見出し画像

私のすみか――散歩道など


八ヶ岳――


この頃は隣の林のすぐ近くでクロツグミの声がすばらしい…。早朝は、アカハラの囀りが。
思えば引っ越して早々から、夏を迎える手前になると小鳥たちはいつも、私たちが朝食をとるまでの間にも、入れ替わり立ち替わりやって来ては、無邪気に鳴き交わしていた。家のすぐ傍を、イカル・アカハラと…

それから梅雨明けに相応しい午前のすがすがしい風にのって、森の方からもの真似好きなクロツグミの器用な鳴き声が、しきりにやってきていたっけ


画像2


晩春の散歩――

みどり湖。湖畔の桜のこと
あんなにもはなやいでいた遠い記憶の花びらを散り落とし、今はもうすっかり重たげになった枝をはりめぐらしている。首をうなだれるように。少し前までは若葉が競って生い茂り、所々に虫食いの地図のような斑点を織りなしていた。そうしていまはすっかり生い茂った自分自身の葉陰の、ひっそりとした翳りを編む日傘におおわれて、ハンモックを思わす斑模様の影絵を時折煙のようにたゆたわせながら、もうほのぐらいほどのトンネルを、互い違いにつくっては佇んでいる。
と、いつのまに少し青苔のむした着物の縞が、次第にその文様を顕わにし始めた。器用にたわむ、あのしなやかな形姿を生き返らせたという具合に。

カラマツたちも今はすっかりカーテンかタペストリのようだ…だがあれらも、五月のほんの始めの頃には、まだ<ふしくれ>だった。カラマツの枝の<ふしくれ>…。ナッツステッチのようにぽつぽつと。宙で織りなすまばらの刺繍。
そういえばあの頃、樅の木のほうでは、尖端々々(さきざき)に、赤茶けたおしゃぶりをぶらさげはじめていた。うとうとしているうち、手招きする女性の嫋やかな指のように風にゆられてはしなうカラマツの、いつの間に大人びた挨拶を、まるでかくまう垂れ幕のように、鋭い光りを帯びるつもりなのだったろう、と――(が、かとおもえばそうするにはまだ少し赤ん坊なのだ、とはがゆくも)――思わせていた。

不思議なのは春先のあの時期、冬枯れで見慣れたはずの幹という幹が、気のせいとは思えぬ程に白んでみえることだった。まるで内がわから――オーラといったものを醸し出す…。そう、或種の人々が姿態から坦々と放射する、あの内面的な光に似た――あかるさを発散しているようにもみえる。
内部で何かが起きていた。

その徴にか――或いはたんにおのずと好対照をなすがために互いを際立たせようとしているのかもしれないが――枝の方はむしろ赤味をすら、帯びているのだった。秋にもまた一度そうなるように(尤もその時期のそれは、もっと湿り気を帯びていないが…)えもいわれぬ独得の赤味がさしていた。

そうして遠くの山全体もそれと同じ赤味をにじませ、霞がかっているのだった…。(それも秋とよく似てはいる。)があの赤味、五月のは、やはりもうじき何かがはじまるための、それなのだ…(!)――あれは風景を消沈させない。

白んだ木立の群れがその背景にディオニソスの白髯のような無数の掻き傷を入れる…。
ガラス版画のそれ。或いはカンヴァスの布目。


画像1


八ケ岳 その二――


初春の散歩――

庭のモクレンが初めてひとつの蕾を開かす。今、森は春をようやく展げはじめている。すこしずつ、すこしずつ...。
カラマツの芽吹きの点描画——あれは小人の捧げものにみえる。淡緑色(ライトグリーン)のとんがり菓子。復活祭のための、恰好のメサージュなのだ。天使らの降天への合図。ひそかな、呼びかけの世界。

山桜の枝々は、あちこちの丘にうっすらと気のせいのような紅みを帯びた花を咲かせ始めている。

だがある種のものは遠目にはほとんど紅とは気づかれない。そればかりか花の重なるほどにまるでコブシのそれへと近づくように、雪を通り越し、次第に殆ど乳白色をすら帯びていく。

それらは悪戯な雲の、空を覆い過ぎる瞬間には、天からばらまかれた粉乳よろしく輝くのだ。
そうして辺りがふたたび光に充たされる頃には、群がり停まる無数のもんしろ蝶のたたずまいをみせながら、遠い昔のままの画のように、あどけなく憩っている...。

遠景——コブシ。
かれらは、枝付燭台の蝋燭が仄暗い闇の中を順繰りに灯されるごとく、灰色の森の処どころにくっきりと白い火を灯している。
あるものはまだ、森が織りなすようやく萌えはじめたばかりの山間(あい)の、ちょうど陽の当たる斜面づたいに、おもむろに縁取られていく片側の枝々に、行儀のよい孤を描く灯を点しながらも、まるでそうした樹木のぜんたいがひとつの無疵な白い炎をも形象っていくのもまた計らいとでもいうように、気高く、陶然と憩っている。

デザイン画めいた形状と、何処となく人工的な光を帯びた色彩。——蝋で造った電飾洋燈(ランプ)。

炎状にととのった形姿。——あれらは蝋燭の 'うえに’ 灯った火というよりは、まるで無数のそれを宿す燭台それ自身、ひとつの白い炎であるかとみまがうばかりに、真率に点っている。

その枝ぶりは、天上へと燃えさかるようにというのでもなく、またある形のままたちまち凍り付いたというふうでもなしに、なにかまえもってその形象へと定められていたものの、ひとりでなる成就といった佇まいなのだ。

彼らの几帳面さ。——

おとといなどは、八ヶ岳が、その広大なすその一帯を真っ暗な雷雲に覆われて、あやしい風のなか、いつもの真昼の山麓にふさわしい光沢をすっかり喪失したまま、ただ処どころに不屈の、天地さかさまにしたあのディオニソスの髭の、容赦なくグロテスクな線をさらす白樺並木らの交互に織りなす、一種異様な光沢をばかりを際だたせていたが、そんな不可解な暗示に満ちた風景のなかにあってなお、例のコブシの一群だけが、点在する外灯さながらに、ほんのりと親切な光を旅人に向かい放ちながらこれを導くように立っているのが、めずらしく不穏なこの辺り一帯を、ひとつのほのぼのとした素描のなかに、かろうじておさめているようにみえた。


画像3


五月のはじまり

カラマツのとんがり帽子は、いつしか霜の結晶よろしき氷砂糖の小部屋に。と、そこから徐々に蜘蛛の糸をまねるモヘアのモオルをつむいでは垂らしはじめた。
エメラルド色のこの梯子が降りはじめると、小人たちはじきにミズキの玉座に光の精らをうつしかえ、カリフラワーさながら形戯けた冠を、いそいそとかかげる準備に入るのだ...。やがて彼らに向かって五月の風が手招きをする。女のひとの指にも似た、あの垂れこめるカーテン越しに。

カッコウのにぎやかな声に時折横切られながらも、時折ヤマガラのツツ!ニニニーという字鳴きまじりの囀りや、ブランコの軋音よろしくとおくか細い、コガラ・ヒガラなど、ツッピ夫妻――家に居着くシジュウカラのつがいをそう呼んでいる――よりいっそう小さなカラ科の鳥たちの、金属的なモノトーンの声も、仕切りにしている…。

先日などは、フィチーユ・フィチーユ、というとっても可愛らしいなき声がしていたけれども…あれはキビタキなのか…?

林の中にはいると、春先には枝付燭台のようだった枝々も、いまではどれもうっそうと生い茂っている。その足元を、下生えの植物もさかんにのびていく――蛇のように。


舞台裏手——

カラ松のか細い 檣群(マスト)をはげしく斜降するノブドウの静索(シュロード)、その合間を枝垂れ降りる無数の段策は、自生ホップの細緻な繩梯。

フジヅルの円錐状に上昇する蔓辺——あちこちに備えられた非常階段...。

その他、アケビ・野イバラ・カナムグラたちの集まる複雑なシルエットの帆船、ガリヨン船よろしき下生えの生域が、けもの道めいた道端のあちこちに見え隠れしているのがみえる。

家のまえのミズキも もうすっかり重たげになって、数え切れないほどの、例の花冠をつけた頭をゆさゆさ揺らして、それはもう見るからに重たげなほどだ。


古い日記帖を読み返すと、《好きなもの》 のひとつに、

『顔を出して間もないイヌフグリ、ホトケノザ、イヌガラシ。それらの三色織が めいめいに侵食しあい、粒立ちながら密生する光景』

などとあった。イヌガラシ、とは たぶん イヌナズナの間違いなのでは、と今は思う…がとにかくそうした風情のものは、ずいぶんとまえからの趣味だったようだ。そしてその三色織の一糸 ホトケノザ は……いまではしばしば、これとよく似た同じシソ科の何とかいう毒草?に、その役割を明け渡してしまいつつあるけれど、それでも丹念に畑を耕している農家の人の土地の縁などには、さいわい今でもまばゆい春の陽の下しずかにたたずんでいるホトケノザの群れをみることができる…。


画像4


その他の《好きなもの》、には こんなものらも...。

『マメ科の植物——巻きひげを備えた形戯けたやからたち。クサフジ、ツルフジバカマ、××ササゲ、といった仲間。

その他植物文様を編むつるべの一群』

あるいは

『葉先のするどい装飾的植物——トロイア軍とみまがう鉾型の葉をしたもの(コウモリソウ、ヤマホロシか?またアザミの仲間)

葉先のやわらかい装飾的植物——ギリシアの壺絵でディオニソスの持つ杖飾り シキンカラマツ、アキカラマツ。その他トランプめいた、キンポウゲの葉。

ランプふうのもの——ホタルブクロ、おだまき、ミゾソバの群生(天使の落としたコンペイトウ!)』

(なんだかんだとようするに聖書の羊皮紙に描かれた文様のような曲線がまえから好きだったもよう。

しかしガーデニングをひとたび始めてみれば、好きなものがマメ科なんていう言葉は出てこないだろうと、今の自分はそっと思う。笑)

なにせこいつらのせいで、カラミンサは繁殖をあきらめるわ、ブラックベリーも蔓瓶を途絶するわで、もうさんざんなのだから。

それと、コンペイトウというのは...――もうこれ自身、一種の奇跡の形姿である!と、昨今ますます思われてならない。


『野生のサワラ林、もしくは近所の間垣をつたうさわらの織りなすレース編み。濃淡のみのタピスリ』

『アスパラの葉、ノニンジン、その他フェンネル、シェルブル、ディルの葉など。煙ったような細密な葉』


たしかに、うちより少し下った畑で農家のご主人がアスパラを栽培していたのは、いまでもよく覚えている。

「おじさんなに?この細い綺麗な葉っぱ」と、作業をされている背中に訊いた覚えがあるから。

昔の私は人によく尋ねごとをしていたものだ…。かしいだ案山子にも、うっかり声掛けたりしたけれども。

noteに、サポートシステムがあることを嬉しく思います。サポート金額はクリエイター資金に致しますとともに、動物愛護基金に15%廻させていただきます♡ m(__)m