (風邪をひいたとき体を洗うとつらい、そして精神を病んているときには考えることがつらい)

私には享楽を放棄することはできない (つまり、放棄したくない)。私は楽しむことを放棄したくないし、英雄になどなりたくはないのだ。このゆえに私は、見捨てられることの刺しぬくような、そして恥じ入らせるような痛みに悩んでいる。

絶望に終わりはない。自殺もそれを終わらせることはない。人が奮起して絶望を終わらせない限りは。

絶望している人間とはりんごをどうしても欲しがるわがままな子供のようなものである。ただ人は普通わがままをやめるのがどういうことなのかを知らないのだ。それは手足の骨を折 (り、以前関節がなかったところに関節を作) ることである。

もう長い間腸の上部を圧迫し続けていた思考の古い断片がある機会に出てくることがある。その時、人はある命題の一部分に気づき、これこそ自分が何日か前にずっと言いたいと続けていたことなのだと悟るのである。

私にとってマルガリートとタラの関係に関する俗っぽい評判は、あまりにもぞっとするような、耐え難いものである。それを耳にするくらいなら世間から引きこもっているほうがまだましだ。
 私はどんな中傷にも耐えられる、だが俗っぽい中傷だけはだめだ。これは変ではないか?

自分の中で病んでいるのが精神なのか肉体なのか分からない。実験をし、いろんなことが現にあるのとは違っているという想像をしてみる。そしてその場合、自分の健康状態が直ちに正常になるだろうと感じる。だからおかしいのは精神なのだ。やる気がなく重い気分で座り込み、精神がいわば濃い霧の中にあって、一種の軽い頭痛が起きるとき、ひょっとしたら――あるいは、おそらく――マルガリートの愛を失うだろうという考えが浮かんてしまうのはそのせいなのだ!

汚物の中にはまってしまったら、できることはたった一つしかない、前に向かって歩くことだ。 苦労のあまりぶっ倒れて死んだとしても、嘆きながらくたばるよりましだ。 

 霊よ、我を見捨て給うな! すなわち、わが精神のか弱き霊的炎よ、消えることなかれ! 

 キルケゴールの著作には人をからかうものがある。そしてもちろんそれは意図的なものである。私に対して彼の著作が及ばす影響そのものが意図されたものかどうかは私には定かではないが。そして私をからかう者が、彼の問題に取り組むことを私に強いること、そしてその問題が重要であれば、これがいいことであることに何の疑問もない。。――それにもかかわらず私の中には、このからかいを非難する何かが存在する。それは単に私のルサンチマンにすぎないのか。もちろん私はキルケゴールが彼の著作で美的なものの不条理さをその名人芸で示していること、そしてもちろんそれを彼が意図して行っていることを知っている。しかし彼の美学的著作には、言ってみればすでにかすかな苦味が含まれており、まさにそれ自身において詩人の作品とは違った味わいを持っている、というのも事実である。彼は詩人ではないのに、いわば信じられないような名人芸で詩人をまねているのだが、人はその模倣の中に、彼が詩人でないことに気づくのである。
何かへと私をそそのかすために誰かが策を弄していると考えるのは不愉快なことである。確かにそのため (こういった策を弄するため) には少なからぬ勇気が必要だし、私にそうした勇気は――ほんの少したりとも――ありはしない。しかしそうした勇気があったとしても、それを用いるのが正しいことなのかどうかは疑問である。そうしたことをするためには、勇気に加えて隣人への愛の欠如が必要だと私は信じる。君が隣人愛と呼んているものは利己心なのだ、と言ってもいいだろう。ところでこれに加えて、私は利己心なき隣人愛というものを知らない。というのも私は他人の永遠の救いにはロ出しできないからである。私には次のようにしか言えない。私、自分の魂を気遣う私、は自分が他人に愛されたいと願っている、そのように他人を愛したい。

 ある意味で他人にとって永遠に最善なるものを欲することはできない。他人は私に対して、ただ地上的な意味において善くあれるだけなのであり、私の中で最高のものへの努力を示しているかに見えるあらゆるものに対して、敬意を示すことができるだけなのである。

自分の告白について考えるとき、「……もし愛がなければ……」という〔コリント人への第一の手紙13:1のパウロの〕言葉の意味を理解する。というのもこの告白も、もしそれが言ってみれば倫理的芸当として為されるなら、私にとって何のためにもならないからである。しかし私が言いたいのは、単なる倫理的芸当では不十分だったから告白するのを見送った、ということではない。告白するにはあまりにも臆病だったのだ。 
  (倫理的芸当とは、何が自分にできるのかを示すために私が他人に、あるいは単に自分 (自身) に対して演じる何かである。)

 私には兄クルトの精神状態が完璧に理解できる。それは私の精神状態より少しだけ不活発だったにすぎない。

 私の哲学における思考の動きは、私の精神の歴史、その倫理的概念の歴史、そして私の状況の理解の中にも再び見出されるはずであろう。 

 蚊 (の群れ) と闘わなければならない (に抵抗しなければならない) 者にとって、何匹かを追い払ったということは重要なことである。しかしそれは蚊と何のかかわりもない者にとって何の重要性もないことである。哲学的諸問題を解決するとき私は、あたかも自分が全人類にとってこの上なく重要なことを成し遂げたかのような感覚を持つ。問題が自分にとってこのように並外れて重要であるように思われるのは (あるいは、自分にとってこのように重要であるのは、と言うべきか)、自分がそれらの問題に悩まされているからだとは考えない。

一五日

 目覚めた直後、私はこの夢が、マルガリートとの関係を表現するために自分が必要としていた比喩だと解釈した。つまり、彼女と一〇〇〇本のロープで結ばれているように見えるだけで、実際にはそれらのロープは自分の周りにぶら下がっているにすぎず、私を誰と結び付けているわけでもなく、私たちの絆とは、細い荷造り紐のみだということである。

お前が成し遂げたもの、それは他人にとってお前自身以上のものではありえない。

 お前が費やしただけのものは、それらが支払うだろう。

キリストの教えが本当に言っているのは、すべての利口さを捨てよということである。

虚栄心を捨て去りたい、と私が言うとき、またもやそれを単なる虚栄心から言おうとしているのでないとは言い切れない。私は虚栄心が強い。そして私の虚栄心が強い限り、より善くなりたいという私の願望も虚栄心に満ちている。そんなとき私は、自分の気に入っている虚栄心のない過去の誰々のようになりたいと思うのだが、すでに心の中で虚栄心を「捨て去る」ことから得られそうな利益を計算しているのだ。舞台に立っている限り、何をしようとも人は役者にすぎないのだ。

私は自分の心の中で自分自身に耳を傾ける代わりに、早くも後世の者が自分について語っているのに耳を傾けている。もちろんこの自分自身とは、私をよく知っているがゆえにまったくありがたくない観客なのだが。

そして私がしなければならないのは、想像の中の他人に耳を傾けることではなく、自分自身に耳を傾けることである。すなわち自分を眺めている他人を眺めるのでなく――というのも私がしているのはこのことだから――、自分自身を眺めることである。自分から目をそらした上で他人を眺めるために、私はどんなに策を弄していることか。どれだけ際限なく何度もそうした誘惑にかられていることか。

宗教的な腹立たしさについても人は、「お前は腹を立てている、ゆえにお前は間違っている」〔原文は仏語〕と言うことかできた。というのも、確かなことが一つあるからだ。それは、腹を立てるというのは正しくない、怒りは確かに克服されねばならない、ということである。そこで問題となるのは、結局、相手が自身の言ったことに関して正しいと認められるかどうか、ということだけである。パウロが十字架に架けられたキリストはユダヤ人にとって腹立たしいものであると言うとき、それは確かにその通りであり、しかも腹を立てるのが正しくないというのもその通りなのである。ただ問題は、こうした腹立たしさの正しい解消とはいかなるものなのか? ということである。

 世界における歴史的出来事としての神とは、大きなパラドックスである、それは私の人生の中の、あの時、あの場所における特定の一行為が罪を負っていた、ということと同等のパラドックスである。すなわち私の個人史のある瞬間が永遠の意味を持つということは、世界史のある瞬間や期間が永遠の意味を持つということ以上のパラドックスではないものの、それに劣らぬパラドックスなのである。私は自分の誕生を疑える限りにおいてのみキリストを疑えるのである。――というのも私の罪がその中で生じたのと同じ時間の中で (ただ、ずっと以前に) キリストは生きていたからである。それゆえ次のように言わなければならない。もし善悪というもの全般が歴史的なものなら、神的な世界秩序とその時間的な始まりと中心というものも考えられうるのだ、と。

しかし、もし今自分の罪について考えるなら、私がそうしたことをしたというのは一つの仮説に過ぎないわけだから、なぜ私は、あたかもそれらについてはいかなる疑問もありえないかの如くにそれらを悔いるのだろうか。今それらのことを思い出しているということが私にとっての証拠であり、私の悔恨の根拠であり、自分は臆病でそれらを告白できないという非難の根拠なのである。

コルシカ島の辻強盗の写真を見て、考えた、キリストの教えを書き込むには、彼らの顔はあまりにも険しすぎ、私の顔はあまりにも柔らかすぎる、と。この辻強盗たちの顔は見るからに恐ろしく、無情であり、独特の冷たさと硬さを持っている。だが恐らくは、彼らが私よりも正しい生からかけ離れているわけではない。彼らは正しきものから外れたもう一方の側に立っているにすぎないのだ。

弱さとは恐るべき悪徳である。
一九三二年一月一一日
再びケンブリッジに戻る。多くのことを経験した後で、
私と結婚したがっている (!) マルガリート、家族のけんか、等々。――しかし私の精神はすでに年老いていて、未熟なことをするわけにはいかない。私がいかに年老いているかをマルガリートは感じていない。
自分が一人の老人のように見える。
 私の哲学の仕事は今、困難なものを迂回しているように見える。気晴らしのように、良心のやましさ無しには没頭できない娯楽のように見える。まるで病人の看病をする代わりに映画館に行っているみたいだ。

生まれてから死ぬまでずっと眠っているか、ある種の浅い眠りや夢うつつの中で生きている人間を想像することができる。本当に生き生きとした人間 (ほかならぬキルケゴールのことを私は考えている) に比べると、私の生とはそんなものだ。浅い眠りの中で生きているこうした者が、いつの日かわずかの間目覚めたなら、その者は自分が大した奴だとうぬぼれ、自分を天才の一人に数えることすら躊躇しないだろう。

私の自己叱責的な考察の中で、それでもやはり自分の欠点を自分で見つめるのは素晴らしいことだ、という感覚をまったく抜きにして書かれているものは、ほとんど一つとして無い。

一九三二年一月二八日
根本的に自分が自分自身の業績にいかに敬意を払っていないかは、私にとって次のことのうちに示されている。すなわち、ある別の分野で、哲学界での私に相当する存在であると考えてよい人間について、私は大きな留保無しには彼が重んじられることを許容したり、彼を高評価したりしないだろう、ということのうちに。
他よりもむき出しのままで、無からこの世を経て地獄へと赴く魂は、衣服をまとった市民的な魂よりも大きな印象を世界に残す。 

 マルガリートが忠実であり続けられるのは彼女の隠れ家としての私に対してのみである。誰か別の男に惚れることがあるとしても、彼女はそうすることができるし、そうすべきなのだ。その時、彼女の何に対して私が権利を持っているのかが明らかとなるだろう。私は、彼女の隠れ家としての私に忠実であるよう彼女を説得できる。それ以外のすべては、彼女の現在の窮地を食い物にすることだろう。

私は大部分の人間よりもむき出しの魂を持っている。私の天才とはいわば、そこにあるのだ。

ある人間の体からすべてを切り落としてみよ、両腕、両足、鼻、両耳をそぎ落としてみよ、その時彼の自尊心と威厳がどれほど残っているかを見てみよ、自尊心や威厳に関する彼の概念が、どこまて変化せずに保たれるかを見てみよ。こうした概念が身体の通常で正常な状態にどれだけ依存しているかを我々は知らないのだ。もし我々の舌に穴が開けられ、それに輪が通され、そこに紐が結わえられて引かれたなら、こうした概念はどのようになるだろうか。一人の人間の中のどれだけが、それでもなお残り続けるのか? こうした人間はどんな状態へと沈んてゆくのか? 自分たちが高く切り立った崖っぷちに立ち、自分たちの周りを深淵が取り囲み、その中ではすべてが違って見えるということを我々は知らない。

「グロッシェン」、「ターレル」といった古風な貨幣単位の採用、今日のオーストリアの何たるかに特徴的、そしてヨーロッパ諸国全般の状態に特徴的。
民族舞踊や民族衣装の復活、そしてある種の蒙昧化はこれらと関係している。

私の思考の基本的な動き方は、今日では一五―二〇年前とはまったく違うものである。

 そしてこれは画家が一つの方向から別の方向へと移行する場合に似ている。

――ユダヤ的精神とは大いに問題のあるものであり、温厚なものでは決してない。そして著述家がその情緒豊かな側面を強調するのは嘆かわしいことである。私はユダヤ人のジョークについて語っているフロイトのことを考えていた。

M.〔マルガリート〕は矯正役として私を必要としているのであり、彼女の唯一の所有者として私を必要としているのではない。 

時々私は、自分の理性が、負荷のかかった、今にも割れそうなガラス棒であるかのように感じる。

そんな時、私の精神は極端にもろいように思える。

睡眠中に、人が遠くや近くに旅することがてきる思考の空間が存在する。そして目覚める時、大小さまざまの距離から人は帰遠するのだ。
一九三六年一一月一九日  ショルデン
 およそ一二日前、ヘンゼルに自分の家系に関する嘘についての告白を書いた。それ以来繰り返し、自分はどのようにすべての知人に完全な告白ができるのか、そして、すべきなのかについて考えている。それを私は望むとともに恐れている! 今日は少し具合が悪く、風邪気味だ。「困難なことが実現できる前に、神は私の命を絶とうというのか?」と考えた。事が良くなりますように!

一一月二〇日
 疲れていて仕事をする気にならない。というか、本当のところはできない。ということは恐ろしい病気ではないだろう。座って休むことだってできるだろう。だがそうなると私の心は陰鬱になるのだ。私はなんと簡単に天の恵みを忘れるのだろうか!
 告白を一つ終えた今となっては、嘘でこしらえた建物全体を維持することはもはやできないかのように思われる、それは完全に壊れなければならないかのように思われる。すでにそれが完全に倒壊してしまっていたなら、どれだけよいだろうか! そうすれば草原と瓦礫の上に太陽が輝くことがてきるだろうに。
 私にとって最もつらいのは、フランシスに告白するということを考えることだ。彼の事が、心配だからであり、その場合自分が負わなければならない恐ろしいほどの責任が怖いからである。《それは愛のみが背負うことができるものである。神が私を助け給うように。》

二一日
私の手紙に対するヘンゼルの素晴らしい心を打つ返事を受け取った。君には感心する、と彼は書いている。何という罠! 他の友人や親戚に手紙を見せるのを彼は拒んている。だから今日ミニングにもっと長い、より徹底的な告白を書いた。それについて、うわついたことを考える誘惑に駆られているとは!

 ナットはしっかり締めておかないと、それが押さえておくべきものがまた動いてしまうので、すぐに元のようにゆるんでしまうのだ。
 私はいつも自分独特の上手な比喩がうれしくなる。それがかくも虚栄心に満ちた喜びでなかったらいいのに。

お前はキリストを神と呼ぶことなしに救い主と呼ぶことはできない。何故なら人間にはお前を救済できないからだ。

二三日
《私の仕事 (私の晢学的仕事) にも真剣さと真理への愛が欠けている。――ちょうど講義でも、何かが自分に明らかになって欲しいと願っているとき、それがもう分かっているかのように述べることでしばしばを噓をついてきたように。》

二四日
《今日告白とともに手紙をミニングに送った。告白は正直なものだが、それでもなお私には状況に見合った真剣さが欠けている。》

二五日 
《今日神が――これ以外には言いようがないのだから――私に、私はここ地元の人たちに自分の罪業を告白すべきだ、という考えを浮かばせた。そして私は、私にはできません、と言った。そうすべきだが私はしたくない。アンナ・レブニとアルネ・ドレグニに思い切って告白する勇気は私にはありはしない。自分が哀れなやつだということがこうして示されたのだ。この考えが浮かぶ少し前に私は、十字架に架けられることをいとわない覚悟がある、と自分に言っていたのだ。》
 結局のところ、すべての人間が自分のことをよく思ってくれたなら、私はどれほど喜ぶことか。それが偽りであり、それが自分で分かっていてもなおそうなのである。
 《これが私に与えられたのだ、そして私はこのことに対するほめ言葉を欲しがっているのだ! 我を戒めたまえ――!》

一一月三〇日
《風が吹いていて、考えを集中できない。――》
 
一二月一日
不条理に見え、その表面の不条理さが、いわば背後に存在する深みと絡み合っているような命題がある。
 このことは死者の復活についての思考と、それに結びついている思考に当てはまる。――しかしこうした命題に深さを与えるのは、その使用である、つまり、それを信じる人間が送るである。
 何故なら、 例えばこの命題は最高度の責任を表現できるからである。というのも、自分が裁判官の前にいると想像してみよ。自分が裁判官の前に立ったとき、自分の人生がどのように見えるか、自分自身にどのように映るかを考えてみよ。裁判官にどのように映るかとか彼が物分りがいいかどうかとか、寛大かどうかとかをまったく度外視するのだ。

「白もまた一種の黒である」
一九三七年一月二七日
《ウィーンと英国からの帰途、ベルゲンからショルデンへの旅程にて。良心は私に、自分自身が惨めな人間であるということ、弱いということ、つまり苦しもうとはしないこと、そして臆病であり、他人に、例えばホテルのポーターやボーイに悪い印象を与えることを恐れていること、そして淫らであることを示している。だが臆病さに対する非難が一番強く感じられる。しかし臆病さの背後にあるのは思いやりのなさ (と他人を見下すこと) である。しかし私が今経験している恥辱も、自分の外的な敗北を真理の敗北以上に強く感じている限りは、なんら善きものではない。私の自尊心と虚栄心が傷ついているのだ。
 私にとって聖書とは、目の前の一冊の本にすぎない。だがなぜ私は「一冊の本にすぎない」と言うのか? 目の前に一冊の本がある、一つの文書がある。この文書は、それだけでは他のどんな文書以上の価値を持つこともできない。
 (こうレッシングは言いたかったのだ。) この文書それ自身は、そこに書かれているどんな教えにも私を「結びつける」ことはできない。これは、私の手に入っていたかもしれない他のあらゆる文書と同様に、聖書について言えることである。もし私かその教えを信じるとすれば、それは、他の教えは私に伝えられなかったが、この教えが伝えられたからではない。むしろそれらは私に対して明白とならなければならない。そして私が言っているのは単に倫理的な教えだけではなく、歴史的な教義をも含んでいる。復活や審判を信じるよう私に命じられるのは書かれたものではなく、ただ良心のみなのである。確からしい何事かとしてでなく、別の意味で信じるように命じるのはただ良心のみなのである。そして私が信じないことが非難されうるのは、私の良心が (そんなものが在在するとして) 信じるよう命じた場合か、ある下劣さによって自分ではまったく分からない仕方で信仰にいたる事が妨げられた場合だけである。つまり次のように言うべきだと私には思われるのだ。この信仰についてお前は今まったく何も知らない。それはお前が何も知らないある心の状態であり、お前の良心がそれをお前に対して明らかにするまでは、お前と何の関係もないある心の状態である。それに対して今お前は、良心が言うことにおいて良心に従わなければならない。お前にとって信仰に関するいかなる論争もありえない。何故ならお前は何について争われているのかを知らない (識別できない) からである。説教は信仰の前提条件かもしれないが、その中で言われていることを通じて信仰を動かそうとすることはできない。 (もしこれらの言葉が信仰に結びつけることができるのなら、別の言華もまた信仰に結びつけられるだろう。) 信仰は信じることから始まるのだ。信じることから始めなければならない。言葉からはいかなる信仰も生まれない。もう十分だ。》

 ……しかしインクと紙に興味を持つにも様々な仕方があるのではないか? ある手紙を注意深く読むとき、自分はインクや紙に関心を持たないか? というのもいずれにせよそこでインクの線を注意深く跳めるのだから。――「しかし結局それらは目的のための手段だ!」――だが目的のためのきわめて重要な手段だ!――確かに我々にとって何の興味もないようなインクと紙に関する別の探究を想像することはてきる。我々の目的にとってはまったく本質的でないように見える別の探究を想像することができる。そうだとすると、我々がどんな興味を持っているかは、我々の探究の種類が示すということになろう。我々の対象は崇高なものである (と思われるのだ)、それゆえ我々の探究は瑣末な、そしてある意味で不確かな対象に関わるのでなく、破壊できないものに関わるべきなのだ (と我々は信じたいのだ)。
 [旅行中に、自分に非常に特徴的な次の現象を観察できる。私は人間を、彼らの外見や態度から特別な印象を受けない限り、自分自身より劣ったものと評価する。つまり私は彼らに対して「平凡な」とか「大衆の一人」といった言葉を使う傾向がある。多分私はそうは言わないだろう、しかし彼らを最初に見るまなざしがそう語っているのである。このまなざしにすでに判断が含まれているのだ。まったく無根拠で不当な判断が。いうまでもなくこうした判断は、たとえもっと親しくなった結果として、ある人がきわめて平凡、つまり皮相だと判明したとしても不当なものである。もちろん私は多くの点で普通ではなく、その意味で多くの人は私に比べると平凡だ。しかし私の非凡さは一体どこにあるというのか?]
 もし我々の探究が語と文を扱うのならば、語がかすれていると、読みづらいといったことがありうる意味での語や文ではなく、それよりもっと理想的な意味での語や文を扱うべきだろう。――それゆえ我々は、語の代わりにその「表象」を考察することを欲するようにと導かれるのである。我々はより純粋なもの、より明晰なもの、仮説的でないものへと向かいたいのだ。[これには手稿ノート第Ⅺ巻の考察が関係する。]

一月二八日
まだ船旅の途中だ。埠頭に着き、船を繫留しているワイヤーロープを眺めていた。すると、ロープの上を渡れ、という考えか浮かんできた。もちろんお前は何歩も行かないうちに海に落ちるだろう――しかし海は深くなく、濡れるだけで溺れはしなかっただろう。当然のことながら、何より私は笑い者になるか、さもなければ頭が少々いかれていると思われただろう。それを実行するという考えから私はすぐさま後ずさりした。そしてすぐさま自分に対して、俺は自由な人間ではなく奴隷だ、と言わなければならなかった。もちろんこの衝動に従うのは「非常識」だっただろう。だがそれがどうしたというのか⁉ 信仰が人間を幸いにするというのがどういう意味なのかが分かった。それは、信仰は人間を直接神のもとにおくことにより人間に対する恐怖から解放する、ということなのだ。人間がいわば皇帝直属になるのだ。英雄でない、というのは一つの弱さである。しかし英雄を演じるというのは、つまり決算において自分の負債を明確に、曖昧さを排して告白する勇気を一度も持たない、というのは、さらにもっとひ弱な弱さである。そしてそれはすなわち、謙虚になることである、それも、あるときにロにするいくつかの言葉においてではなく、生において謙虚になることである。
 理想を持つのは正しいことである。しかし自分の理想を演じようと望まないのはなんと難しいことか! そして理想を自分から切り離して、それがあるがままの場所において見るのはなんと難しいことか! それだけですら本当に可能なのか、――それともその上に人間は善くなるか、さもなくば、気がおかしくならなければならないのだろうか? この緊張は、それがもし完全に理解されたなら、必然的に人間を万物のもとへとつかわすか、あるいは破壊するのではないだろうか。
 神の恵みの中へと身を投じるというのは、そこからの一つの出口なのか?
 昨夜、次のような夢を見る。私はパウルとミニングと一緒に路面電車の前方のデッキのような所に立っていた。だがそれが本当にそうかどうかははっきりしなかった。パウルはミニングに、義兄のジェロームが私の信じがたいような音楽的才能にどれだけ感動したかを伝えた。前の日、私は「ディ・バッカンテン」という (あるいはそれに似た) 題名のメンデルスゾーンの曲で素晴らしい伴唱をしたのだった。私たちは家で家族だけの音楽会を催し、その曲を上演したのだが、私が並外れて表現力豊かに、そしてとりわけ表現力豊かな身振りで歌ったようだった。パウルとミニングはジェロームのほめ言葉にまったく同意しているように見えた。何度もジェロームは「何という才能なんだ!」(あるいは似たようなことを、これについてははっきりと覚えていない) と言った。私は手に黒い種が入った開いたサヤのついた植物を持っており、次のように考えた。もし彼らが君の音楽的才能が役立てられないのはとても残念だ、と言ったなら、彼らに植物を示し、自然は種子を惜しんだりしない、びくびくせず、安心して種を放り出すべきだ、と言おう、と。この全体がうぬばれに満ちていた。――目が覚め、自分の虚栄心に腹が立った、あるいは恥ずかしかった。これは過去 (約) 二ヵ月間とても頻繁に見た夢とは違った種類の夢だった。それらの夢で私は、見下げた振る舞い、例えば、嘘をつくといった、をしており、夢でよかった! という感覚とともに目覚めるのだった。この夢もまた、一種の警告と解釈する。《自分がまったく卑劣になりませんように、そして気がおかしくなリませんように! 神が私を哀れみますように!》

一月三〇日
《体の具合か悪い。非常に弱っており、めまいがする。自分の体の状態にちゃんと向き合おうとさえすれば! と思う。今でも自分は医者に行っていた子供の頃のままだ。そこでも常に本当の痛みと痛みの恐怖が入り混じり、どこまでが本当の痛みで、どこからが恐怖かも分からなかった》。
 それても我々の対象は崇高なのだ、――とすればどのようにして話された記号や書かれた記号を扱えるのか?
 たから我々は記号の使用について、記号と同じように語るのである (そしてもちろん記号の使用は対象ではない。本質的て興味深いものとしての対象が、その単なる代理としての記号と対立するのだ。)
 しかし記号の使用における深遠なものとはなにか? ここで私が想い出すのは、第一に、名には魔術的役割があるとしばしば考えられてきたということであり、そして、我々の言語の形式に関する誤解から生じる問題は常に深遠なものという性格を持っているということである。
《想い出せ!》

一月三一日
「時間」という名詞がいかに我々に一つの媒体のように見せかけているかを考えよ、それによって我々がいかにして (あちこちへと) 幻を追いかけるという誤りに導かれることがあるかを考えよ。
アダムが動物たちを……と名づける
《神よ、我を敬虔に、しかし張り詰めすぎぬように在らせ給え!》
 自分の理性のバランスが極めて不安定であるように感じる。平衡を乱すちょっとした衝撃が加わるだけで、ぱちんと壊れてしまいそうな気がする。それはちょうど、泣き出しそうになるのを、今にもどっと泣き崩れそうになるのを、時折感じるのに似ている。そんなときは緊張が解けるまで、静かに、規則正しく、そして深く呼吸すべきである。そして神が欲するなら、ことは収まるだろう。

二月二日
哲学をする場合、適当な時に、子供が (そして素朴な人々が) 一番長い橋がこれで、一番高い塔がこれで、一番早い……、と聞いてどんなに喜ぶかを想い出せ (「一番大きな数は何?」と子供は尋ねる)。こうした衝動があらゆる種類の哲学的偏見を、従って哲学的混乱を生み出すに違いない、これ以外にはありえないのだ。

二月三日
お前は人生の快適な物事を泥棒のように持ち去るべきではない。 (あるいはかすめた骨をくわえて走る犬のように。) 
 でもそうなら、それは人生にとってどんな意味を持っているのか!!

二月四日 
 確かに私は人生の問題に関するキリスト教の解決 (救済、復活、審判、天国、地獄) を拒否できる。しかしそれによって私の人生の問題が解決するわけではもちろんない。というのも私は善くもないし、幸福でもないからだ。私は救われていないのだ。つまり、もし違ったように、まったく違ったように生きるとして、その時、世界のあり方の唯一受け入れ可能な像として私に浮かんてくるのがどんなものなのかを、どのようにしたら知ることができるのか。私には判断できない。確かに違った生き方はまったく違った像を前面に押し出してくるし、まったく違った像を必要とする。窮地が祈ることを教えるように。これは違ったように生きれば、人は自分の見解を変えるということではない。だが人が違ったように生きると、違ったように話すのである。新しい生とともに、人は新しい言語ゲームを学ぶのである。
 例えば死についてもっと考えてみよ。それでもお前が新しい観念、新しい言葉の領域を知るようにならないのなら、それは異常なことであろう。

二月五日
何かある理由で仕事ができない。考えがまったく進まず途方にくれる。こうした状態でどこから始めていいのか分からない。《自分はここで余計なことに時間を浪費しているように思える》

二月六日
 芸術家がいい意味て「難解」なのは、それを理解することにより我々に秘密が明らかにされる場合であり、我々の理解していなかった策略が明かされる場合ではない。

二月七日
《またもや私の書くものに敬虔さと専心性が欠けている》だから今自分が生み出しているものが、バフチンには、以前彼に渡したものよりひどいものに見えるかもしれないのが心配だ。《こうした愚かな人間から、どうしていいものか生まれえようか。――) 

二月八日 
理想的な名とは一つの理想である。すなわち一つの像、我々の好む描写の形である。我々は破壊と変化を、要素の分離と組み換えとして描写したがる。今こうした観念をある意味で崇高なものと呼ぶことはできよう。我々が世界全体をそれを通じて見ることにより、それは崇高となるのである。だがそれだからこそ、その観念原型がどのような現象なのか、どのような単純で日常茶飯の事例なのかをはっきりさせることほど重要なことはないのである。すなわち、普遍的で形而上学的なことを言いたくなったときは (常に)、本当は一体どんな事例のことを考えているのか、と自らに問えということである。――そこで一体どんな種類の事例、どんな観念が浮かんているのか? さて、この問いに対しては我々の中の何かが反抗する。何故ならこのように問うことによって理想を危険に晒しているように見えるからである。だが我々がこのように問うのは、ただ理想というものをそれが本来属する場所に置こうとすることにすぎないのだ。というのも理想とは、我々が現実をそれと比較する像、事態がどうなっているかを我々がそれを使って描く像であるはずだからである。それに従って我々が現実を反証する像であってはいけないのだ。

 それゆえ我々は、こうした普遍的な意味合いを求めようとする像については、「それをどこから取ってきたのか?!」と繰り返し問うことだろう。

「崇高な把握」は具体的な事例から立ち去るよう私に強いる。というのも私の言っていることは具体的事例には当てはまらないからだ。そして私は霊妙な領域へと赴き、本来の記号について、存在するはずの規則について (どこに、どのように存在するのかは言えないにもかかわらず) 語るのだ。そして「ツルツルすべる氷の上へと」入り込むのである。
二月一三日
 良心に苦しめられ、そのため仕事ができない。キルケゴールの著作を読んで、これまでもそうだったが、いっそう不安になった。私は苦しもうとしない。このことが私を不安にさせる。どんな便利さも、どんな楽しみも、私は断念しようとしない。 (例えば、私は断食をしようとはしないだろうし、食事における自分の楽しみを損なうことすらしようとしないだろう。) あるいは、私は誰に対してであろうと、その人に反対する振る舞いをしたくないし、軋轢を起こすことも望まない。少なくとも、事が自分の目の前に直接示されない限り、そうしようとは思わないのだ。だがそうした場合ですら自分は逃げようとするのではないかと怖くなる。それに加えて私の中には絶ちがたい厚かましさが生息している。どんな惨めな状態に置かれても、いつも自分を著名な人たちと比べたがるのだ。(あたかも自分は、おのれの惨めさの認識のうちにしか慰めを見出せないかのようだ。)
 決して自分を欺こうとしないこと、これを我に堅く守らせよ。すなわち、自分が認識する自分に対する要求を、繰り返し自分自身に対して要求として告白すること。これは私の信仰と完全に一致する。あるがままの私の信仰と一致する。ここから導かれるのは、私はその要求を満たすか、あるいはそれか満たされないということに苦しむか、のどちらかだということである。何故なら、私がその要求について自分を非難することも、自分がその要求に応えるカかないということに苦しむこともありえないからである。これで終わりではない。その要求は小さなものではないのだ。新約聖書に述べられていることのどれたけが正しく、どれだけが間違っていようとも、疑えないことが一つだけある。つまり、正しく生きるためには、私は自分に心地よい生き方とはまったく違ったように生きなければならないだろう、ということである。つまり、生きるとは表面て見えているよりずっと真剣なものだということである。生きるとは恐ろしいほど真剣なことなのだ。
 だが私が満たすことのてきる最高のこととは、「自分の仕事において楽しくあること」である。すなわち、厚かましくならず、思いやりを持ち、あからさまなごまかしを言わず、不幸にあってももどかしがらぬことである。こうした要求を自分が満たせるというのではない、満たそうと努められる、ということである。しかしこれより高い所にあるものを満たすことは、私にはそのように努めることもできないし、そうしたいとも思わない。私にできるのは、ただそれらを認識し、《その認識の圧力が恐るべきものでないことを願うことのみである。》すなわち、認識の圧力が私に生きることを許し、私の精神を陰鬱にしたりしないことを、である。
 《そのためには、いわば、私がその下で仕事をし、その上に昇ろうとは思わない天蓋・天井を通って、あるほのかな光があたりを満たさなければならない。》

二月一五日 
 灯りの周りを飛び回る昆虫のように、私は新約聖書の周りを飛び回っている。
 昨日次のようなことを考えた。あの世での応報というものを完全に度外視するとして、ある人が終生正義について悩み、その挙句に恐らくはひどい死に方をし、こうした生き方に対していかなる報賞も受け取らない、というのが正しいと自分は見なすのか? やはり私はこうした生き方に感心し、自分の生き方より高く評価する。どうして私は、人生をそんな風に費やすなんて、そいつは間抜けだったんだ、と言わないのか。これが間抜けでないのはなせなのか。あるいはまた、なぜ彼は「最も惨めな人間」でないのか? もし彼が終生ひどい生活を送った、というのが事のすべてなら、当然彼は最も惨めな人間なのではないか。だが今私が「いや、彼は間抜けではなかった。なぜなら死後彼の人生はよくなるからだ」と言ったとせよ。これもまた満足のゆくものではない。私には彼は間抜けとは思えない、それどころか逆に、正しいことをしているように思えるのだ。さらに、彼は正しいことをなしているのだ、なぜなら正当な報賞を受け取るのだから、と言えるようにも思われる。しかしこの報賞が死後の褒美だとは私には考えられない。「この人は帰郷するに違いない」、こうした者について私はこう言いたい。
 普通我々は (報賞や刑罰の) 永遠性とは終わりのない時間の持続だと考える。だがそれを瞬間と考えてもまったく構わないだろう。なせなら人は一瞬のうちにあらゆる恐るべきこと、あらゆる至福を経験できるからである。地獄を想像したいのなら、決して終わることのない苦しみについて考える必要はない。恐らく私はこう言うだろう、人間にはロでは言えないどんな恐怖が可能なのかお前は知っているのか、と。それについて考えてみよ、そうすれば持続というものがまったく問題になっていなくても、地獄とは何かが分かるだろう。
 そしてさらには、自分にどんな恐怖が可能かを知る者は、我々が表面的なものに注意を奪われている限り、いわば依然として隠されているもっと恐るべきものに比べれば、そんなものはまだ何でもないことを知るのである。 (レーナウのファウストにおけるメフィストの最後の言葉。) 絶望の深淵は生においては示されえない。我々はその中をある深さまで覗き込めるだけである。というのも「生あるところには、希望がある」からだ。「一時間もの間身をやつれさせるこんな震え、という高価すぎる代償を払ってまでも、人は人生の小さなかけらを買おうとする」、とペール・ギュントでは言われている。――痛みを感じているとき、例えば人は、「これで痛みはもう三時間も続いている、一体いつになったらおさまるのだろうか」と言ったりする。しかし絶望の中では人は、「もうずいぶん長い間続いている!」と考えたりはしない。なぜならそこで時間は、ある意味で決して過ぎ去らないからである。
 だから誰かに次のように言えないか、そして私は自分自身にこう言えないか、「お前が絶望を恐れるのは正しいことだ! お前の人生が最後に絶望へと切迫せぬように生きなければならない。もう遅すぎるのだ、という感情へと切迫せぬように生きなければならない」。そして人生はさまざまに切迫する可能があるかのように私には思われる。
 しかし、真に義を求める人の人生もこのように切迫せざるを得ないのだと想像できるか。彼は「人生の栄冠」を受け取るべきてはないのか? 彼のために私は他に何も求めないのか? 彼に対する賞賛を求めないのか?! 確かに求める! だが彼に対する賞賛をどのように思い描けばいいのか? 自分の感覚に従うなら次のように言えるだろう、彼はただ光を見るだけではなく、直接に光の下へおもむき、今や光とともにある本質を持つようになるのだ、……と。つまり、このことについて宗教が現に用いているすべての表現を使用することができる、そのように思えるのだ。
 つまり私にはこうした像がどうしても出てくるのだ。だが私はこれらの像や表現を使うことをはばかる。当然のことだが、何よりそれらは比喩ではない。
 というのも比喩によって述べうることは、比喩なしでも述べうるからである。
 これらの像や表現はむしろ生のある高い領域においてのみ、その生命を保持するのである。この領域においてのみそれらを正しく使うことができるのである。本当の所、私にできるのは、「語りえぬ」といったことを意味する仕草をし、何も語らないことだけだろう。――それともこうしたことに言葉を使うことに対する無条件の敵意は一種の逃避なのか? ある現実からの逃避なのか? そうでないと信じる。しかし本当にそうなのか私には分からない。《どんな結論からも我を後ずさりさせ給うな、と同時に迷信深くあることは無条件にやめさせ給え!! 不純に思考することを私は欲しない!》

一九三七年二月一六日 
 《神よ! 私をあなたと次のような関係に入らせてください、そこでは私が、「自分の仕事において楽しくあれる」、そのような関係に! 神はいつでもお前からすべてを要求できる信じよ! そのことを真に意識せよ! それから、神がお前に生の賜物を与えてくださるよう請い願え! というのも、もしお前に対して要求されたことをお前がしない場合、お前はいつでも狂気におちいったり、まったくの不幸になったりするかもしれないからだ!》
 神に語ることと、神について他人に語ることは違う。
 《私の理性を純粋で穢れなきように保たせてください!――》
 私はたいそう深遠でありたがる、それなのに私は人間の心の深淵から後ずさりしているのだ!! ――
 仕事かできず、疲労を感じ、誘惑に乱されずには生きられない苦しみに私はのたうち回っている。そして他の人々――本当に何者かであった人々――が蒙らなければならなかったことを考えれば、私が体験していることなどそれに比べると何でもない。なのに、比べれば取るに足らないような圧力の下で私はのたうち回っている。
 本当に私が認識しなければならないのは、人間はどれだけ恐ろしいまでに不幸になれるのか、ということてある。つまり深淵の認識である。そして私は、神はこの認識がより明瞭にならないことを許す、と言いたい。
 《そして今私は本当に仕事ができない。私の泉が干あがってしまっていて、見つからないのだ。》

二月一七日 
 《繰リ返し卑劣なこと、いやこの上なく卑劣なことを考えてしまう。最も笑うべき種類の偽善、それも最も高貴なことが関わる場所で。深い水を覆う薄い水の上を不安に歩く人のように、今日私は、自分に許される限り、少し仕事をした。》

 不幸な死の恐ろしい瞬間とはやはり、「ああ、……さえやっていればなあ、今ではもう遅い」という考えに違いない。ああ、正しく生きてさえいれば! そして幸いな死の瞬間とは、「事は今成し遂げられた!」であるに違いない。――しかし自分にこう言えるために人はどのように生きて来なければならないのか! ここにもまた程度というものがあるに違いないと思う。《だが私自身はどの辺に位置するのだ。なんと善き生から遠く、なんと底辺に近いことか! E》

二月一八日
《フランシスがとても恋しい。彼のことが気ががりだ。自分が適切な行いをしますように。》
 自分にとって謙虚であることほど難しいことはない。キルケゴールを読んでいるので、このことに今再び気づく。自分が負けたと感じることほど私にとってつらいことはない。問題になっているのが、ただ真実をありのままに見ることに過ぎないのに、そうなのである。
 《私は自分の原稿を神に犠牲として捧げられるだろうか?》
「これをしなければお前は罰せられるだろう」と言われるよりも、「これをしなければお前は自分の人生を棒に振ってしまうだろう」と私は言われたい。
 第二の言葉が本当に意味するのは、これをしないなら、お前の人生は見せかけのものであり、真実と深さを持たない、ということである。

二月一九日
 昨夜明け方近く、ずいぶん前からあげてしまおうと考えていた古いセーターは今日あげてしまうべきだ、という考えが浮かんてきた。しかしそれに加えて、最近ベルゲンで (特に必要ではなかったのだが) 買った新しいセーター (私はこれをとても気に入っている) も一緒にあげてしまうべきだ、という考えが、いわば命令のように浮かんできた。すると直ちに私は、ちょうどこの、十日間ほどしばしばそうだったように、この「命令」に関してうろたえ、そして憤慨した。だがそれは、私がこのセーターに愛着を感じているからなのではない (このことも何らかの形て関与してはいるにせよ)。私を「憤慨させる」のは、 こんなものが、それゆえ、あらゆるものが私に対して要求されうる、より厳密に言えば、現に要求されているということなのである それが良いことや、やってみる価値のあることとして推奨されている、ということではなくて。それをしなければ私は救われないかもしれない、という考えなのである。――さて、単純に「そんなものあげるなよ! あげなかったからといってどうなんだ?」と言うことはできるたろう。――でも、もしそのために私が不幸になったら? しかし憤慨とは一体どういうことなんだ? それは事実に対する憤慨ではないのか? 「恐ろしいまでに最もつらいことが私に対して求められるかもしれない」、とお前は言う。それはどういうことなんだ? それはこういうことだ。自分の原稿を (例えば) 燃やさなければならない、と明日私が思うかもしれないということなのである。つまり、もし原稿を燃やさないのなら、自分の人生は (そのために逃避になってしまうということなのである。そのために私が善から、生命の源から切り離されるということなのである。そして場合によって私は、自分が切り離されているという認識からあらゆる種類の茶番を用いて目をそらすだろう。そして私が死ぬとき、この自己欺瞞は終わりを告げるだろう。
 そしてさらに、私の心の中で茶番に見えるものを、熟考によって何か正しいものにすることができないというのも事実である。私の心が何の根拠もなく、私は自分の仕事を放棄すべきだ、と語るなら、世界の中のいかなる根拠によっても、例えば、私の仕事が重要てあり、私にはそれをすることが許され、そして、すべきである、ということを証明することはできない。「何が茶番かは神様がお決めになるのだ」と人は言えるだろう。しかし私は今はこの表現を使いたくない。むしろこうなのだ、つまり、この仕事が何か正しいものだとはどんな根拠によっても私には確信できないし、確信すべきてもないのだ (人が私に言うであろう根拠――有用性、等――は笑うべきものだ)。――さてこのことは、私の仕事、そして私の享受するすべてのものが贈られた物だということを意味するのか、どうか? つまり、事故や病気によって失われる場合を除外すれば、それらは確固たるもので、その上に安住できるのか、それともそうではないのか。あるいはより正確に言うなら恐らくこうなる。もし私が今まてそれに安住し、それが私にとって確固たるものであって、そして今それ、これまでに感じたことのない依存性を私が感じているがために (これまで認識しなかった依存性を今認識した、と私は決して言わない) もはや確固たるものではないとすれば、私はそのことを事実として受け入れなければならないのである。自分にとって確固としていたものが、ぷかぷかと流れ出し、沈んでしまうかもしれないように、今私には思えるのだ。そのことを事実として受け入れなければならないというとき、私が本当に意味しているのは、私はそれに向き合わなければならないということである。驚愕してそれを見つめるのでなく、それても幸せでなければならないのだ。そしてそれは私にとって何を意味するのか? 確かに人は、「この依存性という考えが消減するように薬を飲め (あるいは、そうした薬を探せ)」と言えるだろう。そしてもちろん私には、この考えが過ぎ去るということを想像できる。例えば環境を変えることによったりしても。そしてもし人が私に、君は今病気なんだ、と言うなら、多分それもまた本当なのだ。だがそれはどういうことなのだ? ――結局それは、「この状態から逃げ出せ!」ということなのだ。そしてこの状態が今すぐに中断するとすれば、私の心は深淵を見ることをやめ、その注意を再び世界へと向けることができる。しかしそうなっても、もし深淵を見るということが私に起こらなければ (まさにそれか起こらないことを私が望むがゆえに)、私は何をすべきなのかという問いには結局答えられないのである。つまり、この状態に対抗する手段を探すことはもちろん可能であろう、だがそんなことをしている限り結局私はまだその状態にあるのであり (それが果たして止むのか、あるいは、いつ止むのかも分からないままに)、それゆえ自分のあるがままの現在の状態にとっての正しきこと、つまり自分の責務を為すべきなのだ。 (というのも未来の状態というものが存在するかどうかを私が知ることは決してないのだから。) だから、この状態が変化することを私は確かに期待することはできるが、今はこの状態に合わせて過ごさなければならないのである。ではどのようにそれをするのか? あるがままのこの状態が耐えうるものになるために、私は何をしなければならないのか? それに対してどんな態度を私はとるのか? 憤慨するのか? それではお終いだ! 憤慨というのは、ただ自分自身を攻撃することにすぎない。確かにそれははっきりしている! そんなことをして自分は一体誰を打ち負かそうというのだ? つまり私は降伏しなければならないのだ。ここでのあらゆる戦闘は自分自身との戦闘であり、自分が強く打てば打つほど、自分がより強く打たれるのだ。だが単に自分の手を挙げて降伏するだけではいけない。私の心が降伏しなければならないのだ。もし私が信仰を持つなら、つまり内なる声が自分にするように勧めることをひるまずにするなら、この苦しみは終わるだろう。 
 《膝に助けてもらって祈るのではない、人がひざまずくのだ。》
 この一切を病気と呼べ! それでお前は何を語ったのか? 何も語っていない。 
 説明しないこと! ――記述すること! 《お前の心を服従させよ、こんなに自分が苦しまなければならないことに腹を立てるな! これは私が自分に与えなけれはならない忠告である。お前が病気なら、病気に合わせて過ごすのだ。病気であることに腹を立てるな。》
 たが、大きく息をつけるようになっただけで、私の中でたちまち虚栄心がうごめく、というのは事実である。
 《私に告白させてください。自分にとってつらい一日が終わった後、今日の夕食において私はひざまずき、祈りました、そして突然ひざまずいたままで上を見ながら、「ここには誰もいません」と言いました。その時、あたかも自分にとって大切なことがはっきりとしたかのように気分がよくなりました。
 しかしこれが本当に何を意味するのか、私にはまだ分からない。自分がより軽くなったように感じる。しかしそれは、例えば、自分がそれまでは間違っていた、ということを意味するのではない。》というのも、もしそれが間違いだったのなら、それに舞い戻ることから何が私を守るというのか?! それゆえここでは間違いも間違いの克服も問題とはならない。そしてこれを病気と呼ぶなら、克服はまたもや問題とならない。というのも病気はいつ何時私を再び打ち負かすかも知れないからである。《というのも、この言葉も自分の欲するその時に私が述べたのではなく、言葉が来たのである。そしてこの言第が来たように、何か違った言葉が来るかもしれないのである。――「お前がよく死ねる、そのように生きよ!」》

二月二〇日
 狂気が到来したとき、狂気を前にしてたじろぐことのないように生きねばならない。《そして狂気から逃げ去るべきではない。》そこに狂気がないとすれば、それは幸運なことてあるが、狂気から逃げ去るべきではない、自分に対してこう言うべきであると私は信じる。なぜなら狂気は、私の人生が正しいか正しくないかについての最も厳格な裁判官 (最も厳格な法廷) だからである。それは恐ろしいものである、だがそれでもお前はそれから逃げ去るべきではないのだ。というのも実際のところお前にはどうしたら狂気から逃れられるかはまったく分からないのだから。しかも狂気から逃げることによって、お前は自分の品位を汚すような振る舞いをしているのだ。
 《新約を読んでいるが、多くの本質的なことは理解できない、だがそれでも多くのことが理解できる。今日は昨日より具合よく感じる。これが続きますように。》
「お前はそこまて新約にかかわり合いになるべきではない、そんなことをしたら頭がもっとおかしくなるぞ」、と人は私に言うことができよう。――しかし私がそうすべきでないのは、私自身が自分はそうすべきでない、と感じる場合のみである。もしある場所で重要なもの・真理を見ることができると自分が信じるなら、あるいはそこへ入ってゆくことによりそれらを見つけることができると自分が信じるなら、そこで何が起きようともそこに入ってゆくべきであり、そこに入ってゆくことを避けるべきでない、と確かに自分は感じることができるのである。《おそらく内部の光景は身の毛のよだつようなものであり、すぐさま走って外へ出たくなるだろう。だが私は身動きせず留まるべきではないか? こんなとき誰かが私の肩をたたき、「怖がるな! 正しいことなのだから」、と言ってくれたらと思う。
 孤独を求めてノルウェーに来たことを神に感謝します!》
 今日読んだ詩篇 (贖罪の詩篇) が私にとって糧となるのに、本質的に新約が今日までのところまだ糧となり得ないのはなぜか? 単にそれが私にとっては真剣すぎるということなのか?
 罪なき者は罪を犯した者とは違ったように話し、違ったことを望むに違いない。タヴィデ〔の詩篇〕では「汝ら完全であれ」という言葉はありえない。人は己の命を犠牲にすべきであり、永遠の幸福は約束されない、とそこには書かれていない。そしてこの〔詩篇には書かれていない〕教えを受け入れるためには、人は次のように言わなければならないように私には思えるのだ、「様々な喜びと痛みを伴ったこの生には結局何の価値もないのだ! ここにはあのもののためのものはあり得ない! それはもっと絶対的な何かでなければならない。絶対的なものを目指して努力せねばならない。そして唯一の絶対的なものとは、戦い、突撃する兵士のように、死を目指して生を戦い抜くことなのである。他のすべてはためらいであり、臆病であり、怠惰であり、それゆえ惨めさなのである」。もちろんこれはキリスト教の教義ではない。なぜならここでは永遠の生についても、永遠の応報についても語られていないからである。だが誰かが次のように言ったとしても、私は同様に理解するだろう、「永遠の意味での幸福とはそのようにしてのみ達成できるのであり、この世におけるありとあらゆる種類の小さな幸福にかかわることによって達成できるのではない」。しかしここでは依然として永遠の劫罰は問題となっていない。
 あらゆる地上的な幸福が卑小に思えてしまうこの絶対的なものへの努力にあって、眼差しは上に向けられ、前方の対象に向けられはしない。この努力は私には壮麗で崇高なものに思われる。しかし私自身はといえば、神が私を「訪れ」て、地上的なものに眼差しを向けられなくならない限りは、地上的なものヘ眼差しを向けている。私は次のように信じる、自分はこれこれのことをなすべきてあり、これこれのことをなすべきでない、あの上からのずっと鈍い照明の中で私はそのように行える、だがこれはあの状態ではない。なぜ私は今日自分の原稿を燃やさなければならないのか?! 私はそんなことは考えてもいない! ――しかし闇が私の所に降りてきて、私のもとに留まりそうになるとき、私はすぐにそれについて考えるのだ。その時私は、あたかも手を対象の上に置き、それが熱くなり、手を離すか焼却するかという選択を迫られているかのように感じるのである。この状況において人は贖罪の詩篇の言葉を用いたくなるのだ。
 (本当のキリスト教の信仰を――信仰をではない――をまだ私は全く理解していない。 
 《しかしそれを求めるのは向こう見ずだろう》
 例えば何か特定のことが体内で進行していて恐ろしい痛みを感じている人が、特に何かがどこかに行ってしまうことを望んでいるわけではないのに「どこかに行ってしまえ!」と叫んていると想像せよ、さて、「この言葉は誤って使用されている」と言えるだろうか?? 人はそんなことは言わないだろう。それは、この人がこの状況で、例えば、「防御」の姿勢をとったり、あるいは、ひざまずいて手を組んだ場合に、それを、誤った身振りである、と説明するのが分別ないのと同じである。そうした状態において、その人はそうするしかないのである。ここでは「誤り」ということは問題にならない。もし必要な使用が誤りなら、どんな使用が正しいと言うのだろうか? 他方、これは身振りの正しい使用であり、それゆえ、そこにはこの人がその人に向かってひざまずいた誰かがいたのだ、とは言えないだろう。これら二つの表現は同じ意味であり、だからこの「それゆえ」も間違いだ、と言うのでない限りは。このことを祈りにあてはめてみよ。手をもみ、祈願せざるを得ない人間に、彼は誤っているとか妄想を抱いているとどうして言えようか。

二月二一日 
 精神の苦しみを振り払うのは、宗教を振り払うことである。
 《お前はこれまでの全生涯においてどんな仕方であれ苦しんだことはないのか (ただこの種類のではないが)、そして今それらの苦しみに戻りたいと思うか?!
 私はお人よしだが穫端に臆病で、そのため悪い。大きな努力が必要のない場合は、そして何より勇気が必要ない場合は、人々を助けたいと思う。その際に少しでも自分に危険が及ぶようなことがあれば、私は怖がって尻込みする。そして私が危険と呼ぶのは、例えば、私の評判かいくばくか落ちるといったことである。
 私か敵の前線に突撃できるのは常に、後ろから狎された場合だけだろう。もし苦しまなければならないのなら、やはり自分の中の善と悪の戦いによって苦しむほうが、悪と悪の戦いに苦しむよりはましだ。
 私が今信じていること。自分か善いとみなすことをする場合、私は人や人の意見を恐れるべきでない、と信じる。 
 自分は嘘をつくべきでなく、人に対して善くあるべきであり、自分をあるがままに見るべきであり、よリ高貴なものが関わるときは自分の安楽を犠牲にすべきであり、許される場合は良き仕方で楽しくあるべきであり、それが許されない場合は忍耐と毅然たる態度で惨めさに耐えるべきであり、私からすべてを要求する状態は「病気」とか「狂気」という名によっては片付かず、つまり、そうした状態においても他の場合と同様、私は資任を負っており、その状態は他のすべての状態と同様に私の生に属しており、それゆえそれに対して完全な注意を払うべきである、と私は信じる。キリストの死による救済に対する信仰を私は持っていない、あるいは、まだ持ってはいない。私はまた、例えば、こうした信仰に至る道を自分が歩んでいるとも感じない、しかし私は、これについていつか自分が、今はまったく理解できず、今、自分には何も意味しないことを理解するようになる可能性はあると思っている。――自分は迷信深くあるべきではないと信じる、つまり、自分が読んだりした言葉によって自分に魔法をかけるべきでないと、つまり言葉を弄しているうちにある種の信仰に、ある種の不合理に入り込むべきではなく、そうすることは許されないと私は信じる。私は自分の理性を不純にすべきではない。 (だが狂気は理性を不純にするのではない。理性の番人ではないのだとしても。) 
 人間が自分の人生の全行為においてまったく霊感に導かれるというのは可能だと私は信じる。そして今私は、これが最高の人生だと信じなければならない。仮にもし欲するなら、もしその勇気があるなら、自分にこうした人生が可能だろうということを私は知っている。しかし私にその勇気はなく、そのことが自分を死ぬまで、すなわち、永遠に不幸にはしないことを願わなければならない。
 私がこれらすべてを書いている間、 苦脳と惨めな感覚が何とか浄化しますように!
 繰り返し使徒パウロの手紙を読んでいるが、喜んで読んでいるわけではない。そこで自分が感じる羝抗と反感が少なくとも部分的には言葉、つまりドイツ語、ゲルマン語のせいではないのかどうか、それゆえ翻訳のせいではないのかどうか分からない。私には分からない。その厳格さ、大きさ、真剣さによって私に反感を抱かせているのは、単に教説のみならず、(どのようにしてかはっきりしないが) それを説く人の人格でもあるかのように私には思われる。そうしたことすべてをおいても、よそよそしい何かが、そしてよそよそしいことにより人を突き放すような何かがこの教説にはあるかのように私には思える。例えば、「断じてそうではない!」と言われるとき、むき出しの論究と同種の何か不快なものがあるように私には思える。だがしかし、手紙の精神に私がもっと感銘したなら、こうしたことは跳ね飛ばされるのかもしれない。だが私は、人格が重要でなくはない、という可能性はあると思う。) 私は、《現下の悲しみと苦しみが私の中の虚栄心を焼き尽くしてくれたら、》と願う。《だが苦しみが止んだとたん、それは再び現れはしないだろうか? だからそれは決して止むべきではないのか?? そうなることを神が止めてくださるように。 
 周りが冬であるように、私の心の中は () 冬だ。すべてが雪に閉ざされ、緑もなく、花もない。
 だから私は、春を見るという恵みが自分に分かち与えられるのかどうか、辛抱強く待たなければならない。) 

二月二二日 
 《死に際しても勇気と忍耐力を持て。そうすれげ恐らく生がお前に贈られるだろう! 私の周りの雪がきっとまた美しさを取り戻し、ただ悲しみのみを湛えることのないように!》
 昨夜夢を見た。私は (ぼんやりと見えている) ピアノのそばに立ち、シューベルトのある歌曲のテキストを見ている。私にはその歌曲が、終わりのほうのある美しい箇所まではまったくばかばかしいものだと分かっている。これがその箇所である、 
 《「あなたは知りつつ
    私の麓に足を踏み入れた、
    その瞬間それはあなたに 
    明らかとなった」》
この続きは分からないが、結びはこうてある、
「もしも私がすでに穴の中で
朽ちているなら」 
意味するのはこういうことである、君の (哲学的) 思考において、がかつていた場所にさしかかったなら、(こういう意味でなければならない) 私の思考に敬意を払ってくれ、もしも私が……なら。
 《ありがたいことに、今日は少し心が落ち着き、気分よく感じられる。だが気分がよくなる時はいつも、虚栄心が私のすぐそばまで来るのだ。
 今私は心が不確かな、頻繁に、「ここには誰もいない」と自分に向かって言い、自分の周りを見渡している。だけどこれが私の中で卑劣なものになりませんように!
 「お前の宗教にあって卑屈になるな!」と自分に言うべきだと信じる。あるいは、ならないよう努めよ、と。というのも卑屈であるとは迷信への道を歩むことだから。
 人間はおのれの日常の暮らしを、それが消えるまでは気がつかないある光の輝きとともに送っている。それが消えると、生から突然あらゆる価値、意味、あるいはそれをどのように呼ぶにせよ、が奪われる。単なる生存――と人の呼びたくなるもの――がそれだけではまったく空疎で荒涼としたものであることを人は突然悟る。まるですべての事物から輝きが拭い去られてしまったかのようになる。すべてが死んでしまう。これは、例えば、病気の後に時として起こる。もちろんだからといって、それがより非現実的であったり、重要でないことなのではない、つまり、肩をすくめて済ますことはできない。その時、人は生きたまま死んでしまう。あるいはむしろこう言うべきかもしれない。これこそが人にとって恐ろしいものでありうる本当の死なのである。何故なら単なる「生の終わり」など人は体験しないのだから (私がまったく正しく書いたように)。だが私が今ここで書いたこともまた、完全な真理ではない。 
 自分の思かな思考の中で私は自分を最も高貴な人々と比べている!
 私が本当に描きたかった恐るべきこととは、人が「もはや何に対しても権利を持っていない」という事態であり、「一切が祝福されていない」という事態である。すなわちあたかも、私にとっては、その人に好意的に見守られることにすべてが依存している人が、「好きなことをしろ、だが私の同意は得られないぞ!」と言ったかのような事態である。なぜ「主が怒っておられる」と言われるのか。――彼はお前を滅ぼすことができる。その時、人は、自分は地獄に堕ちる、と言える。だがこれは本当のところ、「像」にはなっていない。というのも、もし私が本当に深淵の中に堕ちてゆくことになっているのなら、それが恐ろしいことであるとは限らないだろうからである。結局、深淵そのものは恐ろしいものでも何でもない。地獄とは一体何なのか? 何かをそれと比べるこの地獄とは一体何なのか? 私が言いたいのは、この「地獄」という像によって説明できるだろうものとは一体何なのか、ということである。むしろ人はこの状態を「地獄の予感」と呼ぶべきである――というのも、その状態においては、人はなお「もっと恐ろしいことになるかもしれない、というのも、まだあらゆる望みが完全に絶たれたわけではないのだから」と言いたくなるからである。》だから人はもはや何の望みもなくなった時に想い出すための何かを持つように生きなければならない、と言えるだろうか。
 《あの状態を前にしても持ちこたえられるように生きよ、なぜならお前のすべての知性、すべての悟性はその時まったくお前を助けられないのだから。お前にはその様なものがまったくないかのごとく、それらとともにお前は失われるのだ。 (それらに頼ろうとするのは、空中を落下するときに健全な両足を使おうとするようなものだ。) (それどころか) お前の生全体が掘り崩されるのであり、だからお前が持っているすべてとともにお前も掘り崩されるのである。お前が持っているすべてのものとともに、お前は震えながら深淵の上に吊るされるのだ。こうしたことかありうるというのが恐るべきことなのだ。こんなことを私か考えるのは、多分ここにはあまりにも光が乏しいためである。しかし今ここ〔厳冬のノルウェー〕で光は現にかくも乏しく、この私がそうした考えを抱いているのだ。誰かに、数分間息ができないので、お前は今死ぬだけなのだから気にしたりするな、と言うのは滑稽ではないか。すべての自尊心とともに、あれやこれに関するお前のすべての妄想とともに、お前はその時失われるのだ。それらはお前を支えてくれないのだ。なぜならそれらも一緒に、お前が持っているすべてと一緒に掘り崩されるからである。》この状態は恐るべきものであるが、それにもかかわらずお前はそれを恐れるべきではない。お前はそれをいい加減に忘れてはいけないが、だがそれを恐れてもいけないのだ。 (その時それはお前の生に真剣さを与えるのであり、恐怖をもたらすのではない。 (そう私は信じる。)》

二月二三日
人はひざまずき、上を見て、手を組み、話す、そして人は、人が神と話すと言い、私がするすべてを神は見ていると言う。人は、神か私の心の中で私に語りかけると言う。人は神の目、手、ロについて語るが、神の体の他の部位については語らない。ここから「神」という言葉の文法を学べ! 〔どこかで、ルターが神学は「神という言葉の文法」、聖書の文法であると書いた、というのを読んだことがある。〕
 《狂気に対する敬意――これが私の本当に言いたいことのすべてだ。
 繰り返し私は座って喜劇を見ている、大通りへと出て行かずに。
 宗教的な問いとは生の問いか、さもなくば (空虚な) 無駄話でしかない。この言語ゲーム――と言ってよいだろう――は生の問いと共にしか演じることはできない。それは「痛い」という言第か痛みの叫びとしてでなければ何の意味も持たないのとまったく同じである。
 私はこう言いたい、もし永遠の至福というものが私の生、私の》生き方にとって何の意味も持っていないのなら、私はそれについて頭を悩ませるべきではない。もし私がそれについて正当に考えることができるのだとすれば、私の考えることは自分の生と厳密に関係付けられなければならない、さもなくば私の考えることは無駄なおしゃべりであるか、あるいは私の生が危機に瀕しているのである。――影響力を持たない政府、従わなくてもよい政府、それは政府ではない。ある政府について私が語るのが正当だとすれば、私自身がその政府に依存しているのでなければならない。

二月二四日
《自分が (卑劣な) 利己主義者でない場合にのみ、私は穏やかな死を望むことができる。
 純粋な者は耐え難い厳しさを持っている。ドストエフスキーのような者の訓戒がキルケゴールのような者の訓戒よりやさしく感じられるのはこのためである。一方がまだ押し紋っているとき、他方はすでに切り落としているのである。お前の仕事をより高貴な何かのために犠牲にする覚悟がないなら、お前の仕事は決して祝福されないだろう。なぜなら、理想と比べた時の本当の高度にお前がそれを据えることで、お前の仕事はそれ自身の高さを獲得するのだから。 
 それゆえ虚栄心により仕事は価値を失う。このようにして、たとえばクラウスの仕事は「やかましい鐘」になってしまったのである。 (クラウスとは並外れた才能のある命題建築家であった。)》
 少しずつ自分は仕事をする力を再び受け取りつつあるように思う。なぜならここ二、三日、まだ少しではあるものの、再び哲学について考え、考察を書くことができたからである。他方で私の胸の中には、それでもこの仕事は私に対して恐らく許されない、という感覚がある。すなわち私はこの仕事において、まあまあにしか、あるいは半分だけしか幸福に感じないのであり、これが禁じられるかもしれないというあるはっきりした恐れを抱いているのだ。つまり、仕事を続けることが自分にとって無意味となるようにし、仕事を放棄するよう私に強いる不幸の感覚が、私のもとに到来するかもしれないのである。そんなことが起こらないように!! ――だがこれは、自分にはあまりにも思いやりがない、つまり、自分があまりにも利己的だ、という感覚と結びついている。他人を幸せにすることに自分があまりにも気遣わない、という感覚と結びついている。そのために自分が穏やかに死ぬことが望めないのなら、どうして安心して生きられようか。《神よ、事を改めてください!!
 「ここには誰もいない」、――だが私は一人きりでおかしくなることもありうる。》
 人が、神が世界を創造したと言い、神は絶えず世界を創造していると言わないのは不思議なことだ。というのも世界が始まったということがなぜ、世界があり続けているということよりも大きな奇跡でなければならないのか。人は職人の比喩に惑わされているのだ。誰かが靴を造るというのは一つの達成である。しかしいったん (手元にある材料から) 造られたなら、靴はしばらくの間は何もしなくても存在し続ける。しかしながら、もし神を創造主と考えるのなら、宇宙の維持は宇宙の創造と同じくらい大きな奇跡であるはすではないのか、――それどころか、それらは一つの同じことではないのか。なぜ私は一時の創造の行為を要請しておきながら、持続的に維持する行為は要請すべきでないのか? ある時に始まり、時間的な始まりのある維持する行為を、あるいは同じことだが、持続的な創造をなぜ想定すべきでないのか?

二月二七日
 《二日間ジョー・ボルスタッドと一緒にレプニ嬢のための女中さんを探しに出かけていた、成果なし。 (天気は上々で、気特ちよかった。) 今少し不真面目だが――ありがたいことに不幸ではない。
 キリスト教は、お前はここに (この世界に) ――言うならば――座っていてはいけない、行かなければならない、と言う。お前はここから離れなければならない、しかも突然引き離されるのではなく、お前の体か死ぬときに死ぬのでなければならない。》
 問題は、《お前がこの生をどう送るか? である。 (すなわち、 これこそお前の問題たるべし!)
――というのも、たとえば私の仕事は結局はこの世で座っていることの一つにすぎないからである。だが私は行くべきであって、ただ座っていてはいけないのである。》

一九三七年二月二八日
確かに私の仕事において、いくつかの関連した章の後にばらばらの考察だけを書くことが可能で、そしてそうすべきだ、というのはありうることだ。だが私は一人の人間であり、事の成り行きに依存している! しかしこの事を本当に見抜くのが私には難しいのだ。

三月一日
 自分の知っている真理が不愉快なものであるとき、私はいつもそれを多少とも割り引きたくなり、自分を欺こうとするような考えを繰り返し抱く。
 さらに仕事をすることが私に許されるのだろうか? 今、私は毎日、いくばくかの仕事をし、考え、書いている。がそのほとんどは、ただほどほどに良いだけだ。あるいはこれはもう私の仕事が枯渇したということなのか。それとも小川は再び流れ出て大きくなるのだろうか? 言ってみればこの仕事がその意味を失うのだろうか? そうであって欲しくない、だがそれはありうることだ! ――なぜなら人はまず生きねばならず、その後に哲学することもまた可能となるからである。
 ずっと食事のことを考えている。というのも私の思考が袋小路に入ってしまったみたいだからだ。暇つぶしについて考えるように、繰り退し食事のことに考えが舞い戻る。
《嫌な精神状態だ。考えが湧かず、目が据わり、仕事は私にまったく何の意味も持っていない。意味も目的もなく、ここで私は荒涼とした状態にある。あたかも誰かが私に無断でいたずらをし、私をこここ連れてきて、ここに座らせたかのようだ。》

三月二日
 今日仕事の調子は少し良くなった、ありがたい。《再び仕事に少し意味があるように思えた。》

三月三日 
 それにしても、仕事を適切な場所に割り振ることに比べれば、仕事をすることのほうがまだどれだけ楽なことか!
《ひざまずくことが意味しているのは、人は奴隷だということである。 (ここに宗教が存するのかもしれない)》

《三月四日 
 ああ主よ、自分が奴隷だということさえ分かればよいのですが!
 今太陽が私の家にとても近づいている。ずっと元気に感じる! 身に余るほど調子が良い。――》

三月六日
かつて自分が誤った場所に書き記した哲学的考察を私は何度も書き写すことがある。それらは元の場所では仕事ができないのた! それらは自分の仕事が十分にできる場所に居なければならないのだ!
 他のことについては多くの優れた意見を持っているシュペングラーが、キルケゴールの評価については大きく誤っているというのは興味深いことである。ここには彼にとって偉大すぎる人間が、あまりにも近くに立っているのだ。彼はただ「巨人の長靴」を見ているに過ぎない。――
 《私には自分が卑劣であることは分かっている、だが今は数日前、数週問前に比べるとずっと気持ちよく感じる。この幸せは身に余りすぎて、ほとんど怖いくらいだ。でも私はうれしい。自分があまりにも卑劣になりませんように!》

三月八日
私は今、自分の家から太陽が見えるのをとても待ち焦がれている。そして毎日、あと何日間太陽がまだ見えないのか見積もっている。まだ十日間、あるいはひょっとするとあと二週間はここから見ることはできないと思っている。四日もすればもう太陽が見えると自分自身に言い聞かせたものの、こう思っている。だがあと二週間も生きているのだろうか?? 綴り返し私は自分に、今すでに見ているこの強い光が見られるのなら、それでもう十分に素晴らしく、自分は完全に満足できるのだ、と言わなければならなくなる。 (これでも身に余ることであり、私はただ感謝しなければならない!》

《三月一〇日 
 身に余るほど調子がいい。》

三月一二日
 私は才能の乏しい人間だ。こんな私にも何か正しいことが成し遂げられますように。というのもそれは可能だからだ! そう私は信じる。――惑わされることなく真っ直ぐでありたい! 価値あることはそこにこそ存するのであろう。

三月一三日
 自分自身を認識するのはなんとつらいことか、自分が何であるのかを正直に自分に告白することのなんとつらいことか!
 自分の仕事の中の文章について、たとえどれだけぎこちなくであったとしても、よく考えてみるのが許されているというのは巨大な恵みである。

三月一四日
 今日太陽の光が私の窓から差し込むと信じる。またもや失望させられた。

三月一五日
 自分自身を認識するというのは恐ろしいことである、というのも人は同時に生きた要求を認識し、自分がそれに及ばないことを認識するからだ。だが自分自身を知ろうとするなら、完全な者を見ることほど良い方法はない。それだからこそ、完全な者は完全にへりくだろうとはしない人間のうちに、憤慨の嵐を呼び起こさざるを得ないのである。「幸いだ、私を腹立たしく思わない者は」という言葉が意味するのは、完全な者を見ることに耐えられる者は幸いだ、ということである。なぜならお前はその人の前で塵とならざるをえず、それをお前は喜ばないからだ。ではお前は完全な者を何と呼ばうとするのか? その者は人なのか? ――確かに、もちろんある意味でその者は人である。だが別の意味でその者は何かまったく違う存在なのである。その者をお前はどう呼ばうとするのか?「神」と呼ばなくてもよいのか? というのも、それが神でないのなら、何が神という観念に相応しいのだ。だがおそらく以前お前は創造の内に、つまり、世界の内に神を見たのだった。そして今、別の意味で、一人の人の内に神を見ているのだ。
 ある時お前は言う、「神が世界を創造した」と。そしてある時お前は言う、「この人は――神だ」と。とはいえお前は、この人が世界を創造した、と言いたいのではない。それでもここにはある統一性があるのだ。
 私たちは神について、二つの異なった表象を持っている。あるいは、私たちには二つの異なった表象があり、そのいずれにも神という言葉を用いるのだ。
 もしお前が神の摂理というものを信じているのなら、つまり、起こることはすべて神の意思によってのみ起こる、と信じているのなら、神である一人の人がこの世に来た、というこの最も偉大な出来事も、神の意思によって起こったと当然信じなければならないのだ。だとするなら、この事実はお前にとって「決定的な意味」を持たなければならないのではないか? 私が言いたいのは、その場合それはお前の人生に対してある帰結をもたらし、お前に何らかの義務を負わすのではないか、ということである。私が言いたいのは、お前はその人と倫理的な関係に入らなければならないのではないかということなのである。というのも確かにお前は、自分には父と母がいて、彼らなくしては生まれてこなかった、ということにより様々な義務を負っているからである。それゆえお前は、あの事実によってもまた、そしてあの事実に対して様々な義務を負っているのではないか?
 だが私はそうした義務を感じているのか? 私の信仰は弱すぎる。
神の摂理に対する私の信仰が、「すべては神の意思により起こる」という私の感覚が弱すぎる、と私は言いたいのだ。そしてこれは見解ではない――確信でもない、それは事物と出来事に対するある態度なのだ。《私がうわついてしまいませんように!》

三月一六日
 重要な考察に巡り会ったなら、たとえそれが宝石に準じるものにすぎなかったとしても、その時に正しくつかまなければならない。
 今日、「私は自分の考察を、姉のグレーテルが部屋の家具を並べるように並べているのではないか?」と考えた。そして最初この考えは私にとってうれしくはなかった。
 昨日「清い心」という表現について考えた、なぜ私にはそれが無いのか、と。だがそれが意味するのは、なぜ私の思考はかくも不純なのか、ということである。虚栄心、ごまかし、敵意、私の思考にはそれらが繰り返し現れる。これが変わるように神が私の生を導かれますよう。

三月一七日
 《雲のせいで太陽がもう山の上に来ているのか、それともまだなのかを見ることができない。やっと太陽が見えるのだという思いのあまり、私ははとんど病気になっている。 (神を訴えたいぐらいだ。)》

三月一八日
今おそらく、太陽は山の上に来ているのだろう、だが天候のせいで見えない。もしお前が神を訴えたいと思うのなら、お前は誤った神の概念を抱いているのだ。お前は迷信に捕らわれているのだ。もしお前が運命に怒るのなら、お前は誤った概念を抱いているのだ。お前は自分の概念を転換すべきなのである。おのれの運命に満足すること、それは知恵の第一の掟でなければならないだろう。
 今日、部屋の窓から、西の山の上に昇り始める時の太陽が一瞬見えた。神のおかげだ。だが恥ずかしいことだが、この言葉が十分に心から出たのでなかったと今は信じる。というのも、さきほど本当に太陽が見つかった時、私はとてもうれしかった、しかし私の喜びはあまりにも深さに欠けており、あまりにも愉快なものであり、真に宗教的ではなかったからだ。《ああ、自分がもっと深遠であればどんなに良いか!

三月一九日
およそ十二時二十分すぎ、太陽の縁が山の上に今見えている。太陽は山の稜線に沿って動いており、そのため部分的にしか、半分ぐらいしか見えない。太陽のほば全体が見えたのはほんの数瞬間のことだった。そしてこのことは、やはり太陽は、今日が本当に最初でないのなら、ようやく昨日になって初めて地平線の上に出たのだということを示している。一時ごろ太陽は早くも沈んでしまった。そして日没の直前、今再び現れている。

三月二〇日
信仰という心の状態が人間を幸せにできるということを理解している、と私は信じる。というのも、もし人が心の底から、自分のために完全な者が自らを捧げ、自らの命を犠牲とし、それによって、始まりから自分を神と和解させてくれたのであり、それだから今から自分はこの犠牲にふさわしいようにのみ生き続けるべきである、と信じるのなら、それはその人間全体を高貴にせざるを得ない、いうなれば、貴族の地位へと高めざるを得ないからである。これが幸福へと向かう魂の運動であることを私は理解している。私はこう言いたいのだ。
 私の信じるところでは、〔聖書には〕「お前たちは今赦されたのであり『今後はもう』罪を負っていないのだと信じよ!」と述べられているのである――しかしこの信仰が一つの恵みであることもまた明らかである。そして私の信じるところでは、信仰の条件とは、我々がなしうるすべてをなし、同時に、それが我々には何ももたらさず、どれほど我々が苦しもうとも、我々の罪は赦されぬままである、ということを見ることである。その時に赦しは正当となるのである。
 だがそれでは信仰を持たぬ者は見捨てられるのか? そうだとは私には信じられない、あるいはまだ信じられない。というのもひょっとしたら信じるようになるかもしれないからである。もしここであの犠牲の「神秘」について語るのなら、 おまえは「神秘」という言葉の文法をここで理解せねばならないだろう!
 ここには誰もいない、それでも私は語り、感謝し、願っている。では、それだからこの語り、感謝、願い、は誤りだ、というのか!
 むしろこう言えるだろう、「これこそが注目すべきことなのだ!」、と。
 ごく近い将来に何をすべきかについて迷っている。一つの声は、今ここを離れてダブリンに行くべきだ、と私に言う。だが他方で私は、自分が今はそうすべきでないことを望んでいる。ここでもうしばらくの間、仕事をするのを許して欲しい、と私は言いたい。だが私は、いわば、自分の仕事の一つの章の終わりに到達したのだ。
 神よ、恐ろしい問題なしに生きられるというのは何という恵みなのでしょうか! この恩恵が私の許に留まりますように!

三月二一日
 《卑劣で下等、調子があまりにも良すぎるのだ。それでも調子が悪化しないことについては喜んでいる! マックスからうれしい便り。》

三月二二日
 今日太陽はここで十二時に昇り、今完全に現れている。
樹々は今朝厚い雪に覆われていたが、今それはすべて融けている。ここでの自分の記入とその文体についてさえも、何度も虚栄心に捕らわれそうになる。神がこれを改められるように。――《窓の外に初めてハエか現れた、ハエを日が照らしている。太陽は一時ごろ隠れてしまったが、もう一度現れる。》日没前に太陽はもう一度十分間ぐらい見えるはずだ。
 《ここには誰もいない、しかしここには壮麗な太陽があり、そして一人の卑しい人問がいる。――》

三月二三日
 まるで私は時々いやいやながら自分が王様でないことを認める乞食のようだ。
 今日、太陽は十一時四十五分頃から一時十五分頃まで出ていて、それから三時四十五分頃、一瞬山の上に現れた。そして日没前に部屋の中にさしこんでいる。
《助け給え、照らし給え!》だがたとえ、今日、自分が信じていないことを明日信じることがあるとしても、だからといって私が今日、間違っていたということではない。というのも、この「信じる」というのは意見を持つということなどではないからだ。だが明日私の信仰は今日よりも明るくなったり (あるいは、暗くなったり) することはあるのだ。 (助け給え、照らし給え!) そして決して闇が私の許を訪れませんように!

三月二四日
 私は願う、《そして私はそうあって欲しいと願っている状態にすでにいる、つまり半分天国、半分地獄という状態に!》
 太陽は大体一時半ごろに隠れるが、その後も山の端に沿って進んでいるので、その外縁はもっと長い間見えている。それは壮麗だ! だからやはり大陽は、本当はまだ沈んていないのだ。――
 今日、次のようなことを考えた。過日告白を書き記したとき、私は一、二度、母のことも考えていた。私は自分の告白によって何らかの意味で事後的に母を救済できる、というのも何らかの意味で彼女もこうした告白を心に宿していたのであり、だが彼女が無ロであったためそれは生前外に表されることがなかったのだ、と思った。そしてようやく今私の告白が彼女の名によっても語られるのであり、そのとき彼女は何らかの事後的な仕方でこの告白と同一化するのだと私には思われた。 (それはあたかも、すでに彼女を圧迫していた負債を私が支払い、彼女の霊が私に、「お前がそれを今払ってくれるなんて、ありがたいわ」と言えるようなものである。) 今日、屋外でさらに救済のための死という教義の意味についてじっくり考えてみた。そして私は、

三月二五日
犠牲による救済とは、私たち全員がしたいと思いながらもできないことを彼がなした、ということかもしれないと考えた。だが信仰において人は彼と同一化する、すなわちその時、人はへりくだった認識という形で負債を支払うのである。それゆえ、人は良くなれないがゆえに徹底して低くなるべきなのである。
明日 (聖金曜日に) 私は断食をすべきだという考えがやってきた、そして、私はそうする、と考えた。だがすぐさま命令のように、自分は断食をしなければならない、と私には思えてきた、そして私はこれに抵抗した。「心からそう思えたなら私はそうしようとするのであり、命令されたからそうするのではない」と私は言った。だがこれではまったく服従にならないのだ! 心から思っていることをするというのは断念にはならないのだ (それが晴れやかで、ある意味では敬虔であるとしても)。結局お前はそこで死んではいないのだ。それに対して命令に服従するとき、まさにお前は純粋な服従から死ぬのである。それは死の苦しみだ。だがそれは敬虔な死の苦しみでありうるし、そうでなければならないのだ。少なくとも私は事をこう理解する。だがこう理解するのは私自身なのだ! ――それがより高貴なことだと分かっているのに、死んでしまいたくないと自分は思っている、と告白します。《それは恐ろしいことだ。この恐ろしさが、ある光の輝きによって照らされますように!
 ここ二、三日まったく良く眠れない、自分が死んだように感じられ、仕事かできない。考えか濁っていて、暗く意気消沈している。 (つまり私はある宗教的な考えを恐れているのだ。)》

三月二六日
 真剣な人々が真剣に書いたことを批判するな、何故なら自分が何を批判しているのかお前は分かっていないのだから。なぜあらゆることについて自分の意見を作り上げなければならないのか。だがこれは、それらすべてに同意せよ、ということではない。
 私は自分のあるがままにおいて、自分のあるがままに照らされ、啓かれている。私が言いたいのは、私の宗教はそのあるがままにおいて、そのあるがままに照らされ、啓かれている、ということだ。昨日、私は今日よりも照らされ方が少なかったわけではないし、今日、より多く照らされているわけでもない。なぜなら、もし昨日私が事をこの様に見ることができたのなら、私は確かにそう見ただろうからである。
 ある時代が魔女を信じなかったのに、その後の時代が魔女を信じたということや、魔女を信じるとか、それに似たことが滅してはまた復活するということに人は当惑する。だがこの当惑を解きたいのなら、自分自身に起こることを見るだけで十分である。――ある日お前は祈ることができる、なのに別の日には多分できない、そしてまた、ある日には祈らざるを得ず、別の日には祈る必要がない。
 《神の恵みのおかげで今日は昨日よりもずっと調子がいい。》

三月二七日
今や太陽は十一時を少し過ぎると昇る。今日それは光り輝いている。繰り返し太陽を見つめないことは私には難しい。つまり、目に悪いと分かっていながらも、繰り返し太陽を見つめたくなってしまうのだ。

三月三〇日
哲学について書くときは、安っぽい熱情に警戒せよ! 考えがあまり浮かばないとき、私にはいつもこの危険がある。そして今がそうだ。今、私は変な行き詰まり状態にあって、どうすべきなのかよく分からない。
 今や太陽は十時半から五時半まで途切れることなく私のところに射し込み始めた。これは今日がはじめてだ。そして天気は見事だ。
 もっと太陽を見ることができたなら、私の仕事をする力は回復するのではないかと期待していたが、その様にはならなかった。

四月二日
 私の頭脳は本当に鈍くしか動かない。残念だ。

四月四日
 今仕事をするととても疲れやすい。それとも私がなまくらなのだろうか? ここを直ちに発つべきではないだろうかと時々考える。例えば、まず一カ月ウィーンに行き、それから一カ月かそれ以上英国に行き、それからロシアに行くといった具合に。そしてその後ここに戻ってくる? それともアイルランドへ? 今のところ自分にとって最も賢明に思われるのは、およそ三週間してからここを発つことだ。――

四月五日
生を、そのあるがままに見ることができますように。つまり、単にそれの小さな取るに足りない一つの断片ではなく、それをもっと全体として見ることができますように。断片として私が考えているのは、例えば、私の仕事だ。そこでは、あたかも他のすべてが暗いブラインドで覆われ、それしか見えなくなるかのようなのである。それによってすべてが誤って見えてしまう。私は事物の価値を誤って見、誤って感じてしまうのだ。
 将来自分が何をしたらいいのか私にはまったく分からない。私はここへ、ショルデンへ戻って来るべきなのだろうか? もしここでは働けないとしたら、ここで何をすればよいのか? 仕事がなくてもここて生きてゆくべきなのか? 定期的な仕事は私には無理だから、それなしでということになる。それとも私は無条件に仕事を探すべきなのか。もしそうなら、すでにそうしなければならない!
 こんな風に考え込んでいる場合、自分は物事を間違ってみているのだ、ということに確信がある。
 私のノルウェー滞在はその務めを果たしたのだろうか? というのも、それが半ば居心地よく、半ば居心地悪いある種の隠遁生活へと退化しているというのは、まともなことであるわけがないからだ。滞在は成果を生まなければならない! ――だからここでの滞在をもっと延長し、ウィーンと英国へ行くのを延期するということすら考えられるだろう。その場合、問題は、例えばまたカ月もここに滞在するという決心が私にできるだろうか、ということである。神よ、私はできると信じます! ただ一つ私に気がかりなのはわが友のことであり、ウィーンの人たちもがっかりさせたくはない。もし自分が心底身を入れてここに滞在できるのなら、そしてもしここに滞在し、仕事が良くできるようになるかどうかを待つのがまさに私の使命であるのなら、私はおそらくそれを引き受けられると信じる
 他方で、今何かが私をここから追い払おうとしているのも事実である。自分が鈍く感じられるし、ここを離れ、しばらくしてからまた戻って来たいと思う。一つだけはっきりしていることがある、今、私は仕事をするとすぐ疲れてしまうし、それは私の責任ではない。大して集中もせずに数時間も仕事をするともう思考できなくなるのだ。今も疲れているみたいだ。適切な栄養が不足しているのか? それもありうることだ。

四月六日
 キリスト教教義の一解釈。完全に目覚めよ! そうするならお前は自分が役に立たないことを認識し、それによってお前にとってこの世界の喜びは止む。お前が目覚め続ける限りそれが再び戻ってくることはありえない。そこでお前には救いが必要となる。救いがなければお前は見捨てられたままである。でもお前は生に留まり続けなければならない (そしてこの世はお前にとって死んでいる)、それゆえお前にはどこか他の場所からの新しい光が必要となる。その光の中には賢明さも知恵もありえない。何故ならこの世にとってお前は死んでいるからだ。 (というのもこの世とは、お前自身の罪ゆえにお前には何も始めることのできない天国だからだ。) だからお前は自分が死んでいることを認識し、別の生を受け取らなければならない (というのもそれがなければ、自分が死んていることを認識すれば絶望しなければならないからである)。この生は、言ってみれば、お前を大地の上に浮かんだままで保持する。つまり、お前が大地の上を行くときも、もはやお前は大地の上に立っているのでなく、天にぶら下がっているのである。お前は上からつかまれているのであって、下から支えられてはいない。そしてこの生が完全な者に対する人間の愛なのである。そしてこの愛が信仰なのだ。
 「他のすべてのことは自ずから分かる」
 《今日、自分がより明晰になり、体の調子がより良くなったことについて神こそほめたたえられるべし。》
 何らかの理由で人々が自分に対してあまり優しくないとき、特別には優しくないとき、いかに自分がすぐに意気消沈してしまうかに今日改めて気づいた。なぜ自分はこんなに不機嫌になるのか、と自問した。私の答えは、「自分がまったく不安定だから」というものだった。その時、自分は馬に乗った下手な騎手とまったく同じように感じているのだ、という喩えが浮かんできた。馬の機嫌がよければ、事はうまく行く。だが馬に少しでも落ち着きがなくなると、騎手は不安になり、自分の不安定さに気づき、自分が完全に馬に依存していることに気づく。私が思うに、姉のヘレーネの人に対する関係もまったく同じである。こうした人間は、人が自分に対してたまたま少し優しくなったり、つれなくなったりするたびに、ついつい人をあるときは良く思い、あるときは悪く思ってしまうのである。

四月九日
「お前は何にもまして完全な者を愛さねばならない、そうすればお前は幸福である」。私にはこれがキリスト教の教えの総まとめであるように思われる。

四月一一日
表現の簡潔さ。表現の簡潔さは定規では測れない。紙の上でより長い表現のほうがより簡潔なことがしばしばある。それはちょうど"f"と書くのに、(※筆記体でうねうねした感じ(でも一筆書きだと書きやすそうな気がしないこともない感じの"f")と書いたほうが、(※これも筆記体の"f"だけど、前の"f"よりは真っ直ぐでうねうねしていない)と書くより簡単なのと同じである。しばしば人は文章が長すぎると感じ、言葉を削ることによって簡潔にしようと思う。そうすることにより生まれるのは、ぎこちなく満足のゆかない短さである。だが本当に簡潔であるためには、おそらくその文章は言葉がたりないのだ。

四月一六日
昨日から白樺の小さな緑が芽吹き始めた。――もう数日間も気分があまり良くない、それにとても疲れている。努力はしているのだが仕事の具合は悪い。まだ二週間もここに滞在することに、どれだけの意味があるのか良く分からない。一つの声は、「どうせなら、早く出発しろ!」と言い、もう一つの声は「待て、ここに留まるのだ!」と言う。――どちらが正しいのか分かれば、と思うのだが。
 最近、頻繁に『皇帝ガリラヤ人』を読み、大いに感銘を受ける。――
 多くのことが旅に出ることを支持する。だが臆病さもその一つだ。そしてここに滞在することを支持することもいくつかある。だがつまらないこだわりや他人の判断を気にすること、等もその中に入っている。ここから逃げ出すことは性急と臆病に負けることであり、正しいことではない。だが他方で、ここに留まることは、正気の沙汰とは思われず、同時に臆病にも思える。
 ここに留まる場合、病気になり、実家と英国に帰れないことが心配だ。これはあたかもウィーンでは病気になったり事故に遭ったりすることはありえないかのような言い草だ!
 出発するよりは、ここに留まるほうが困難だ。

四月一七日 
 自己とともにある孤独――あるいは神とともにある孤独――とはたった一人で猛獣と一緒にいるようなものではないか? いつ襲いかかられるか分からないのだ。――だがそれだからこそお前は逃げ去るべきではないのではないか?! 言ってみれば、それこそすばらしいことではないのか?! それは、この猛獣を好きになれ、ということではないのか。――だがそれでも人は、我らを試みに遭わせたまうことなかれ、と願わざるを得ない。

四月一九日
「信じる」という言葉によって恐ろしいほどたくさんの災いが宗教に引き起こされたと私は信じる。歴史的事実の永遠の意味という「パラドックス」やそれに類することに関するあらゆる込み入ったは思考がそうだ。「キリストを信じよ」という代わりに「キリストを愛せ」というなら、パラドックス、つまり悟性をいらだたせるものは消滅する。悟性をその様にくすぐることが宗教に何の関係があるのだ。 (しかじかの人間にとってはそれがまた自分の宗教に属するかもしれないが)
 だから今やすべては単純なのだ、あるいは、分かりやすいのだと言える、という訳ではない。分かりやすいものなど何もない、ただそれらは理解不可能なのではないだけだ。――

四月二〇日
 昨夜と今朝に湖のほとんどすべての氷が川へと流されてしまい、突然湖面にはほとんど何もなくなった。
 血便が繰り返し出るようになってからもう二カ月になる。痛みも少しある。――ひょっとすると自分は直腸がんで死ぬかもしれないとっ頻繁に考える。どのようになるにせよ、良く死ねますように!
 少し病気気味で考えに勢いがない。暖かく天気も良いのに。
 今日、私は誤ったこと、悪しきことを為している、すなわち植物のようにただ生きながらえている。まともなことは何もできず、それに加えて一種の鈍い不安を感じている。――本当ならおそらくこうした状態では断食し、祈るべきなのだろう――だが私は食べたくなり、食べている――何故ならこんな日に自分を見つめるのが怖いからだ。
 五月一日に出発する決心をした、――これが神の意思だ。

四月二三日
 今日、家の周りで風がゴーゴーと吹き荒れている。私にとって強風は、いつもとても大変なことだ。怖くなり、心が乱れる。
 《陰鬱でいやな感覚と戦おうと努力するが、私の力はあまりにもすぐ衰えてしまう。》

四月二六日
 見事な天気だ。白樺はすでに若葉をつけている。昨日の夜、初めて大規模なオーロラを見た。およそ三時間の間見続けていた。言いあらわしがたい光景だ。
 《しばしば自分がけちでさもしいことに、はっと気がつく!!》

四月二七日
 《お前は真理を愛していなければならない、なのにお前はいつも他のものを愛し、真理をただついでに愛しているにすぎない!》

四月二九日
哲学について考えようとすると、どうしてなのか分からないが、今、私の思考は固まってしまう。――これが私の哲学的経歴の終わりなのか?

四月三〇日
 私は最高度に、何でもすぐ悪く取る。これは悪いしるしだ。
一九三七年九月二四日
 ユダヤ人たちよ! 世界が感謝するようなものをお前たちが世界に与えなくなってからもう久しい。そしてこれは世界が恩知らずだからではない。というのもどんな贈り物に対しても人は、ただそれが自分たちにとって役立つからといって感謝するとは限らないからだ。
 だから、再び世界に、冷たい認知ではなく温かい感謝がお前たちに返されるのがふさわしいようなものを贈るのだ。
 だが世界がお前たちから必要としている唯一のものとは、黙して運命に従うことである。
 お前たちは世界に薔薇を贈ることができる。それらは花開くだろう、そして決してしおれることがないだろう。


 人には、たとえ偉人の幽霊であっても怖がる権利がある。そして人の幽霊でさえも。何故なら善人に幸運をもたらしたものが、お前には災難をもたらすかもしれないからである。というのも人間なき霊とは善くもないし――悪くもないからである。だが私の場合それは嫌な霊かもしれない。

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