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Das Wohltemperirte Clavierについて――リヒテル、グールド、アファナシェフ


2003年02月~

平均律をピアノという楽器で弾くということ自体、アファナシェフ自身も記しているように、レガトかノンレガトか、という極端な選択を迫られるのである。
そこには、この曲集の持つアーキテクチャルで巨大な統合性・整合性、また精神的な無辺さ・巨大さetcetc..を、たとえばオルガンやチェンバロ、といった楽器で表現するよりずっと、或る種の不自由さがつきまとうのである。
極言すればそこには、たんにスタイルの問題にとどまらず、ロマンティシズムか、さもなくば無機的・唯物論的無窮動性かの選択をさえ、暗に強いられるとすら言えなくもない。

(但し、たとえばリヒテルの演奏が前者の代表であるかのような言外の前提に立つ現代の風潮がある際には、これには直ちに同意しかねる点が多々あるが。
何故ならそこには、<平均律>という特殊な世界に於て、バッハ自身が帯びていた宗教性――それはたんにキリスト教的、という領域をはるかに越えてしまったものである――の問題がまずあるからである。
それは言ってみれば限りなく唯物論に近い宗教性であり、そうしたものがすでに現代の不条理を見通していたのではないかと思わされる程の或る種の空恐ろしさとともに、バッハ特有の一見の無表情さ――宇宙的建造物のような絶対性や無窮動性という名の下にしたたかに行われる、黙秘権の行使の中――に見出されるのであり、アファナシェフもこれを(少なくとも今の時点では)黙殺してはいない。

もうひとつの問題は、このあまりに広義な宗教性――限りなく無表情に近い宗教性――の問題と、'同時に'そこにすら見出される不条理な「ロマンティシズム」の問題である。
これもまた、バッハ自身がその無辺なる宗教性とともに、否応なく携えているものであると言ってよい。(これもアファナシェフは(演奏の)現時点で、まったく黙殺し切っていないと思われる。)

ここでは、リヒテルの演奏が<そのもの>に対し自覚的に対峙し行っていた真摯な取り組み(彼は戦争というものの中で味わわされる最も辛辣な不条理に直面している)を、――それがバッハ自身のそれとまったく同質・同一のものとは言わないまでも――どのように評価すべきか、少なくとも今の風潮下で取り扱われるように、「単なるロマンティシズム」として処理されるべきか、という問題が重なって問われるのである。

少なくとも現代はこれ――もっとも広義な意味における宗教性と、これと同居する、自我の問題及び不条理なロマンティシズムの問題――を軽視しすぎている。

また、更に言えばこの際 別の問題が表裏一体のものとして同時に伏在する。それはこういうことである。
「(逆に言えば)ピアノ以外での演奏、例えばヴァルヒャのチェンバロに於ける、一見あまりに平明で無作為にも聞こえる演奏が、たとえばあの解説の手記の中でアファナシェフ自身が言っている処の<非干渉-非没入>といった質の演奏に、相当するか」、これである。

この問題も、対極にあるとされる「リヒテルの演奏」とは何か、という問題とともに、この曲集の演奏に於ける「バッハ平均律」演奏、ないし表現 にかかわる問題として、大きく横たわるものであるらしい。


   +++Afanassiev'sBach――平均律クラヴィーア曲集+++


2003年02月12日 (水)

前に平均律はどのピアニストに於ても第2巻のほうが出来がよい、と記したと思うが、アファナシェフの場合もほぼそうであろう。

それは第2巻のもつ或る種の絶対性が、演奏家それぞれのスタンスの特長、個性を吸収するからでもあり、そのぶん演奏家をして或る開示的境地に座しめて、バッハのその広大な懐で自由に、奏し易くするのだろう。

第1巻に於るアファナシェフには、まだ逡巡するものが有るように思われる。ピアノで奏する、という条件がいわば必然的に迫る、レガトかノンレガトか、という選択肢は、(他のピアニストがおそらくそうであったように)、かの思索深いアファナシェフにとってさえ、それはそのままリヒテルのようであるかグールドのようであるか、という選択肢として現れたと想わせること容易である。

これは、アファナシェフが思索深いということが、或る意味で余計に、神なき現代にあって他の演奏者が容易に<グールド寄り>に演奏する程には、単純な問題では無かったのかも知れない。

アファナシェフは、以前から記してきたように、また昨日も記したように、バッハにある最も広義な意味での宗教性と、恐らく人類史上最も高度なロマンティシズム(ロマンティシズムと言うにはあまりに高尚で逆説的なそれ)を、解決済みの問題として‘予め’排斥していない。そういう周到さが、楽譜に於るバッハのすべての思考と構築に対する証言と再現、という、演奏者としての使命の自覚ともいうべきもう一方の問題とともに、持ち合わせている。

勿論バッハの音楽である以上、第1巻も2巻も緊密な対位法により築きあげられてはいる。
が音楽の全体的性質上、恐らく第1巻に於てのほうが、自然な感覚に放っておけばよりレガトに流れやすいと想われる。(現代の演奏家達が、そちらの傾向に流れる、という事とは別に。むしろ現実の傾向はその逆である)

それは、テーマそのもののメロディックな個性は没する代わりに、より精緻な多様性に満ちた対位法処理が施される第2巻と較べ、第1巻では、旋律美的にも、主題とその他旋律の主従関係をはっきりさせた演奏可能性の余地があり、その分ロマン派的演奏に流れやすい性質を持つ為だと思われる。(おおまかな話だが。)
言い換えれば、いかに緊密な対位法によって出来ているかという事を一切悟らせないように奏する、という道も、まだ第一巻に於てならば、ひとつの演奏美学の可能性として極めうる・求めうる、とも言えるかも知れない。)

だからそうした第1巻に於て、敢えて構造上の緊密な連鎖と有機的役割交換などといったものを解剖学的に強調しようとしれば、音楽的には或る不自然さを伴わなければならないのであろう。同じ事をやっても、第1巻での方がそうした試みは音楽的自律性を殺してより浮き立ってしまうのである。

だが第2巻は、主題そのものに趣がある、乃至メロディックであるなどという事は意味を持たず、有機的構造そのものに本質的価値があり解剖学的な試みを喜んで享受する精緻で多義的な本質を有する上に、アファナシェフ自身もより自由なスタンスを、ほぼ全面的に確立していると思える。一種、場の「開け」のようなものが聞かれるのである。

バッハのすべての思考と構築というものの、探究・分析と、そのうちの出来るだけのものの、証言と再現、という問題提示を、第1巻と同様、踏まえていても、第2巻の場合には、本質的に殆どの曲で第1巻と較べよりナチュラルで開示的な境地によってなされやすいし、実際そうなされているのだ、といえるかも知れない。


全体をざっと聞いた印象であるが、一言で言って、アファナシェフのバッハ平均律は生滅の現場、#生まれいづる自律運動の現場そのものに座する平均律、というものではないように思う。
(#…グールドが出来る限りそれに徹したように。と言っても彼の場合はバッハ的に、というよりはむしろずっと無神論的に、行った訳ではあるが。
グールドは、アファナシェフと同じようにバッハの主題の殆どあらゆる構造と展開をつまびらかにさせるような演奏をしていると言っていい。
だが、それを開示する位相の違いがある。グールドはあくまでも、創造の現場、生命体のごとく有機的な無窮動性の発現現場で行うことに徹したのである)

アファナシェフのは、むしろ思考と解析の位相における演奏である。歩き走るバッハではなく、思考するバッハである。生命体の有機的'初発性'に還帰しえた創造者のスタンスにあるバッハではなく、じっくりと思考する只中のバッハであり、分析・解析・再構築の位相としての平均律であり、またバッハの思考の追従と検証の現場に座するもののとしての、或る種の使命を帯びた平均律であると言える。

2003年02月13日 (木)

バッハの驚異は、自然=必然性の合一と精神性の無辺な深さにある。
もう少し噛み砕いて言うと、構造性と生命性と精神性とがひとつになっているところにある。

構造性とは、対位法の厳格さ緊密さ精緻さ多様さであり、そうした数理学的とすら言える必然性の構築物が、音楽という<偶然=必然>的なものとして合一的に存在しうることの不可思議を伴って存する。

生命性とは、絶え間ない生成の現場でのみ立ち会える、有機体の自律運動性であり、まれな無窮動性であり、旋律の自存性としてのうごめきとともに緊密な連鎖性を持つ共同体としてのうごめきである。

精神性とは(広義に於る)宗教性であるといってもよいが、端的に長調の悠久性天上性であり、また短調の底なしの深遠さである、と言えるが、主に短調に於て区別して言えば、第一巻では主に求道性であり虚無であり空であり無であり、禅的に言う空智であり、また第2巻に多く見られるのは精神的開示性、日常と天上が不一不二となった禅的に言う実慧の境地、地に足のついた空、である。……相当する観念としては、である。

だが、こと「音楽」という芸術に於ける精神性・宗教性には、そこに生き生きとした生命力=初発性(自発性)と、思考及思想の主体的周到さとの、或る種「奇跡的な合一」いうものが付帯するともいえる。

こうした自律運動する生命性において、すなわち音楽芸術というものの第2×第3の合一点において、アファナシェフの平均律演奏は、何某か欠けるものがある、と言えなくもない。

またアファナシェフの思想性というのは、或る種の形而上学性や哲学性を持っているが、それが私などがバッハそのものに見出す宗教性や思想・哲学性というのと同一である、とは言い切れない。
彼は或る種の狂気を知っているが、それがただちに実存としての絶望や不条理、空恐ろしいほどの虚無感、ないし無とか空といったものに結びついているという感じではない。それは、リヒテルの演奏がもっともよく出ている。

アファナシェフの思想性とは、実存そのものが抱える、また抱えざるを得なかった深刻さというのとは別の、もう少し学問的・形而上学的な次元で、主に消化されたものではあろう。

だが、総体としての彼の演奏はグールドとリヒテルの非常によい所をとった――それは単なる折衷などというものでもなければ、無作為な結合体でもない――といっていいと思う。

グールドにあるような、バッハ平均律の厳密に構造的なものの活かし方(よりヴィヴィッドにか、スタティクにか、と活かす次元はそれぞれ違うものの)というものを、踏まえているし、見方によってはより発展的な仕方で開示している、といってもいいだろう。
またリヒテルのレガト、旋律と残響を効果的に生かす手法と、これによるピアノならではの精神的なものの蘇生と消滅、これを起こすことにもかなりの程度、成功している。リズムの取り方は主にグールドを基にしているが、全体にグールドより緩いtempoで、リヒテル的レガトを効用しながらバッハの多義性を周到によく展開している。


2003年02月14日 (金)

《第1巻》

第1番:
prel
アファナシェフのスタンスを始めから非常に象徴している奏法であり、上行型分散和音の第一音とその余韻こそがその後7つの分散和音の踏み台となるとはいえ、これを異様に長引かせる独特の強調方法はあきらかにグールドをそれをわきまえている。

が同時にこれら分散和音の滑らかな上昇志向性を支えつつみずからは徐々に低音化・深遠化してゆく踏み台の第一音の余韻、また各分散和音それぞれの形成する空気感、フレーズ全体の深みのなめらかさは、リヒテルが大事にしたレガトを尊重し、その醸す雰囲気をも無視してはいない、という風である。

fuga
リヒテルほど空気感と余韻を堪能してはおらず、幾らかtempoも速めであるが、グールドの現出したドライな世界よりははるかに第一巻に特徴的なバッハ的大気圏を尊重するタイプのものに近い。

第2番:
prel
小節の2番目の16分音符×4の先頭の音(=小節の5番目の16分音符)を強調するのは、グールド的である(グールドを聞き込んでいることのあらわれである)。がpresto部分はtempoも空気感もどちらかというとリヒテルに近い演奏である。

fuga
wetとdryの中庸をゆく奏法であるが、主題それ自身がややメロディクなだけに、これを生かしたリヒテル的な主題(高音部)の尊重、余韻の尊重、空気感の尊重は見られる。
各声部のまったく対等でない主従関係の付け方・強調の'割合'配分もほぼリヒテル的ではあるが、奏法としては(グールドほどでないが)ややdryでもある。(ペダル、音の伸ばす長さ)
第3曲prel/fugaにもほぼそれが当てはまる。
旋律の生かし方には殊に上記のことが相当する

第4番:
prel
この曲に関してはリヒテルは楽譜に従わず殆どのトリル乃至前打音を削除することにより、出来る限りシンプルな旋律をレガトでつないで内省的沈潜的で淡々たる雰囲気を助長させることにのみ努めていた。

グールドは第2小節冒頭の右和音にトリルをつけていた(同様に4小節冒頭もである)が、楽譜では――私の手元にある楽譜に、「○○版ではこう、」という注意書きがないので――おそらくどの版の楽譜もともに八分音符の前打音がついているのみである(……と思われる)。

だがアファナシェフは第2小節に関してはグールドと同じくトリルで処理している一方、第4小節では楽譜に従って前打音で処理している。また5~7小節の第1声部同型フレーズの繰り返しに関しては、楽譜では5小節のみ前打音がついていないが、アファナシェフは5小節頭も以下6,7小節と同様に前打音をつけている。これもグールドと同様である。
また楽譜では13小節左旋律冒頭にトリルはついていないが、グールド同様アファナシェフもつけている(15小節半ばも同様。)tempoもグールドのようにごくゆったりっとしている。
がグールドのように無機的音楽ではなく、沈潜的とまでは言わないがかなり内省的である。

聞かせどころ、20~24小節のスラーで繋がれた第1声部の各高音の強調はつとめて思索的なアトモスフェルを尊重した様子で、以降の24~25小節のレガト、この流れの窮極、#ロ音(f)の空気感は殊にリヒテル的である。同様に、36小節第1声部冒頭音ホ(fz)の静謐さの強調も然である。

fuga
この仏教的ですらある孤独な沈思にみちた楽曲にもリヒテル的な意味で孤高の、といった感はないがかなり内省的に向き合っており、単に対位法の構造的解明のみならず空気感と意味性を大事にしていると思われる


2003年02月15日 (土)

第5曲:
fuga
この長調フーガは、旋律の特徴、また諸声部の絡みともにベートーヴェン性とシューマン性の比較的強い楽想である。適当に休止符・付点等を添えればロマン派的な音楽になりやすい。その傾向のためかリヒテルの演奏は流動性、対位法による主旋律交換、tempoともに至当であった。
アファナシェフの場合、tempoはこれより幾らか遅めだが、澄明な感覚がよく出ている。14小節以降曲の盛り上がりとレガト効果により必至にほぼリヒテル程のtempoに上がりそうなのを、努めて抑えるような感覚があるように聞こえる。

10小節冒頭の右和音に、楽譜にはない前打音を付けているのは意図的にか無意識にか、グールド的。
だが概してこの曲に対するアファナシェフの把捉からするとこのテンポは妥当であろう。


第6番:
prel
同フーガとともに、この曲も思い切り機械的演奏といったものも可能であるが、付点やシンコペの装飾左声部の強調等々によっては非常にシューマネスクな跳梁性を帯びやすい曲である。

全体にグールド的な演奏であるが、20~23小節に於る左声部の強調は合理的であり、やや(高度な意味での)ロマンチシズムへの配慮もある。

fuga
これも機械的無機的演奏も可、叙情的演奏も可な、幅の広い音楽である。
勿論リヒテルは後者を採り、重なるレガト毎に自問を深めて行くかのようにつとめて瞑想的に弾いていたが、アファナシェフでは2小節,♭ロ音に施された原稿のスタカートの意味を生かしたグールド的な演奏要素がめだつ。

同小節トリル(以下同様、10,11,14小節etc.のトリル)も、楽譜通りの 5 6 5 6 5 4 5 型(乃至 5 6 5 6 5 6 5 4 5 型)ではなくグールド同様5と6の機械的繰り返しを選択している。瞑想性よりは曲の順行反行、ストレッタ等のしっかりした対位的構造の強調に重きが置かれている。


2003年02月16日 (日)

第7番:
prel
トッカータ風であり、次のfugaとともに、どちらかというと流動性の尊重された演奏が似つかわしいかも知れないが、アファナシェフは吟味・検証するように思索的に弾いている。バッハ自身によりスラーが多様されているだけにレガトを施している。
がfugaとともにゆったりしたテンポながら、どちらかというとリヒテル系統の<余韻を保つ>ような演奏でこなしている。

第8番:
prel
弾きようによっては思い切りロマンティックなものを引き出しうる前奏曲であるが、かなり精神性に重きを置いた奏法をしている。
曲前半はレガトを尊重しことに右フレーズ各〆の高音部の残響をよく鳴らしているが、後半では各和音のアルペッジョはできるだけ排し、叙情性にながれぬよう探索的に奏じているといえる。
fugaでは,.前半沈思黙考のあまり 時折立ち止まるかのように流れの沈滞する箇所もある。
緻密な何種類もの対位法の構成とその同時的交錯の生かし方、殊に中盤~後半では低音部の主体的うごめきと主題展開との綿密な連関性の尊重等、オルガンで奏しても各声部独立して聞こえる程の明確なタッチに配慮してみえる。

2003年02月17日 (月)

第10番:
prel
妥当な演奏。
tempo,タイのかかる全音符の伸ばし方――殊に21・22小節~23小節冒頭迄の長い全音符を、左声部16分音符×32の進行する間に響かせているのは見事で、この後開始するprestoのtempoも全体の把握から言っても曲想から見ても、至極妥当と思われる。

次fugaも、半音階進行2声部の順行形を主とする交代がよく開示されている。

2003年02月18日 (火)

第7番:
prel
前の6番fugaでもそうであったが、アファナシェフはレガトかノンレガトかを迷ったと自ら記すにしては、非常に入念にレガトを尊重しており、そこに見られる楽曲分析の周到さには、敬意を表すべきものがある。それに見合う緩いtempoの中でその思慮が綿密に表出されている。
タイで伸ばされるべき音、その長さ。レガトで残されるべき響き、その長さ。非常に正確でありまたそれらの選択は、各楽曲のモティフとの連関、またその展開としての――後世のBeethovenやSchumannの手になれば主題の発展した形としての分散和音ないし和音を構成していたであろうと想われる――、keyとなるはずの諸声部の音の選びを、的確に行い、周到に処理している。

7番はprelとfugaもそうした判断を求められる楽曲であるが、prelの10~20小節辺りのタイとレガトの処理、持続音として選択さるべきものの響かせ方、またfugaではほぼ全般にわたってすぐれているが、殊に28~30小節の処理など、3vioce各声部の独立自存性を強調する持続音、他方、一声部から次声部へと橋渡しされるkey音等の処理の的確さが、レガトとスタカートの差異づけの妥当さとともに、際だっている。


2003年02月19日 (水)

つづき
第7番:
prel
グールドは、荘厳さと精密さの同居する不思議なprelに関し、巨大建築物の支柱のような、主立った全音符乃至二分音符は、パレストリーナ風(またはコラール風)な強調のための<レガト>と打鍵による<f>を施し、その他の細密な文様部分に関しては<スタカート>(それも、時折思いがけないほど強く出している)で処理することにより、分別したまま両立させている。
が、アファナシェフはスタカートを用いずに、タイで繋がれたkey音のレリーフ的表出、またこれによる主旋律の対位的展開の趣の演出を巧みに施している。
勿論両者では、生まのよどみなく湧出する律動性に重きが置かれるか、丹念な思索性と構築性の解析に重きが置かれるかの違いはある。

2003年02月20日 (木)

第11番:
prel
リヒテルもグールドも楽想把握は対照的といはいえ、この曲の持つ律動性を生かすべくやや速めの至当なテンポで処理していた。
アファナシェフの場合、(一律にそうであるが)この場合もやや緩めのtempoで扱っている。それだけに、16分音符×24のフレーズ繰り返しの、順行形による声部の交代は明解である。

尚トリルは柔和さと余韻効果を生かしたリヒテルのそれに近く、8分音符×9+四分音符×1のフレーズ処理は、譜面通りすべて平等なスタカートを刻まず、1(レガト)・2(スタカート)3・(スタカート)、4(レガト)・5(スタカート)・6(スタカート)……のパターン――乃至は1のみレガト――で進行するのは、ごく自然になじんだグールドの影響と見られる。

2003年02月21日 (金)

第11番:
fuga
このアレグレットの曲の主題(惹起8分音符+8分音符×3+8分音符、テヌート指定)を、リヒテルはやや重めのスタカート(メッゾ・スタカートくらい)ですべて平等に弾いており、他方グールドはスタカート+テヌート,スタカート,スタカートといつもの彼らしいリズムスタイルで弾いている。
アファナシェフはこの点では全面的にグールド的であるか、それ以上にテヌートとスタカートの差異を強調した恰好をとる。

尚この曲は、非-数理学的動機から創造しない作曲家には殆どありえないような諸声部の拮抗がある。合理的=数理学的音楽美には合致するが、純音楽美にはかならずしも合致しない、対位的進行の音楽に特徴的な主体性主張の同時性が随所に見られるフーガである。

対位法の開示性に長けたグールドが、このフーガの中で唯一28小節第2声部(上記パターンのテヌート)の明瞭化を何故かあまりしていない(第2声部三番目のロ音が殆ど聞こえない)。
アファナシェフの場合、やや軽いスタカートぎみにではあるがこれをよく処理しトリルと3テヌート(譜面上の同時対立)3声部の対照的進行を表出している

2003年02月22日 (土)
第12曲:
prel
グールドはこれを奇妙な程に遅く弾いている。リヒテルのほぼ倍位いの速度である。
私には、その意図・必然性は、曲のもつ構造・趣からしても、時折スタカートを取り混ぜる彼自身の演奏からも、計りかねた。
たしかにマタイやミサ曲のようなオーケストラ演奏に見立てるか、さもなくばオルガンで、ゆったりと荘厳に奏するのに似つかわしい音楽ではあると思うが、あえてピアノという楽器で演奏するのに、相応なテンポの範囲としては理解しかねる所がある…。
それに比して、fugaは思ったより速いのである。このprelとfugaに関しては、通常?の理解とあえて逆を行くグールドの演奏であるように思われる。

さてアファナシェフの場合であるが、

prel
この場合、グールドほど意表をつくものではないが、ゆっくりめのテンポである。
が、彼の演奏する他の作品のテンポからしても、けして不自然なものではないであろう。
殊に内声部と低音部の全音符~二分音符の延長を求められる重厚な表現が、ピアノという響きの短命な楽器を扱うハンディキャップにも拘わらずよく鳴らしており、ごく自然な深みを帯びている。
どの小節にも当てはまるが、殊に6小節後半から8小節前半部分の左声部の16分音符×4の冒頭各低音(オーケストラであれば通奏低音に相当しそうな土台の音)の響かせかたは熟慮されている。
(第3声部と第4声部の絡みで時折有る合一点=同一化した各音。したがって左声部――第3声部と第4声部の旋律――の描き分けと交錯的共鳴とが、如実に演出されているのである)。
また15~16小節の諸声部の独立性と交錯性の浮彫的表現なども見事である。

翌17~21小節冒頭まで、第4声部はただ一音(ハ音)を通奏低音としてつなぎつづけなければならない。
グールドはピアノの特性のため必要にさいなまれてなのか、分散和音風に定期的に弾き直している(17,19,21小節冒頭等)が、アファナシェフは微妙なタッチでそのまま残響だけを引き延ばしており、しかもオルガンにしてはじめて可能であろうこの持続せる低音を――実際には耳には殆ど触れられないほどの弱音だが――暗示させることに、かなり成功していると思われる。このことを考えても、彼のとったテンポはこの場合概ね妥当であろう。

fuga
リヒテルよりむしろ速いくらいではあるが、この作品そのものの曲想の把捉からしても、prelでとったテンポとの関係からしても、至当な演奏ではないだろうか。
4声部の交錯と各フレーズに於る重点の置き方、など非常に納得のいくものである。充実した演奏と思われる。
低音部による主題の拡大形による再現なども重よく響かせており、曲の重厚さを物語らせている。

2003年02月23日 (日)
第13番:
prel
これについても奇妙にゆったりとグールドは弾いている。
グールドの場合、(大体に於てそういう傾向にあるが)ヤン,ターという風に、フレーズの冒頭スタカート+後半レガトという奏法を、この曲に関しても採る。左声部は(付点8分音符連打)おしなべてメゾスタカートぎみであるが、やや気まぐれに3小節目では後半のみレガトを行使するなどしている(23小節ではまたスタカートに戻している)。

また右声部も、概ねヤン,ターという前半アクサントの奏法で行くのであるが、例外的に20小節では、それまでの低声部での転回形を用いた盛り上がりを受けてか、リヒテルがするようにごく通常のレガトのみでdim.を受けている。

トリルに関しては、右旋律冒頭と7小節冒頭のみ、もっとも簡素なスタイルで処理し、あとは――ブゾーニの見解では、7及び12小節ともに省略するべきとしているが、グールドは7小節の方は生かし、12小節以降は全て――省略している。

ところで、グールドはどの版を用いているのか、最終部分28小節の左声部#ハ#ホ#ト#ハを、#ハ#ハ#ホ#ハと極端な進行を行っている。

アファナシェフは――この曲集に関しては全般に渡ってそうであるが――これといって奇抜なことをしていない。tempoも殆どリヒテル程度で、かなりレガト気味に弾いており、レガトとスタカートの使用に気まぐれさもない。トリルもすべて省略しておらず、軽快に弾いている、という感じはないが、少なくとも曲の柔和さを引き出すような演奏をしている。


2003年02月24日 (月)
第13番:

fuga
グールドはこの曲全体に、代表的フレーズ――ロ#イ#ト#ハ#イ#ヘ/#イ#ハ#ハ#イ#ト#ハ#ハ#ト=リズムにすれば8分音符×4、及び16分音符×4両型の部分――を、
♪♪♪♪(全スタカート) としてではなく、
♪_♪+♪_♪(_はスラー) として処理している。ものすごい本能であり、勘である。

この曲は単なるC=4/4ではあるが、リズムの成り立ちとしてはグールドの捉えるように(隠れた)第1拍目が第3拍目と同様にアクサントのあるべきもののはずである。数理学的にはそれが正しいだろう。
だからこそあのmeno部分――第23小節2分音符のテヌート( ̄)が必然性を以て現れるのであり、グールドの奏法は誰よりもそれをリアルにしてみせる。そういう、曲の成り立ち、律動性の成り立ちへの忠実さが、リズムに――第1拍目(の前半分)が8分「休」符で始まっているという――変則的な面白みを、理解させもする。

ところが、これをより徹底さえるならば、曲の盛り上がりのmeno部分(23小節)を越えた26小節の左声部、
ハヘロイロホイトイロトヘト…のフレーズを、杓子定規に
ハヘロイ/ロホイト/イロトヘ/ト…という風に刻まなければならない。勿論バッハ指示のハ/ヘロイロ/ホイトイ/ロトヘトという音楽美から導き出される区切りのようでなく。
が、グールドはそのどちらも選んでいない。(私はここにはいつも違和感を覚えた) 彼は
ハヘ/ロイロホ/イトイロ/トヘト…という区切りとして、――ここだけ例外的に――対処している。リズムの必然性からも、それは理解が容易でない所である…。

リヒテルは、‘旋律’の自然な流れにさからわずに弾いており、特にどの拍を強調する風もなく、時にリズムと旋律との間に生じる非合一的拮抗をあらわにするこの曲に関し、こうしたリズム処理には殆ど無頓着に奏じていたように思われる。リズムのもつ波動とはまま相容れぬ、旋律自身の特徴にしたがい、第2拍目をたっぷりと歌わせる効果的部分もしばしばみせる。

アファナシェフは、……どちらとも聞こえる。旋律優先とも聞こえるし、リズムの奥義をわきまえている風にもとれる――ということは、巧く処理しているといえば言えなくもない。

彼は第1拍目と3拍目を同じくらいの重要さで、ほぼ処理し通している。かと思えばまた、旋律の波形上必要な第2拍目の強調も行っており、そうした別々の事由が合一して遂げられている<均衡>によって、4拍がいかにも平等にみえるというバッハ音楽のからくりをよく遂行し、ちょうど中庸を採っているという感がある。

meno部分のテヌートの必然性(合「理」性)も、適度に感じさせるが、同時にバッハのわざわざ記した1/2341/2341、という26小節の変則的な区切りも、ごく自然なものに感じさせることに成功している。

2003年02月25日 (火)
第14番:
prel
グールドはどの版に拠っているのか2小節右声部の第9音(通常#ト音)をイ音で処理している。リヒテルとアファナシェフは通常通りである。

fuga
これはマタイのペテロの懺悔部分にも似た楽想で、すすりなきの動機とも言われるものに拠っているが、グールドならまさにそうしたことに関わりなく、タイによる沈黙の音符の頻繁さと6/4拍子の特徴をフルに生かした速いテンポで、一小節(4分音符=3拍)を8分音符単位で6等分し、休止符=第1拍目を暗黙に強調するという、例によって逆説的なバッハの律動の特徴を引き出す奏法をするのかと思いきや、じつにゆったりと弾いており、これに関してはめずらしくリヒテルと殆ど同tempoで進行している。

それよりはむしろ、このfuga自身の4声部の巧みな対位法の展開と交錯仕方に興味を覚え、殆どオルガンコラール風に身をゆだねているかのようである。

ことに第2主題・主題の縮小形変形・転回形等4声の同時に拮抗する33小節以降最低音部を強調した奏法は興味深い。終了は#無しで処理している。

一方、むしろアファナシェフの方が、グールドが弾きそうな速度及び奏法を行っている。

最初の動機処理は殆ど2倍近い。勿論アファナシュフは比較的打鍵が重いし、曲想そのものが荘厳で沈痛な為、速めでもグールド的とはいえ転がるように軽快には弾いていない。
だがこの曲の律動性はよく捉えており、一小節をただ123456というよりは寧ろ「1」2 3・「1」2 3という波を以て6等分する解剖学的刻みが、アクサントの付け方、アクサントによる旋律の再開の仕方、などとして、旋律の交錯模様とともに非常によく聞こえてくる。

この曲に関しては、例外的にリヒテルとグールドが近く(現出する世界は異なるが奏法的に)、アファナシェフが独自であるという構図となっている。
終曲部分の音符はリヒテルと同様、通常通り#をつけている


2003年02月26日 (水)
第15番:
prel
アファナシェフはやや重厚だが、グールドとリヒテルでは非常に軽快である。律動性を最大限に引き出している。

fuga
三者ともに大変いい演奏をしていてどれも素晴らしい。この曲は3voicesであるが、おおかたは2声の遁走であるが、主題の変形や反行形、反行形の変形などをとりつつ効果的にもう1声部絡みつくような形になることが多い。が、3声部となった場面はそおれぞれが(密接な関係の下にありつつも)かなり独立自在にうごめき、ついごたごたと交錯しがちになる所である。

リヒテルの場合、3声部のフレーズも、遅滞せず流動的に聞かせるだけでなく非常になめらかなタッチに弾いている。
またピアノに相応しいタッチを終始持続させているため、たとえば23,26~27小節、48~50小節のように、ある1声部ははじめの一打鍵以後は休止符のつづくような場合、形の上では3声ではあるが、3声であることを感じさせず、殆ど2声であるかのように奏する。

グールドとアファナシェフは、3声部の独立無碍な主体的、かつ相互連関の密なうごきというものを克明に引き出している。
勿論前者はあの急送なテンポにありながら諸声部の交錯を無窮動の極みに変え、後者はごく至当なテンポで解析的に、トリルも微視的にも巨視的にも妥当な処理で明解に奏し、それでいて高音部「>」の輝きなどはかなり天上的に・典雅にさえ描き出している。


2003年02月27日 (木)

第15番:
fuga

グールドとアファナシエフでことに興味深いのは、13~14小節での3声の拮抗、同20~22、25~26小節目の拮抗、また61~63小節。
グールドは63小節の第1声部の印象的な高音を、際立たせていないどころか殆ど響かせていない。それは以降のトリル後に続く低音部が最も際立つ65小節以降、77小節まで延々と、同様である。しかもグールドの場合、80・81小節第1声部の「>」(ト音・#ロ音)さえ、ほとんど響かせておらずに、低音部の強調を続けているのがきわめて特徴的である。

アファナシェフの場合は、そこまで極端なことはせずに、低音部の主体となって隆起する65~69までは低音部を強調し、それ以後のトリルを転機に第1声部や内声部も適宜強調するなどし、全体にどの声部にも公平である。


2003年03月01日 (土)

第16番:
prel

以前にも記したと思うが、グールドは丸々1小節にわたる右手のトリルで実験めいた事をやっている。

4/4拍子であるから、当然1小節が4等分される訳だが、その上でまず最初の1/4小節は4分音符相当(つまりトリルなし)、次の1/4小節は32分音符、次の1小節は48分(=16分音符の3連音符相当)、最後は64分音符(このトリル本来に要求されると思われる単位)、とそれぞれの次元を用いてトリルの長さを奏じ分けるのである。

これは言い換えると、彼がいかにバッハの一つひとつの小節を、単位の異なる体内リズムで以て同時に刻んでいるか、ということを明かすものでもある。
(※尚、4分音符相当から、いきなり32分音符相当へとトリルの長さが*飛ぶ のは、間をうめる8分と16分音符相当を、左声部が行っている所為であろう。

*ちょうど左声部が、1小節を二通りの仕方で4等分している;つまり第2声部…(16分×4)×4;第3声部…(8分×2)×4という形である。

さてアファナシェフは通常通りトリルを奏しているが、このトリルにはグールドの正確さへの意識が、あきらかにあるであろう。
単位別に奏するなどという特異なことはしていないが、ぴったりと計算された数のトリルを行使する。リヒテルのように自然な指の動きに任せてはいない。じつに数理的な処理を行っている。

がこの姿勢は、トリルひとつの問題ではなく、平均律全般にわたって見られるのであって、解剖学的な彼の視座というものがこのような微細な局面に於ても推察できるということである。

尚、グールドは終盤18小節最後のイハイト#ヘホを、♭イハ♭イト#ヘト、としている。(たしかグルダもだったか?)
リヒテルとアファナシェフは♭無しのイ音で行っている。

2003年03月02日 (日)
第16番:
fuga
第一巻に属しているにしては、かなり精緻なフーガで、(8分音符×3)+4分音符+4分音符、という第一型と、(16分音符×2)+8分音符+(16分音符×2)という第二型とが組合さった二重フーガとなっている。その上で順行形、転回形、転回形の転回形(としての順行形)、などが交互に折り重なる箇所もあり、非常に重厚である。

アファナシェフは、ちょうどグールドが曲を終えた際ほどのテンポで、開始している。というのはグールドでは開始テンポと終結テンポが異なるからである。
グールドは比較的速く開始しているが、終息時にはゆったりとしている。5~6小節、また15、18小節、30小節など、二重対位法などが駆使された精巧なフレーズを通るごとに、慎重で味わうような演奏をしているために、次第に遅くなっていったと思われる。

尤も、この曲に関しては、その個性がアファナシェフ自身のこの曲集に一貫させたテンポ設定に、そのまま相応しているとも言えるのであろうが。

グールドも、またアファナシエフも、4声を非常に丹念に描き出している。
アファナシェフでは殊に、込み入った15~17小節、また29~30小節の4声部分けが見事で、マタイの4声コラールのように、ひとりの人間の指で奏でているのでないような、独立した各声部の自存性と、同時に緊密な関係性が、よく現出している。
グールドの場合、7小節、14小節、16~17小節の浮彫が、非常にきれいである。30小節も、アファナシェフも同様であるが、タイでつながれる諸音符の処理がみごとである。20小節以降の3声部になる部分では、最低音部をつとめて強調している所はグールドらしい味である。
リヒテルでは、殊に6~9小節、15小節、また25~28小節の対唱がうつくしかった。
こうしてみると美を引き出す箇所も、それぞれの演奏家の個性に適っていて面白いものである。


2003年03月03日 (月)

第17番:
prel
蓋を開けてみれば意外にも、このprel.を開始からスタカートで弾いているのは、リヒテルである。

バッハ自身は冒頭部分、テヌートを記してはいるが、とくにスタカートの指示はなく、右声部では13~16小節、またこれを左声部で受ける30~32小節で得っているのみである。

リヒテルは、3~6小節,また18~19小節などの第1声部の高音に、バッハ自身によって記された際だったテヌートを守っているが、それはテヌートのようにも「>」(アクサン)のようにも聞こえる。
跳躍性を活かした演奏であった。

速度はグールドもリヒテル程。が特別軽やかな演奏、という感じではなく、どちらかというとテヌートのニュアンスをそのまま全体に活かしている。そしてむしろ次のfugaをじつに無碍に弾いているのである。

アファナシェフは、いつも通りやや重たげの演奏であって、このprel.と同一主題の変奏から出来たと思われる次のfugaと同様に、速度もかなりゆっくりである。


fuga
この曲を一体どう捉えるべきなのだろうか。

私は、アファナシェフが平均律を弾いているというのを知ったとき、まずこの曲辺りをどう弾いているかろうかと想ったのである…。リヒテルとグールドの差異があまりにはげしかった所為もある。殊に速度には倍ほどの相違があった。

リヒテルで聞いていた折、内省的であるとともにじつに悠長で天国的長大さを感じる曲想と思われた。

聞いてみると、アファナシェフでも意外な程に、大河のようにゆったりとした時の刻み、といった感覚は変わらなかった。
それに比し、グールドのじつに急速なこと。同じ曲を、こんな風に天国的悠長さの極として演奏することも、無窮動性の極として演奏することも可能なのである…。

ところでこのfugaは、やはりバッハらしい、リズムとフレーズの切れ目の合致しない例の変則的処理によって、一体何分の何拍子なのか、一度聞いただけでは判りづらい面がある。

リヒテルは、やはりおそらくこれが4/4であることを聞き手に理解させようという目的や意図などはあまり持っていなかったように想われる。リヒテルにとって、そうした事は少なくとも演奏の第一義ではないのである。


グールドとアファナシェフは……おそらく理解していたとは想われるが、それ程判然とする演奏とは言い切れない面がある。否むしろ、それを立ち処に理解させようとする演奏などといったものは、たとえグールドやアファナシェフでも、この曲の場合には無理が掛かりすぎるかもしれない。
音楽上、それはあまりに不自然に聞こえるからである。

(実際、グールドでさえ ヤン・タ・タ・タという風に1拍目に明瞭なアクセントを付けていない。付けていない所もあるし、付けられない所もある。フレーズの開始が休止符であったり、前フレーズからのつながりでタイで結ばれているために、音にならなかったりするのである)

それ程にリズムとフレージングとの間に多くのギャップがあるのである。
バッハ自身が、リズムの律動にそぐわぬフレージングを選び、また譜面上にもそのようにスラーをかけている。これに従う限り、あえてスラーの記されたフレージングのまとまりに逆らう「頭」を付けた明解な4/4で刻むことは、困難である。

また、これもよくあるバッハらしい処であるが、そもそも曲の冒頭、第一拍目からして休止符で始まる。

演奏が開始したとき、これが第2拍目から始まっているなどということを即座に理解するのは困難である上に、フレージングの性質からも、速・遅どちらのテンポで弾いてもまるで3拍子(乃至6/8)であるかのように――双子のようによく似た前のprelが3拍子だった所為もあり――聞こえる、、etcetc...というのだから、楽譜を持たない聞き手としては、当初は殆どつかみ所がない。

3拍子(6拍子)かと思っているうち、7,8小節か、或いは10小節までくると、4拍子に刻まれていることが判ってくるという始末である。

グールドではさすがに10小節目では4/4の刻みが鮮明にされる――というのも、グールドがあえて鮮明にしているというよりは、フレージングの切れ目とリズムの切れ目がここで漸く折り合うからである。
がもう次の小節から、ややもするとまた(フレージングの上では)2拍子のようにも聞こえはじめる…。

無碍自在というか、じつに自由で興味深い曲である。

この曲に関する限り、どちらかといえば、こういったリズミックな才能にかけて天才的なグールドよりは、アファナシエフの奏法のほうが、そうした入り組んだこの曲の構造を理解しやすかった。

彼は10小節に至る前から――6,7小節や8小節、11小節の冒頭にも、けして違和感を感じさせぬようにではあるが、拍子の頭としての控えめなアクセントを置いている。しかもそれが<f>にもスタカートにもならず<テヌート>ぎみになされているので(勿論、バッハのテヌート指定以外の箇所である)、フレージングのつながりの邪魔になるようなこともない。
それどころか、他声部が主題的な役割を担うべく盛り上がりをみせてくる場所では、こうしたテヌートがその際の通奏音ともなっており、次のフーガの展開をおのずと形成するような恰好で対位法を顧慮しながら奏されていく。

殊に曲の後半から終盤では、タイで長くむすばれたこれらの冒頭音(4/4の「頭」)の代替に、内声部や低音部の音をやや強調することで、フレージングをゆたかにさせるとともに律動の再開(小節区分)を示唆している。
そして、31~32小節,34小節などでは、リズムに於る第1拍目のそれとない強調と、フレージングによる別の音の強調(<f>やcresc.)を、たった1小節の間にも細かく交互に行うことにより、両者を引き立たせ、同等程度に扱うことによって律動美とフレーズの美を両立させてもいる。

2003年03月04日 (火)

第18番
グールドとリヒテルはほぼ同じ速度。そういう時、大抵アファナシェフのテンポは彼らよりずっと緩めである。
このprelは3声、半音階進行でもあり、対位法も順行・転回形、順行+転回の結合形、etc...よく使われており、殆どfugaのような精密さである。

fuga
この4/4は、休止符(四分休符)からの出発であっても、1小節聞けば立ちどころに4/4であることが判る。第一主題と、中半(間奏部?)はその変奏から生じると想われる第二主題――その片鱗を、すでに5小節の右内声部に、またこれを受けた11~12小節右第1声部に、見出すことが出来る――による展開とで、対位法が織りなされる。こうした変奏の手法――主題展開――は、ベートーヴェンやシューマンの手法にもよく現れるのではないかと思う。
グールドの演奏では目まぐるしくて未だよく解らなかったが、アファナシエフの思索的、解剖学的演奏でそういった考えも去来する…。

リヒテルを聞いていた折、その演奏の大半に関して彼の採った速度に納得が行っていたが、この曲に関してはあまり面白さが、正直判らないで居た。
が比較的急速なグールドのを聞いて、この曲をよいと感じた。それがバッハの意図通りの妥当なものであるかどうかは解らないが。

(というのもバッハの意図というもの自身、その曲想が或る程度の変幻自在さを帯びる場合、極端な二つのものに分かれることも多く、またそれらは必ずしも或る代表的な演奏によってただ一つに集約されるとは限らない気がするのである)

実際この曲はチェンバロで弾かれてもオルガン(orオーケストラ・合唱)で奏でられても、どちらにも相応しく感じられるだろう。


例によってグールドは急速に弾き、リヒテルとアファナシエフはゆったりと弾く。
この曲のスタカート部は虚無的で、やや したたかさを帯びている…。マタイのテノールレシタティボ「Gedult,Gedult(忍びゆけ)…」のような精神をも彷彿する。

ただグールドの演奏では、そうした深い意味を帯びたものは去来しない。が、この曲に関しては彼のものが一番面白いし、惹かれる。

グールドはこのスタカートを、あえて引き立てて居らず、半分テヌートのように扱っている。曲が進むに連れて、それはスタカートどころか、いつもの彼の性癖通り、ヤン・ターターターと処理される。彼はこういった曲想にすら無窮動性を見出してしまうのである。

2003年03月20日 (木)

引っ越しに目途がつき、二週間ぶりの日記となった。
引き続きバッハの平均律に就てのノートを記していく。

第19番:
prel

この曲にかけてはリヒテルの律動性がきわめて秀逸である

fuga
リヒテルで聞いていた時分、この曲は風変わりで独創的、何か面白そうだったが、正直言って何故なのか、この曲は一体何ものなのか、その構造・からくりといったものが皆目分からないでいた。

グールドを何となく聞いていた時、或る時点でこれが9/8拍子であることを痛感させられた。その閃光はグールドの打鍵と刻みの強調によって所どころに現れた。がまた次の瞬間、その示唆する所とは異なる別の層から突発的に生じるらしい、強調的打鍵によって、たちまちキツネに摘まれたようにその掴みかけた感覚を、逃してしまうのだった。
楽譜を見ると9/8であった。

グールドを聞いていて、或る時点、というのは、まず12小節の4拍目――第1・第2声部はタイで繋がれているので音になっていないが――だった。事実上の休止符だったが、グールドはこれを4拍目であることを明確に解らせる奏法をとっていた。
つまりアクサンとタッチによって、一小節を(8分音符×3)×3で明瞭に3等分していた。ヤンパンパン/ヤンパンパン/ヤンパンパン(123/123/123)、という風にである。だから「音のない」4拍目が二度目の「ヤン」(1)に当たることが理解されたのである。

こうした強烈な教唆は、
21小節目――(ニ)ロホ/ハヘニ…=(ヤン)パンパン/ヤンパンパン
            :但(ニ=ヤン)は音ナシ――、
また25小節4~5拍目――第3~2声部の受け渡し地点、
等々にもあらわれた。

それにしてもバッハとは摩訶不思議な曲を生み出すひとである…。

この曲の難しさは、9/8拍子であるにも拘わらず、主題開始が(3声部ともに)
○××/×○○/○○○(音アリ・ナシ)
123/456/789(拍)

という具合に、第2~4拍に休止符が連続的に重なり、拍子が取りにくい上に、例によって例のごとくバッハ特有の、律動の摂理と旋律上の摂理が故意に矛盾する、というあの性質を多分に有する楽曲の性為であろう。
実際旋律そのものの動き・終始だけを追えば、それが3拍ずつ刻まれる律動などというものとは相容れない、到底そぐわぬ性質のものに聞こえる。

グールドはしかし、この曲の律動が、一小節を3等分するアクサンを有するものであることをよく理解させる。が、同時にこれに反し、拮抗する側面――ストレットによる他声部の突入――も、強烈な打鍵により際だたせている為、無手で聞いている方はバッハの意図どおり?、攪乱されもする。

アファナシェフはというと、彼らしい探索的な歩みの奏法により不思議なほど単調に、pないしppで弾き通している。だがこの単調さにより、かえってこの曲に於るバッハの極意を、かなり容易に理解することができるとも言えるのである。

平坦な奏法であることが、この場合解剖学的意義を有するともいえる。そうした意味では、あえてグールドの逆を行く方法だとも言えるかも知れない。。

彼は、――一見リヒテル的なレガト奏法にも聞こえるが――この8/9に関し無自覚、まる切り無頓着であるとは、おそらく言えないだろう。それは(おとなしい仕方ではあるが)グールドとおなじ12小節のフレーズの区切りや、同じく21小節のさりげない3等分進行のフレージングによっても解る。

また平坦なだけに、23~24小節に於て急に細分化される第1声部の音型の動き――(16分音符×6)×3――でさえ、123/123/……の3×3進行の律動を以て如実に追従することができる。

だがアファナシェフがグールドを意識している――というよりは寧ろ前提にしている――のは、開始の第一打鍵*からすでにあきらかである。

*……テヌート指定。が、グールドでは全体にスタカートがこの曲を支配しているので、この第一打鍵は相対的に言ってメゾスタカート程度に聞こえる。アファナシエフも、この点に関する限り、この奏法と打鍵の特徴を踏襲している

2003年03月21日 (金)

第20番:
prel
この曲に関し、アファナシェフがなぜこのように足を引きずるようなタッチで奏するのかが未だよく理解できない。
この曲も9/8だが、その律動を一瞬裏切るように聞こえがちな第4小節の、意外性にみちたバッハの処理も、グールドは早急なテンポの中で巧く9/8として処理している。

がアファナシェフの場合、テンポが緩いわりにその点でも合点がいかないし、123/123/123の律動に於る毎3拍目のタッチの奇妙なもたつきと、全体の沈思的な旋律の流れが、この生き生きした楽想を重くしている。

グールドやリヒテルでは、この楽想のめくるめく律動性がそれぞれ異なった仕方で活かされている。

fuga
だがフーガに関しては、アファナシェフの演奏は味わいがある。

グールドもリヒテルも、殆ど同じ位のアップテンポで奏しているため、あの重厚な8番フーガにも劣らぬ程、4声部の各自律性に富むこの20番フーガに於ては、響きの消去性のつよいピアノという楽器では、ともすると諸声部の、省略や謙譲性のみじんもない4声のお喋りの主体的動きがもたらす、拮抗と交錯が、ついごたつきがちとなる。

殊にグールドの場合、リヒテルのように時に3声部程度の構成に聞こえる位、拮抗をひかえめに処理し、すっきりと進行させていくのとは異なり、全声部を正直に露出させ、極力対等に表現しているため、よく言えば能弁であり、同時に多少錯綜しても聞こえる。
その省略法のなさこそがバッハであり、これは「洗練されていない」、などという解釈を超越する次元のたまものなのであって、グールドはそれをよく表出させている、ともいえるのだが…。

が、タッチの粒立ちの完璧なグールドにあってさえ、ピアノではさすがにごたつきがちにも聞こえる(これがグールドの面白さでもあるのだが)、このフーガを、アファナシェフはあえてゆっくりと探究的な姿勢で捉える。そうすることで、その構造の巧みさを丹念によく表現していると思われる。

彼の演奏に於て、殊によく考えられている響きは、すべてきっちり4声部が拮抗している小節である。

リヒテルの場合、どちらかというと4声部の鋭い拮抗を抜けて3声部にしぼられた小節に、美しさが際だったが、アファナシェフの場合はまさに4声部の錯綜するただ中にあって興味深い。

例えば、開始はたった1声部であった旋律が、順行形のもとに2声部、3声部と増えて行き、始めて4声部が揃う11小節から、13小節。また24小節後半~26小節、29~30小節、32小節、38後半~39小節等、どれも複雑極まる箇所である。

ことに29小節以降では、グールドとは対照的に、右主旋律=第一声部の主張を極力控えめにすることで、2・3・4声部の自律した運動を平明に開示させている点が面白い。
また、随所にある「通奏音」の持続が至極妥当な処理を施されている為、つねに4声部の書法というものが聞き手に意識される。グールドのよくやるように、響きの消滅に際し分散和音風に弾き直しをする、という技法も用いず、楽譜のままにそれを果たしている。熟慮された奏法であるといえる。

2003年03月22日 (土)

第21番:
prel
この譜面のうつくしさは、殆ど数学的であり、建築美的ですらある。

それはともかく、これを初めてリヒテルで耳にした時、バッハのvividな音の自律運動の極地に驚嘆した。天上的躍踊歓喜が、宙空をはしゃぎまわるかのように、霊的に成就されており、驚愕仕切だった。

グールドに於ても然り。ただグールドの場合は、天上的躍踊歓喜、つまり奇跡的な程すべらかな運動体の受肉、というよりはむしろ、全き平等に貫徹された音の粒だち、その実存性――地に足を付けて走り回る音列逐一の実在感に、驚かされもした。

グールドの場合、何より特徴的なのは第11小節・13小節のff部分の3連打和音を、わざと分散和音で処理している。
彼らしく楽譜通りでないといえばそれまでだが、その発想はトッカータ風のこのprelの特性に相応しく、(32分休符+32分音符×3)×8というじつに躍動的な開始に導かれてはいるものの、実はこの曲の基いが、♭ロハニ♭ホヘトイ♭ロイトヘ♭ホニハ♭ロ…と縦横無尽に音の階段を駆け回る上下降の遊戯とでもいうべきものであるのを、直感させる。
やんちゃだが、なるほどするどい本能だなぁとつくづく思わされる。

さてアファナシェフであるが、vivace指定でリヒテルやグールドが文字通りプレストであるのとは対照的に、相変わらず坦々と解析的な音楽を進行させている。音の自律運動性などといったことにはあまり注意を払わず、探索的といった感じである。

ただ殊に7小節以降の特徴的な左手――スタカートの第二声部――が大変きれいなのと、トッカータ風にも拘わらず、案外ゆったりとした演奏をされると、そのテンポにこちらが触発されてか、思いがけずマタイ受難曲の51番Basso-Aria「Gebt mir meinen Jesum wieder」(violin前奏・伴奏部)なぞを想起するから不思議なものである…。

蛇足だがアファナシェフは、第12小節の第10・12・14音(何れもイ音。これに♭を掛けている)を聞くと、リヒテル・グールドとは異なる楽譜を用いているようである。

2003年03月23日 (日)

第21番:
fuga
主題の順行・反行、縮小・縮小反行形、また主題後半部分の反行形から生じてくる第二主題、第二主題の準-反行形などなど、規模はおおきくないが多彩な対位法が用いられているなぁと思う。
また並行上下降、対称上下降の妙や、時間差上の変化を付けつつも巧みに追走するように3声部の間に編み込まれるその組み合わせも、計算され尽くしているのにも拘わらずごく自然発生的であり、バッハらしくて面白い。


さて演奏であるが、こうした巧みな計算を極めて自然発生的に奏し、柔和な普遍性を以て成就せしむるのはいつものことながらリヒテルである。

グールドの場合、その運動の限りないリアリティが楽しめる。
彼は3声部の役割を解りやすく表現するが、その解析はアファナシェフのとは異なり、学問的ではない。生の現場である。彼は其処にいて、共に駆けめぐり楽しんでいる。そういう息遣いの中でそれぞれの声部が、適所で強調され、運動体としてもまた音量的にも、すみやかに主役に躍り出る。そしてその交代も生々しい。そうした作業の貫徹された総体として、おのおのが平等である。

さてアファナシェフであるが例によって比較的ゆっくりなので、平明な流れの中で上記のようなバッハ対位法の趣を味わい易い。

第1声部、第2声部、第3声部ともに音量的にも主題の重みとしても同等扱いなので、追い立てられる感がなく、めまぐるしい運動のさなかでというよりは、寧ろ書物を読むように構成を追いやすいのである。
ひとたびバッハによって組み立てられた計算され尽くした生命体を、我々も頭の中で再考し再編するという感じである。
そこからは、バッハに対する、またその構築物の調和と精緻にして巨大な秩序への限りない敬意のようなものが伺える。

アファナシェフは、平均律を、何より生きた音楽として<愛して>いるだろうか。
リヒテルとグールドを聞いていると、まずそれが生き生きと伝わってくる。


2003年03月24日 (月)

第22番:
prel&fuga

アファナシェフは、このprelとfugaに限りない敬意と畏敬の念を表してみえる……。

まるでマタイ受難曲の全体的ムードさながらな、prelからfugaに通底するこの曲想と精神からして、個人的には、リヒテル~アファナシェフの採るtempoが妥当の範囲のように思われる。

グールドはprelに関する限り、少し遅すぎる。(まぁ彼のことだから、どんな突飛さの内にもそれなりの必然性を貫徹させる以上、何をどうしようと許されるのだが。)

リヒテルの演奏は、何よりもピアノ的であるために、マタイ受難曲風なあの重苦しい空気感から最も遠い。リヒテルの現出した世界は、宗教的暗示性に溢れるとはいっても、それは壮絶な合唱世界のダイナミズムと悲愴感というよりは、もう少し<孤高>の(閉じた魂の)意味深長なる深遠さ、というに近い。

アファナシェフはこの面――マタイ的宇宙――を大変よく表現している…。
縦糸では逐一の和音の厚み、と、横糸では殊に内声部の絡み・相互の動きの丹念な摘出、その如実さが見事であるといっていい。

グールドは、彼らしくこのprelに於ても分散和音を使っている。
fugaではさすがにアファナシェフと同様の荘厳さを感じさせる。このfugaの絶対性が伺える所である。。

2003年03月25日 (火)

第23番:

このprel&fugaを、高校時代、授業中や通学路上で何度反芻していたことだろう。……勿論それは、リヒテルのとてつもなく澄明な世界であった。

この超脱、24の終末を背後に控え緊張感にみちたこの束の間の澄明さは、他に類を見ない。トリールの選択も、やはり誰のものを聞いてもリヒテルのものがよい。これは美意識の問題だ。
リヒテルの第一巻は、4・8・12番、そして長調の透明性では13番・15番fuga、そして21、とこの23番が殊に傑出していると思われる(みな好いが)。

グールドは典型的な性癖の一つであるところの、開始の左手和音を分散和音風にほどく。
ところでprelは、アレグレットとあるが、その通りに弾いているのはリヒテルであって、アファナシェフもグールドもゆるめである。

アファナシェフのこのfugaは、タッチのもつれのようなものがやや気になった。逐一を開陳するように、意味深長に歩を進めるのに、ここではそのタッチが、時折急いているかと思えば、またやや口ごもるように聞こえるからである…。
他方グールドはせっかちな時計のように(14小節の処理など特に)着々と進行していく。

ところでアファナシェフとリヒテルでは殆ど同じ処理が施されているが、ひとりグールドだけがprelに於てもfugaに於ても聞き慣れない音を持ってきている。

prelでは9小節目。右手第2声部は、通常左声部の進行に合わせ16分音符×4の書式であると思われるが、拡大して8分音符×4を施している。これは、同小節後半部の左声部(8分音符×4)を先駆けている恰好になる。

fugaでは一層、変わった点が多々ある。
トリールが特徴的であるのは云うまでもなく、左手では2小節・8小節とも普通に処理しているにも拘わらず、4小節の右手trでは、前半は無視し、後半のみ行う。しかも、#ト音・#イ音である所、#ト音・イ音、とするなど片方を半音さげている所はいかにもグールドらしい。

それとこれは細かいようだが、prelでは15小節目、(左手)第3声部3つ目の16分×4の2音目=大抵ナチュラルに処する所と思うが、#を付けたまま走っていく。

またことに特徴的なのは、28・32小節の左声部、後半である。
アファナシェフでもリヒテルでもそうだが、通常28小節では #イヘトイ 、としている所 グールドは#イトイヘ、32小節ではトイロト、とする所 グールドはトロイト、としている。

これは対位法的にはどちらでも間違いではないような気がする。バッハ自身の音列としても、両パターンがこのfugaの中にある。

2003年03月26日 (水)

第24曲:
prel&fuga

初めてリヒテルの淡々たる演奏に触れた折、全24曲の終極としてある、バッハ世界の底無しの霊妙性を堪能した。その空怖ろしいほどの深遠さを躯ぢゅうに浸透させられ、殆ど身震いした覚えがあるが、
その耳のまま、グールドを聞く限り、そのprelのテンポの小気味よさは、陽暮れになっても家へ帰らずひとり言を呟きながら路上で石蹴りに没頭している多感な子供のような、着々たる感じである。

が、あくまでグールドの世界として聞いているうち、その確固たる別空間がまた現出してくるから面白い。そしてこれもまた確かにバッハなのである…。

グールドによれば、すでにfugaの構築的荘厳ささながらのprelからも、またその延長としてのfugaからも、およそバッハの不可解なる深淵さ、宇宙の<摂理>と同時に暗黙的<不条理>の喚起、云々といった世界とはほど遠いが、何某か世界を貫通する有機的摂理といったものを、その精確な指の運動により追従しつつ、またみづから湧出し、結局表現し切ってしまう。


さてアファナシェフのprelのテンポは、譜面上はアンダンテとあるが、リヒテルとグールドの中間である。

いつものように、彼に於てはタイによる同音持続がとびきり優れており、その長さ・余韻の表情は的確である。それによって、フーガの技法などのようなオーケストラによるこの曲の演奏も彷彿させるし、オルガンによる演奏をも想像させる。
想像力の射程する範囲を幅広くさせている。

そしてまた、リヒテルのような霊妙さ、神妙さがまさしく表徴し想起させる処のもの、といった程ではないにせよ、この曲の或る種、底の無さ――聖書言うところの「天空より先にあった闇と水、淵のおもて…また形のない地」等々というようなものにも、繋がる何かを掴み取っているといってもいいのかも知れない。

fugaでは、リヒテルのように殆ど全レガトに近いようなタッチをとらず、開始の(8分音符×4)の一組を(8分音符×2)+(8分音符×2)と、やや克明に区切る奏法――勿論、各前半にアクサンを持ってきている――をとっている。

それは、グールド的ともいえるが、あえて緩いテンポの下にこれを行うことで、アファナシェフらしい、一種‘知性’の根源的暗躍性――シューマンの音楽の一面にも通じるようなそれ――の気配ようなものをも現出しているようにも見える。

またこの24番に関して、アファナシェフは内声部の引き立てをあまりしていないのである。それは解析学的演奏であるからこその必然と言えば、そう言えるかも知れない。が、場合によっては或る部分を強調することによってはじめて保たれる諸声部の平等性といったものをも、敢えて具現させておらず、それ以上に尊重すべきものの方を、持続させたのだといって、いいかも知れぬ。

殊にグールドなどでは顕著になりがちな第2・第3声部の浮彫を、意図的にか、殆ど施していない。
第21小節~23小節前半や、34小節などを典型とした、必至に主役として登場せらる第2声部などは別として、楽曲の構造上本来なら彼の強調しそうな9~10小節の第2声部、13小節の第2声部、また19~20小節第2声部なども、思ったよりは強調されていない(全声部平等といえば平等だが…。)
26~29、特に28・29小節の第2声部の盛り上がり、更に30~31小節の同声部強調も、比較的大人しいといえば大人しい。

38小節の第3声部、翌39~40小節の第2声部も。殊に43・44小節では主役を最高声部と最低声部に殆ど任せてしまっているような感すらある。
53小節、また55~59小節前半の第2声部も、テーマの交代性からフェードインされてくるといった感じはさほどなく、むしろ寡黙な程である。

これからのことから、この曲に関しアファナシェフは、グールドがそうであるように、<運動>性の中での主役の交代と転身作用そのものに意義を見出すというよりは、どちらかといえば縦割りの分析主義的視野の入念な持続の中で、平明で坦々たるバッハの暗示性、その予め内包していた領野の無辺さを術定することに精神を費やしているといっていいだろう。

そうして結果的にはアファナシェフの24番は、グールドよりもリヒテルの醸すアトモスフェールに近い世界を現出する演奏となっている。。


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グールドの場合、第2巻に入ると、それはもう彼のバッハ演奏にはめずらしく、かなり全人称の世界になる。

冒頭第1番prelからして、彼にしてはじっくり・ゆったりとした開始であって、その表現の地平は<彼の個性>が云々などというものよりは、はるかに匿名性(がそれは架空の、というニュアンスではない、むしろ自己と他者の自己の包摂関係にある部分というべきかも知れない)の領界というものに近い。

第1巻ではまだ伺われた彼自身の自意識、また個性というものとバッハ音楽との距離が、第2巻では殆ど感じられないと言ってよい。にも拘わらず、彼にしてはじめて可能な打鍵の足跡、また律動の軌跡といったものが確固として残される。

グールドの第2巻の出来は、すばらしいものである。

リヒテルの場合、第1巻にあった、孤高の・省察的な閉じた魂の求道性、といった中空に浮いたニュアンスは、やはり第2巻では薄れる。精神的な拡がりを帯び、宗教「性」をばたたえつつも、位相としては地上にいる、という感じがする。
それには勿論、調律の相違という問題もあるし、彼がバッハ演奏に於て他のピアニストより恐らくペダルを効かすタイプの演奏家ではあるものの、第一巻よりは、はるかに残響を削いでいるのもたしかである。

何れにせよかなり地に足がついた感覚を抱かせる。

prelではまだタッチが明解でない面があるのだが、fugaになるとそのタッチはだいぶその‘ゆぁん’とした余韻、謂わば孤独で求道的自我を覆う膜のようなニュアンスは、脱け落ちる。そしてそのまま2番のprelに向かっている。


さてアファナシェフであるが、やはり開始からして第2巻に特有の<地平>とか場の<開け>といった性質が如実に出ているといえる。テンポの至当さ、然り、またタッチの面でも非常に明晰であり、かつ厚みもある。精神的に、或る種の潔さ――割切りがある。

第1巻には始終付きまとっていた時折遅滞しがちに口ごもるような感じとか、沈思黙考的スタンスや解析性を重んじる余り律動性を犠牲にする、といった傾向も、このprel&fugaの開始には見られなく、みづからとおのづからの一致という、バッハに驚異的に備わっていた音楽に於る思考と生命の稀な合一地帯に、アファナシェフ自身も身を置きながら、バッハ音楽に内在する自律性に即している感じがする。

その構造を開示させるべく、思考者としてその枠の外に出るということをせずに、…といえるであろう。

prelはバッハ2巻の地平の開けを表現しており、fugaはことにバッハの内在律によく即した演奏となっている。

ことに説得力を持つのは23小節~38小節、低音部(第3声部)が長い沈黙を保つ間に第1と第2声部で交わされる超脱的な遁走部分である。

その律動感はグールドの実存的で一音一音が生きて粒立ったそれとは違う。

ここに於てアファナシェフのはむしろ構築物としての音楽の絶対性にその基底を裏打ちされた運動体(ここでは中~高音)の超越的-有機的秩序がその天空に生き生きと軌道を描きつつたなびいていくような、無碍な心地よさがあるのである。

そうした意味では、グールドがより全人称的であるとすれば、アファナシェフのは非人称的・脱人称的であって、その分バッハ(の宗教性)に近いのかも知れない。


またこれはprelにも当てはまることだが、いつものことながらアファナシェフはオルガンで言えば通奏部、タイで繋がれた音の延長が巧みである。この面では3人のうちで最も秀逸と言っていいかも知れない。

2003年04月02日 (水)

第2番:
prel&fuga

このprel演奏で最も評価したいのはリヒテルである。

私は最初アファナシェフが、何故第1声部の(8分音符×4)+(8分音符×4)のスタカートを、第1音でなく第2音に、また第3音ではなく第4音に、アクサンを付けテヌート気味に演奏するのか、その意図が皆目分からないでいた。それは不自然に耳につくのである。

この機会にグールドを聞き直すと、グールドもまたその奏法をとっていた。(アファナシェフ程あからさまにではないが。。)

これは楽曲のもつ律動性からして、第1&3拍目にアクサンがあるべきであろう。

グールドなどは、殊に前進力のある演奏スタイルをとるはずで、大抵の曲は1拍目にアクサンをつけその跳躍力で進んでいく。それだけに、にもかかわらずこの曲に関して彼らが何故2&4拍目にアクサンを施すのか、*それは楽曲の構造上強調する意味があるのか、fugaとの連関から主題の中に何か引き出したものがあるのか*等々、考えてみたがよく解らない(笑)

注)*……これに就て。
勿論、たしかにこのprelとfugaの主題には連関性がある。
それはちょうどベートーヴェンやシューマンらが変奏曲を作る際、また変奏曲風に主題を展開し曲を構築して行く際に用いた――当然バッハに学んだ点も多いだろう――のと同じような手法といえる類似性・発展性である。
が、これを顧慮した上で、この際のグールドとアファナシェフの第2&4拍目――この旋律が、ほぼfugaの第2声部となるとしても――の強調は、第1&3拍目――この旋律はほぼfugaの第1声部となるとして――の扱いに比した時、fugaの「構成の再現」乃至「構成上有効な強調」になるとは、あまり感じられないのである。寧ろfuga第3小節の、アクサンを施されている第2声部=ト・ヘ・ホ(四分音符下降線)にとっても、やはりprelの8分音符×8では、第1&3拍目を自然に強調させておくのが妥当でないだろうか

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グールドはともかく、アファナシェフにして案外気まぐれにやっているようにも聞こえる。
気まぐれというのは、殊にアファナシェフには考え難いことだ…が、彼はアクサンに関し首尾一貫していないのも事実である。(こういうことはグールドにはたしかによく有るが)
(8分音符×4)+(8分音符×4)スタカートの定式は、冒頭から4小節つづき、また9小節から12小節で再開される。そして12小節終に繰返し記号があり、二度ここまでのフレーズが聞かれるのだが、
1小節目、最初の左打鍵で当然のことながら第1&3拍目がアクサンを帯びる。
事実みな例外なくそのような演奏である。

がアファナシェフは恐らくここ(最初の4小節)では‘自覚的に’、この左手(第2声部)と対照的に右手(第1声部)では後半にアクサン及びテヌートを施しただろう。それは容易に推測できる。
が彼は繰り返しの際、11小節の頭でこれを逆転させているのである。
それ以後のフレーズは、(例えば13小節,15小節等)8音=全スタカートのうち2拍目のみ、或いは2拍目と5拍目?!にアクサン&テヌートを置いたりしていてじつに不揃いなのである。

タッチも第1曲で見せた明晰さは、第2曲ではあまりなく、幾らか口ごもるような感じである。考え事をしているような演奏、という印象をもつ…。

fugaはテンポ、奏法ともに非常にいい演奏だと思う。

グールドも、アファナシェフよりずっとアップテンポではあるが、fugaに関しては一貫して理に適った演奏をしている。

リヒテルはprelの時のような歯切れと開かれた視界の感覚はfugaになるとあまりなく、第1巻の時に幾らか戻ったような印象を受ける。


2003年04月03日(木)~4月04日(金)

第3曲:
prel

もし、シューマンの「アルバム-フュル-ユゲント」の中の「14番:小さな練習曲」の基いを、平均律第1巻第1番prelに求めるとするならば、「32番:シェヘラザーテ」(短調ではあるが) や、「35番:ミニョン」そして曲集最後の「42番:装飾されたコラール」などはこの第2巻-3番prelが或る意味で基調になっているといえるだろう。

勿論「シェヘラザーテ」は短調ではあるし、「装飾されたコラール」も直接には同曲集「4番:コラール」が原型となっているのではあるが、「シェヘラザーテ」に関しては長調に還元すれば、たちどころに主題に近似性が出現してくるし、「装飾されたコラール」では、原基となった「コラール」を,謂わば‘変奏曲’として成り立たしめるもう一つの隠れた構造が、この平均律第2巻-3番prelが内包する秩序のそれに近いと想われるのである。

また「ミニョン」に就ては、「小さな練習曲」と同じく、平均律第1巻-1番prelがもうひとつの基いとなっているとも思われる。

勿論これらに同質な秩序の出現の仕方はシューマンの音楽でのほうが、より脱-合理主義的=メロディックであって、付点なども緩やかに導入される。
つまりバッハのように内声部上で展開する、まるで時計に刻まれて行くような「同音連打の傾向」といったものはより薄れるが、その背後、音列を支えている律動性自身はおそらくロマン派にあっても同質である。

バッハのこの刻々たる<同音連打>はしかし、曲想が長調独特の天上的な流れを携えている分、かなり流動的なものでもあって、旋律上ずいぶんと自在に脈打つ箇所も随所に見出される。
その“波”はしかも可変的で、こうしてグールド、リヒテル、アファナシェフと異なった演奏を聞く毎に微妙に譜が違う点が多い。

4声部からなるprelと考えると、同音連打の刻みと波を有する声部は最も強調して奏じられる第3声部(左-上声部)であるのだが、
私の持っている楽譜ともっとも近いのはアファナシェフで、グールド、リヒテルと3者の間でももっとも共通項も多くあった。


各小節の8分音符×8=♪♪♪♪♪♪♪♪の音列を以下に述べると、このような違いがある。
(但:嬰ハ長調♯♯♯♯♯♯♯なので、♯は省略して記す。以下同)


第4小節
グールド…イイイイトトトト
リヒテル…イイニニトトトト(私の譜と同じ)
アファナシェフ…イイイイトトニト

第1小節
グールドとアファナシェフ…トトハハロロロロ(私の譜と同じ)、
リヒテル…トトホホトトロロ

第5小節
グールドとアファナシェフ…トトトト*ヘヘヘヘ
リヒテル…トトホホ*ヘヘヘヘ(*=ダブルシャープ)

第6小節
グールドとアファナシェフ…ト*ヘホヘトトロロ
リヒテル…トニニヘトトロロ

第7小節
グールドとアファナシェフ…イホ*ハイニニヘヘ
リヒテル…イホホイニニヘヘ

第10小節
グールドとアファナシェフ…ハハイイニニロロ
リヒテル…ハハハハニニニニ

第14小節
グールド…ニニヘヘホハイイ
アファナシェフとリヒテル…ニニニニホホイイ

第18小節
グールドとアファナシェフ…ニニニニハハトハ
リヒテル…ニニニニハハハハ

第19小節
グールド…ハハハハロロロロ
アファナシェフとリヒテル…ハハロイロロロロ

第20小節
グールドとアファナシェフ…ハロイロハハホホ
リヒテル…ハトトイハハホホ

等々、バッハとしてもかなりアバウトである。

がこれらのどれをとっても、他にそれと同一音型が見られ、対位法としていずれにせよ間違いはない。

それにしても8小節~11小節、また14小節などの波打つ音型は(これらのうちのどれをとっても)シューマンの上にあげた小曲に似ている。というかシューマネスクな音型である…。

第3番:
prel&fuga

prel――リヒテルのそれは、極上の羽衣の妙え、天国的悠長さであり、それはしかも、特に後半の、一転してこれまでとは対照的な地上的打鍵のゆるぎなさと開明性とも相俟って、よい演奏となっている。そしてそのままfugaへと突っ込んで行く。

グールドの場合、その表現の位相は徹頭徹尾地上的である。が地上的であるということが、透明感や明晰さを失う――ある種の不透明性・受動性を背負わされる――ばかりではないこと、そういうバッハ特有の、世界を視る*特権的視座*というものを直感させる演奏となっている。

*…特権的…そうであるためには、内実としては構築的であっても、姿勢としては静止的にならざるをえない。バッハは、音楽上のスタンスとして、情況に関わりその中に積極的に身を投じる(=受動性を引き受ける)ということは、おそらくしていない。彼は、人類の問題を<解決>しようとしなかった。が、あらかじめ総てを“知っていた”。(バッハの音楽は黙秘権の行使であると思うのは、そのためである。)


ここでは実存的であるということと地上的明晰性、というものとの合一とさえ言えそうな、恐らく芸術でなければ獲得不可能であろう理想郷が見出されるとさえいえるのだろうか…

fugaのテンポの緩さは何を意味するか?

出だしはそう思うのだけれども、この緩さにも拘わらず浮彫にされる音符と音符をつなぐ上下スラーの躍動感、また同時に存するスタカートの妙技、また各パートの適宜な強調は圧巻である。

地上的であるにも拘わらず喪われない透明性と、“自発自展”……換言すれば *「受動性の無さ」、というバッハならではの全一世界, 乃至 無窮動世界(tempoの緩/急に拘わらず)、といった面からすると、アファナシェフの演奏はやはり確かにややぎくしゃくとした感があり、歩調が一定していないような印象も与えるが、彼の意図というものは容易に察知される。

*…受動性の無さ――第2巻はこの面に関し、第1巻以上に貫徹されていると思われる


第3声部のこよなき強調。これによる上1/2声部の天上的織地の奥義、また低音部(第4声部の歩み)の巧みな示唆(位相の設定)に貫かれつつ全声部で編みつづられる共同作業を知るのにも、彼の演奏の努力、果たす役割効果は充分なものがあるといえるだろう。

後半のallegroなどは完璧と言っていい。


2003年04月05日 (土)

第4番:
prel&fuga

prel、リヒテルはここでまた第1巻風な瞑想性に立ち戻っている。
がfugaでは一転、じつに第2巻独特の実存的激烈さを発揮する。

殆どベートーヴェンの先駆け的な性質を持つこのfugaの演奏によって、この後の6番fugaを経て10番fuga・16番fuga・20番fuga、といった作品――私自身が「実存の楔」打鍵と名付ける処のものを要する、古典音楽の域を遙かに越えた性質のそれら作品――の出現をも、すでに予告している。

勿論リヒテルの演奏は、そうした短調の暗い激烈さにあっても、依然宗教性を湛えた奇跡的とも云える天上的秩序を、彼独特の余韻の膜に半ば覆いつつ、殆どprestoに近い怒濤の前進力のさなかで確保している。

グールドのこのprel&fugaは、音楽上、また秩序上、また運動性の表現上、完璧であって比類がない。

同fugaの有つ深い思想上の意味・実存とその精神の位相の表現としては、リヒテルのほうが――その余韻にみちた奏法にも拘わらず――より深くえぐり出していると云えるだろう。

グールドはトリールひとつひとつをとっても、その数に狂いが無く、どんなにアップテンポでもこうした微細なレベルにわたっても、諸声部の動めきと強調バランスは勿論、構成要素としての一音一音の粒だちさえもが極めて精確なのには驚かされる。


prel、アファナシェフの演奏の場合、外界に存するこの前奏曲――すなわち客体としての譜面上の秩序にではなく、むしろもうすっかり彼自身の中に沈澱し内面化したこの曲と、対話しているといった印象を受ける。

がfugaの演奏では、逆にしっかりと外在化したこのfugaと対峙しているといった感がある。
打鍵の明晰さからも、徹底して平等化させられた3声部それぞれの動きと、フレーズごとにそれらを貫く縦糸との、透徹した再現。その及ぼす秩序に対する明察性などなど素晴らしい。


2003年04月06日 (日)

第5番:
prel&fuga

prel、指定は Allegretto vivaceである。
このprelの演奏はどれも素晴らしいがことにリヒテルが秀逸である。
テンポの面でも律動感の面でも、適切な感じを受ける。誰よりも躍動感がある。

主題の順行と転回形の上下降が印象的でソナタ形式の感がある。リトルネロ、或いはファンファーレ風開始など、リヒテルは長調に於るこうした形式のバッハが得意である。

fugaに関しては少し遅いような気がする。

私は全体にリヒテルの演奏には殆ど難を感じない者だが、このfugaのテンポだけは少し遅い気がする…。勿論、終盤22番fugaと同様、殆ど天体の運行すら感じさせる宇宙的悠久さ・長大さを表していると、言えるのかも知れないが、グールドを聞いたとき、よりフィット感を覚えたのも確かである。

(諸声部の対位法上の動きと交代性を考える時、幾らか間延びした感じがあるのである…*打鍵の強調は、もう少しあって欲しかったように思う。)

*…スタカートに(鋭く・切って)、というのを欲するのでなく、強い打鍵のまま、テヌート風に息長く引っ張って欲しいのである(ピアノで出来る限り)


グールドとアファナシェフが、このprelに対しとるテンポはかなりゆっくりである。ソナタ形式の為、展開部があり、その繰り返しと、主題の再現がある故に、非常に長く感じられる上にゆったりとっしたテンポなので、平均律のprelにしては非常に長く感じられる(笑)

それだけに、これに比して厳格なfugaは、割合あっという間、簡潔に終了してしまう感がある。がfugaとしての濃密さは、特にグールドに関してはしっかりと植え付けられる律動感があり、構築性を証すレリーフ効果の高い奏法である。

マタイ的崇高さ、という点に関しては、グールド、アファナシェフとも現代的でスタカート気味の演奏であるために、充分ではない――あえていえばグールドの演奏が、案外それを喚起する(27~28小節、33~34小節の特に第1声部強調の効果、また38~最終小節間、ことに39小節ffの荘厳さ、一貫して諸声部総ての浮彫的動きは見事である。)のかも知れないが、――通常最もレガトを期待できるリヒテルの演奏にも、打鍵がおとなしく天上的悠久性が優先されているためか、思ったよりその面(合唱曲風な立体性)が見出せないので、それはもう仕方がないのだろう。
(頭の中で合唱曲に置き換えることにしよう)

またアファナシェフはときにレガト~スタカート間のタッチの調整を適宜に行いうるのだが、荘厳さの為の<打鍵>が矍鑠としていないのと(その点では意外にリヒテル的な演奏に流れている)、テンポがグールド以上ではないがやはり速いために、合唱音楽的なスケールと伽藍のように構築的な宗教世界の現出がならなかった。

テンポはリヒテル程でなくても遅めに、それでいてタッチは明瞭で息の長い厳格なものを、対位法の厳密な動きと主題の性質上やはり欲してしまうのだが…

2003年04月07日 (月)

第6番:
prel

これもAllegro vivaceであって、リヒテルにはもってこいの急速な前奏曲である。
この場合、息つくまもない無窮動性に即し、駆け抜けた方がバッハの律動感そのものはつたわりやすいだろう。
がこういう時、大概においてグールドはややゆったり気味である。アファナシェフのテンポもほぼ同様である。

グールドはゆったり気味の速度の中で、sfからdimでp指定に移る18小節~25小節の左右の動きをしっかり表出するためにこのテンポに合わせたのかも知れない。
冒頭から非常に鋭いタッチでフレーズの後半に重点がかかり、殊に後半の40~41小節のクレシェンド~fに至るスタカートでは、テンポまでその影響を受けるように遅滞気味になっていく点など、全体にグールドとしてはやや重たげな演奏である。

故意にであるのか、偶然なのか、首尾一貫しない奏法も用いている。
トリールも第2小節,第3小節の並びのうち、先のは無視して後のほうのみ施している。かと思うと第6小節,第7小節では、並びのうち最初の一方だけに施して後は省略している。

また、バッハの指定では第8小節「(8分休符+)トハホハイ」の総てにスタカートが打たれ、そのうち1~2拍目の音符にスラーがある、がグールドは1~2拍目は完全なスタカートに処理し、4~5拍目にスラーをかけ、やや後を引くような演奏をしている。また13~16小節の一連、(8分音符+16分音符×2+8分音符×4)=ヤン・タタ・タ・タ・タ・タの音列に対する弾き方にも注目すべきものがある。

バッハは、ヤン・<タタタ>タ・タ・タ、つまり<タタタ>にスラーを(但:このうち最後のタにはスタカートも打っている)かけていて、最後のタタタは単純なスタカートと指定しているが、グールドは逆に、ヤン・タタのほうはただのスタカートで処理し、残りのタ・タ・タ・タを、タータ・タータと聞こえるようスラーを施している。右手・左手、どちらでもそうである。

グールドらしいリズム感といえばそう言えるが、曲の前進力がややはばまれ、重く感じられる気がする。
49小節の最後拍に付けられたアクサン>も省き、前音符からの跳躍があるにも拘わらず強い打鍵で弾いていない。

アファナシェフにも、ふとグールド的な奏法が顔を出すという所があって、たとえばヤン・タタ・タ・タ・タ・タをヤン・タタ・タ・タ・タータ(14小節)、とか、そうかと思うとヤン・タタ・タータ・タ・タ(16小節)などとしている。
このフレーズを左手で行うときにはほぼ楽譜通りだが、右手になると、まちまちな手法をとっている。しかも強調のあまりテンポの遅滞する感もある(アファナシェフにはしばしばそれがあるのだけれども)。

それとこのprelに関する彼の特徴は、バッハは第4小節のみ、左声部の冒頭8分音符にスラーをかけているのだが、アファナシェフは2・3小節の左声部共通音型――8分休符+8分音符×3+4分音符(=(ン)・タ・タ・タ・ター)に対し、一貫して冒頭のスタカートにもスラーをかけ(=(ン)・タータ・タ・ター)、4小節で指定されている音型とすっかり同じようにしているという点である。

それはこの旋律パターンが右手に移ったときも同様で、6~7小節にも、8小節で施されているスラーを掛けている。(27・28小節も同様。)

また14小節/16小節のsfで――同じ理由から――テンポが遅滞するような感触を受ける。翌17小節でm.d. sopraに展開される直前、dimとされているが、事実上のリタルダンドを行っていて、この意図はあまりよくわからない。効果的には感じられなかった。31~33小節;左声部で、全ての8分音符に平等なスタカート指定がなされているが、これも31小節最後拍~32小節第1拍にかけてスラーをかけたり33小節最後の3拍にスラーをかけたりもしている。

この曲の場合、テンポ・タッチ共に遅滞なしの律動感の尊重と対位法上の首尾よい交換と対話が第一義と思われてならない私としては、こうした諸々の点からリヒテルの演奏が無比に感じられた。


補)
ただグールドの驚異的なのは、殆ど総ての音符(16分音符が単位)を逐一スタカートでぶつけて行くような奏法をとり、それでいてあれだけの律動性を確保する点である。この粒立ちと活性感は比類がない。

2003年04月08日 (火)

第6番:
fuga

リヒテルの激しい演奏は、この6番fugaを、先に触れた4番fugaと殆ど同様に、後の10,16,20番などの、古典音楽には稀な実存性の色濃い「楔」打鍵を要する、暗く深遠な不条理の位相上の音楽として置き、しっかり対峙していると思われる。そういう迫真性ある態度がつたわってくる。

グールドのほうが、開始からff指定なのにもかかわらず、タッチも意外にやわらかく、スタカートなど用いたりしながら飄々と奏じている。
が、さすがにクレシェンド明けの第10小節ffからは、右(第1声部)で繰り返される主題の緊張感と、それに対しますます距離をとって下降して行く左(2・3両低声部)旋律――イト♯ヘニ・ト※ヘホハ…の音型――の凄絶さの為か、さすがにやや鋭い打鍵になってくるが、sf→fの14小節からはまたp~mp位いの音量に戻している。
曲をつらぬく不条理の匂いや緊張感よりは、3声部の対位法上の動き――平行、対称の上下降と遁走のズレ、均整etc.――のうつくしさと半音階的無窮動性質そのものを味わっているような演奏である。

アファナシェフのほうが、グールドよりはこの曲のもつ持続せる緊張感のようなものが伝わってくる。
所々、平等にテヌート気味な打鍵を打ったほうがよいと思われる、無指定の8分音符×4(2小節・5小節・6小節)で、*スタカートとテヌート交互の奏法をとっていたりするが、

*…5&6小節に関しては下の声部の3連音符の刻みと同一の区切りを施そうという意図かもしれないが、8符音符×4の音型がつねに保つ独特の緊張感は、スタカートや、(8符音符×2)+(8符音符×2)という区分をせず持続的な奏法をとるほうがよいのではないかというのが私見である

要求される(ことに低音)打鍵の‘深さ’厚み等々、テンポともに概ね妥当で、厳密な対位法をよく開明化していると思われる。

2003年04月09日 (水)

第7番:

prel&fuga

9番prelとともに、24曲中もっとも天国的部類のprelであろう。叩くというよりはむしろ天上にて‘爪弾く’といったニュアンスの音色に似つかわしいこのデリケートな音楽を、グールドは至極急速に走り抜けていく。
あえてピアノという楽器の打鍵で奏する以上、これに於てに可能な限りの粒だちと切れ味を披瀝しよう――gigue風rhythmeに乗って躍如する音列の妙とともに――とでもいった風である。
そして見事に<そういう音楽>として完結しており、そのリアリティに納得させられてしまうのである。

リュートかチェンバロの微弱音で爪弾くような奏法に務めているのはリヒテルである。が、fugaでは対極的に、壮大なア・カペラでの聖歌かオラトリオのような奏法をとっている。これらはじつに的確な理解、また技術であろう。

アファナシェフもやはり、このprelの殆ど幻のような精緻さを現出するというよりは、たとえ形式上であれジーグという舞踊の律動に内在する弾力(低音部)や、低~中~高声部へとさりげなく投げわたされるフレーズ交換とそのたおやかな跳躍性といった側面を優先的に表出させている。

勿論、多少スタカート気味ながら、pタッチで羽衣のような音の織り地の美しさを演出してもいる(20~24小節、43~44,51~54小節etc.)
また25~31小節にみる両声部の軽やかで絶え間ない問-答の投げ交わしに関しては、羽衣的な脱-地上性を想起させるというよりは、(あえて言えば)歯切れのよい小鳥のお喋りのように奏している。

尚このgigue風prel.には、低音部に独特の面白さがある――リズミカルな同音連打や音の飛び方――。
リヒテルの演奏はもっともスマートで透明感にみちた表現であるが、グールドのはより血肉化した次元、いわば体内リズム化させたリアリティと活力の次元に掘り下げている。
アファナシェフの場合は、少なくとも当prelに関する限り、概して曲想の及ぼすイマージュよりも、その低音部の動きそのもの――同音連打(5~8小節;13~16小節)、また付点の跳躍力を活かした7度や9度の飛び越え(34・37小節;39・41小節)、等のもつ音楽としての形状そのものに興味を示し、これを生かすことに気持を注いでいる、といった演奏である。
冒頭の3小節、5小節などの強調打鍵は、アファナシェフには特徴的なもので、演奏上何某かの意図があるのかも知れないが、これによって自発的なリズムが停滞するのは、残念である。

一方、fugaに関してであるが、アファナシェフは力強い同曲の開始を、まるで遥か彼方から聞こえてくる一条の光芒の如き天の声のように奏し、その降天が徐々に光条の数(voices)を増すに連れ、いつしか幻の地平に荘厳なる寺院を据え付ける、とでもいうように奏している。


2003年04月10日 (木)

第8番:
prel&fuga

prel
アルマンド式prel。
リヒテルの演奏は完璧に淀みない。ソナタの原初性が見出されるせいか、はやモツァルト的な匂いのする前奏曲である。繰り返しがあるが、リヒテルのとるテンポと響きのすべらかさの為、単調さも感じぬままに聞き終わる。
2小節の第1声部(スタカート部)音型の変形fuga(2拍目からの開始にフレーズが変化)が、6~8小節、10・11小節、また繰り返し以後の18小節、26~28小節etc.の第4声部にて現れるが、リヒテルのタッチと律動のなめらかさは、そうした対位法上の仕掛けを殆ど感じさせない程、天然自然である。

グールドの躍動感溢れる演奏、16分・8分からトリールの細部に至る音符の長さと数、寸分違わぬ打鍵の深み、タッチの公平感、リズムの的確さ、等々むらの無い精緻な演奏はいつものことながら見事である。

アファナシェフのprelはやや遅いが、その分タッチはかなり明確であり、響きも閉ざされた感じがなく至当である。
同フレーズの繰り返しは、p乃至ppの音量で再現するなど、趣もみられる。
殊に展開部(17小節以降)に入った辺りの表現は息遣いが巧みで、左声部の進行などがともすれば無機的な印象を与えかねない同曲を、心情ゆたかなものにしている。アファナシェフの演奏とは、バッハのそうした情緒的な側面を、またそれらの存在することを、前以て否定していないのである。


fuga
半音階進行で多分に仏教的な匂いのするfugaである。
リヒテルの場合、fugaはprelと対照的に非常に緩いテンポである。リヒテルでは、prelとfugaをこのような対照性のもとに置くことが多いようである。
テンポが緩い分、先日触れた5番fuga(こちらは長調だが)等と同様、緊張感が薄れめりはりの聞かなくなる恐れもある。たしかにレガト指定ではあるものの、同じく短調fuga、「楔」打鍵のある6番と10番の間に挟まれている同曲であるが、存在の深くに根ざす不条理を暗示させる実存的な悲哀を表すというよりはむしろ、第1巻に近く、内面的であると同時に天に流れる悲哀のような演奏を採っており、この緩く沈潜した感じは2巻の世界観としてはギリギリであろう。

グールドの場合、いつもながら曲のもつ東洋的雰囲気云々より、むしろ4つの各声部巻の交代と連鎖に貫かれる唯物的緊張感そのものの表出に専心している。
そうした姿勢は16小節以降のタッチと刻みからますます顕著になる。殊に30~31小節左打鍵=第4声部などは殆ど時計のような精確さであり、律動である。がグールドの演奏は、そうした傾向が顕著になればなる程、(心身の寄って立つ現場として)<リアル>、かつ魅力的に響くのだから不思議である。

このfugaに関するアファナシェフの演奏は、4声フレーズの各‘開始’のみが幾らかグールド的・スタカート気味ではあるが、全体的にはその宇宙観の表現として、素晴らしい。
レガト奏法に寄っても、リヒテルの現出させた世界とはまた別のもの、少なくともこの曲に関する限り第2巻のバッハ世界により近しいものを、表現しえていると言えるだろう。

※尚、グールドはprel/fugaともに所々音符を通常より半音下げている。最も端的には、fuga32小節の※(ダブルシャープ)を外している。


2003年04月11日 (金)

第9番:
prel&fuga

7番prelと同様、天国的なうつくしさと優美さを湛えるprelであると思われるが、リヒテルでは、この作品の典雅さというものがピアノという道具によって最大限に表現されているのではないだろうか。
またこの曲自身、このようにレガトで弾く限りにおいて、もとよりピアノという手段に最も相応しいタイプの作品であるかも知れない。

他方グールドでは、当然のことながらたおやかさとか崇高さなどより、何より生き生きした律動感が強調される。
この3声prelがしっかりした構成を保っていることもあり、prel・fugaの主題の関係が兄弟のようでもある事も関係しているだろうが、そのままごく自然にfugaへと移行し、前奏曲と遁走曲との間の質的、また音楽的次元の差異というものを感じさせない演奏である。(アファナシェフの演奏場合もそう言えるであろう。)

リヒテルでは、fugaではだいぶゆっくりになる。リヒテルではしばしば、二つの関係は対照的である。が、これももういくらかテンポを上げてもいいような気がする。第1巻では、リヒテルのテンポの選択に、保留の感覚を抱くことはなかったが、2巻の、基本的に開放感に満ちて確固たる世界観の場合、リヒテルにとっては幾らか不一致なものもあったであろうか。短調の代表的な幾つかに見出される、存在のごく底深い層に潜む、えもいわれぬ不条理をえぐり出すような演奏には、非常に意義深い凄絶な名演があるのも事実だが(こうした側面は今日に於てはとかく見落とされがちであるので附記しておきたい。)


アファナシェフの場合、特有のものがある。

第2巻のバッハの演奏とは、およそ‘空’性を身につけながらも、同時に地に足を付けた打鍵の確実さ、また世界に自覚的に身を挺した主体の確実さといったものが同時に要求されるだろうが、殊にfugaでは確かにリヒテルに於てうしなわれがちな、地に足を付けた打鍵、という面を、アファナシェフのfugaはしっかり表現している(この足取りの確実さは、翌10番fugaにも当てはまる)。

が、存在の或る逆説から、同時に帯びる第2巻独特の<「空」性>(と私は解釈する)をも、表現している演奏であろうか、という点は、正直あまりよく判らない。

が彼の表現は――音の自己運動=運動体として無窮動性、といった、これまたバッハに1・2巻を通して要求される点には、やはり殆ど無関心と思われるものの――、非常にすがすがしく、ある種の虚無感の裏側としての清冽な悠長さ、に近いものすらあって、興味深い。
また第1巻の彼の演奏に特徴的であった曲の構造解明に殆ど学問的に専心する、といったアプローチからも、彼自身殆ど開放されていると思われる。開放されているが、結果的にしっかり表現し尽くしている。

※平均律――アファナシェフ,グールド,リヒテル:次の記事 ↓ へ


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