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生の根源:無・空・滅と、理知性(の介在余地)を巡って。その際の自我の位置づけ

2010.09.13 Monday | 

注)
こんにち読み返し(2024/08/05)、当記事の概観は よしとできるように思うが、以下の点については、訂正したい。
シューマンが理事無碍、ベートーヴェンが事事無碍の天才、という解釈であったところを修正する。
今ではシューマンが事事無碍の天才であり、ベートーヴェンは理事無碍の熟達者であったと思う、と。 がそれは、シューマンが理事無碍を知らなかったという意味ではない。(当時思っていたよりもっと潜在意識の位相のまま処理すること―芸術の極意?―に成功している、つまり天才なのである) またベートーヴェンが事事無碍を知っていなかったのでもない。(彼はつねに理事無碍を通して事事無碍を熟知する天才、だったのである)

✎_______本文開始_______

これも相当昔の記だが、大学卒業後、しばらくの間 宗教哲学の八木誠一氏(仏・基両面から邂逅される宗教性の研究)に師事していたこともあり(公式サイトは私が構築)、こうした話題にしばしば興味が行った

メモ。http://bit.ly/dxqcL9
(参考文献。偶然見つけた非常に有意義な上記Blog記事をきっかけに、以下、二・三日つらつら考えたことです。どうもありがとうございました)

これは、シューベルト――郵便的/事事無碍に限りなく近い表現のスタンス――とシューマン――本来的意味における(と私は捉えている)解釈学的/理事無碍に限りなく近い表現のスタンス――の関係と距離 (←リンク付)について考え続けているためでもある。


上記Blogから引用

[西谷啓治の『宗教と無』はジャン・ポール・サルトルの『存在と無』批判であったという。西谷/ブライソンによれば、サルトルのニヒリズムは中途半端なものであり、対象世界の虚無化はかえって主体の強化を結果しているという。西谷/ブライソンがここで持ち出すのがいわずもがな「空」であり、「無」であり、そして「場」の論理である。「場」の論理はサルトルにはまだ残っていたいわば「〈象徴形式としての〉遠近法」を完全に抹消するものとしてあり、「空」はこの場における二重否定としてある。西谷の二重否定はもともとヘーゲルからきているが、禅的な「非ず非ず」の論理とも言える。=以上、引用]

http://bit.ly/dxqcL9

こういった事を巡ってのつらつら。

まず[サルトルのニヒリズムは中途半端なものであり、対象世界の虚無化はかえって主体の強化を結果]、この点は解る気がする。

たとえば西田幾多郎は後期以前では、(現象学が意識を対象化して見る主体を自我に置くのに対し)知の主体は自我をどこまでも主体方向に超えてゆくと捉え、「於いてある場所」の窮極は超越的述語面(見る私を超えてこれを包むもので「私」はその働きをセルフのうちに映す)という形だったようだが――もちろん後期は自<覚>の成り立つ地平=場の構造として把捉――、現象学(この場合フッサル?)と同様、サルトルも知=意識対象化の主体をセルフにくるまれない直かな自我の地平に置いている、ということへの批判と捉えてよいのかと思うし、たしかにそれだと主体を強化するにすぎなくなる、そうなりやすいと、実際思う。

ただ、以下の点、[「場」の論理はサルトルにはまだ残っていたいわば「〈象徴形式としての〉遠近法」を完全に抹消するものとしてあり、「空」はこの場における二重否定…]に関して、こうした西谷/ブライソンによる理解仕様には、疑問が残る。禅的な立場からはやはりつねにそう捉えるだろうが、いつもそれ「しか」ありえない・ゆるされないのだろうか?(とくに空じられた後、覚の後。すなわち 覚の覚 における問題)

場の論理だと直接的生に還帰した主体は空じられ(=あえて仏教用語でいえば事事無碍)、リアライズされる際、極(いわば「脱中心化」の極限)となるゆえ、知 とくに反省 は生じないのだろうが、人間はそこ(直接的生の体験、また体験をした極)から、この超-個矛盾的同一の、把捉とある種の伝達願望を半ば織り交ぜた表現を発する際(=理事無碍へ。)、その体験したリアライズ=覚→覚の覚について、理知でその出来事とその事-事の関係性とを捉えるにあたり、極としてのセルフ、その中にくるまれる舵取り役としての自我という構造のもとに在るまま表現しうる(成功することがある)ので、その場合には、その関係性を踏み外さなければ主体を強化してしまうということはない、という把捉が成り立ちうるのではないのだろうか? (認知が複雑になる為主体がかさばることはあっても、それは所謂<自我が強まる>という*罪の意味とは少し別の観点から扱いうる地平および浄化的魂の性質がありうるという問題である。)

と、その際、そのまっとうな!?自我、本来的位置づけに還帰しえた自我にしてみても、リアライズの出来事を理知で感知=把捉し、「語る」際、やはり〈象徴形式としての〉遠近法、他者との距離把捉を使う必要の生じる局面があるのではないか? つねに<これ=象徴としての遠近法、を使っているか否か>という観点のみを以て、その自我を、またその自己-自我があつかう理知を、(空滅の不十全として、無碍の働きと「力」の場としての不徹底として、またありうべからざる主体の状態として)ただちに罰するべき、なのだろうか?それとも(もしそうだとすると)理知を以て表現すること自体を一切無効としなければならないのだろうか――表現のスタイルとしても?――とすると、表現として唯一認められるべきは、or成立可能なのは、やはり隠喩的方法しかないと、、、? (またしても 郵便的、の時と同じ結論になってしまうのか?)

すると上( http://bit.ly/dxqcL9 )文献上部でいわれている「審級」(意味作用の可動的モザイク、動的テッセラであるところのネットワーク=文化的構築物=了解可能性)を組み入れた表現のうち、その伝達・啓蒙性により重きを置いた分野や性質のもの――教育・(一部の)芸術・哲学――などの問題は一体どうなるのか。。

つまり私が思っているのは、(ブライソン/西谷的思考によって)サルトルが不十分だと言われなければならないのは、「〈象徴形式としての〉遠近法」を<用いていること>、に由るのではなく、その用いる<当体>、自我の在りようの問題、つまり極としてのセルフに包まれた舵取り役の自我でなく、極化/脱中心化し切れていないままの自我であること、セルフによって包摂されていない自我の(残っている)ままであること、そのものに由ってでなければならないのではないだろうか?、ということである。

自我が本来の在るべき座に戻っているという<条件付き>で、無→リアライズされた「後の」働き方としての理と知を、その質によってはもう一度復権させる必要を考えている(多分そのような時代がじき到来するはずと思う。ポストモダニズム以降、カントやデカルト、ライプニッツの捉え直しなどなされる流れもあるらしい今日であるだけに、己が寡聞なだけでひょっとするともう到来しているのかも知れないが)私としては――いつもこの点がネックになってしまうのだが――メタファの価値の尊重とともに、**(存在論的限定条件付きの)自己-自我に於ける理知の評価しなおし・捉え直しという面も、きちんと考える必要のある観点であることが世の中でもっと主張されるべきであり、そういう時期に来ていると思っている。


注)マーカー部分、*および**について

ちなみに、このことにも関わるであろうTwitterでの茂木健一郎さんのツイート(2010/09/16)を、これもまた古いものであったが二つ程紹介列挙しておきたい。

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  1. 無記(11)諦念と慈愛を絵に描いたような老父の中に、冷たい刃のような気持ちが隠れている。人間というものは、複雑で、重層的である。見えるものが全てではない。しかし一方で、すべてを外に顕す必要もない。

  2. 無記(12)フロイトが明らかにしたように、どんな人の無意識の中にもどろどろとした感情がある。自分の気持ちのうち、何を外に出し、何を出さないか。ここに人間の聖なる選別があり、魂の尊厳がある。小津安二郎はそのことをわかっていた。

私はこうした位相に関する理知性の作用はまさにシューマン的 理事無碍(もしくはベートーヴェン的といってもいい。音楽的に言えば内声部の充実・思考の錯綜-重層化ないし、時に省略)の非凡さにも関係する事柄だと思っている。つまりここにまさしく<人格>-自我の問題、(無意識→潜在意識→顕在意識への)「審級」のクオリティの問題が関わると思っているのである。
キリスト教においてイエスは、「右手にしていることを左手に教えるな」(自意識の問題・意識の直接性と純粋度の問題)と説いている。たしかに非常に鋭く、また尊いリアリティを突いている(この考えはおそらく禅にも通じる)。実際、この直接性と匿名性の世界にのみ現出可能な、まぎれもない価値を持つ表現というものがたしかにある。また右手のしていることを左手に教えることによって傲慢=主体の強化につながり、またこれにより同時に失うものもたしかにある。
そのことを、見込んだ上であえて言うのだが、それは多角-多元的な問題のうちの核心的な一面ではあるが――宗教にはしばしばこのうち「傲慢・不純・失うもの」をばかり、ともすると強調しすぎるきらいがある――その他の側面、つまりこの窮極の深い位相に於いてすら、ともすると関わってきてしまうことのある他者連関。この問題にも一考を要すべきではないだろうか。
つまりここで人格・精神の尊厳として表出すべきリアリティとすべきでないリアリティを峻別しようとする、理知性の作用の問題である。その最も浄化された形は、直接性と匿名性、すなわち融通無碍を殆ど浸蝕しない(かにみえる)性質のものとなるであろう。日常的な会話等ではその理知による瞬時の判断が、芸術表現のレベルでは熟達した判断が、それぞれ要求されるということになると思われる(その表現者の資質と感性との協力関係により、殆ど無意識レベルのままなされるか(事事無碍)、潜在意識や意識レベルでなされるか(理事無碍)の違いはあれ)。

そうした、直接的生の「覚」と表現とに伴う理知性の「質」について、もっと宗教も、出来ればもう少し、教育や芸術、哲学などと共に(無粋だとはいわずに…)考え対話してほしいと、思っている。
というのも、<直接性>の生命力に根ざしている場合、そのアクロバティクな凄絶さに他者を巻き込む、もしくは悪酔いさせる種類の生のリアリティ表出が――つまり共生感覚を ともすると欠いたままの表現・自己表出が――あり得ないわけではないからである。(虚無・ニヒリズム・エゴイズムを克服し切れていない直接性の場合。この際、そこへの理知性の介在なり存在を全否定すると、その生のリアリティを共生可能性の方向へと修正し難い面が生じてくる)
尤も、ニヒリズムや絶望の表現に関しては、むしろその吐露、社会への告発そのものこそを表現目的・問題提起とする場合は別であり、それ自身の質が高ければ「表現の力量」「スタイル」として<全面的に認められるべき>であるし、その営為により自己救済されるべきでもあるが、そのアトモスフェールが人間社会の「倫理」と「時代的気分」をも担う――ニィチェがあまりに強力に支配したように――べきであるかどうかは、慎重に考えなければならないと思う昨今である。



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