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ハンナアレントの 芸術・哲学論断片とそれに関する私自身の雑記

Twitter(X)より
RT @hannaharendtbot 芸術作品も偉大な哲学体系も、厳密にいえば、純粋に思考の産物と呼ぶことはできない(略)というのは芸術家や著述する哲学者が中断して、その作品の物化のために変形しなければならないのは、まさにこの思考過程だからである。(『人間の条件』23)


雑記

創作のシステムはつねにそれからの逸脱とともにあるが逸脱を閉ざす事を以って物化(暫時終了)される 。

わたしという人間がおのずと世界から超出している、或いは取り残されてしまっているその不本意な距離を、法則が外から予告し測ってはならない。

世界のなかでわたしは、収めつつある出逢った世界という経験を閉じる糸と、そこから逸れる糸との間にいなければ、ものが逃げる。(法則がわたしの背中を押して、その臨界線を閉ざすほうに加担してはならない。)

だが、いつかは終止符が打たれなければならない。

携えたまま世界であろうとする意識は、(自己自身はおろか)他者によって罰されることさえある…またこういうものを含めた居心地の悪さを他者にあずけてもしまいうる…。参与とは同時に消去-喪失である。そんなふうにじぐざぐと、超出-欠損、現前-退隠の不規則な運動性を余儀なくされるが、
であればこそこのとき意識したいのは、法則(技法)とこの主体との関係だという気がする。※表出されるもの(創作物)はまた、その彼方にある(一致しない)という見方もありうるかとは思うが。
つづる主体におよぼされる無慈悲なその危機を、専制主義と、はたまた自己破壊と、察知し・理解し、この危険からみづからの生成の軌道を死守しなければならなくなる…いわば、「私(主体)」と言う権能を奪われているその領域で責任を取らされるようなものだ。が――にもかかわらず――状況-自己への「理解-解釈」の正しい位置、理性のもとよりの役割と持ち場はここにあるはずなのであると言っておかなければならない。理性にそんな働きなど出来るかと問われるかもしれなくも、たとえ理性がこの場を去ったところで、我々の生がこれらへと陥る危険性そのものも無くなりはしない以上

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