『'80sリアルロボットプラスチックモデル回顧録』を読んで。リアルロボットの「リアル」って何?
『'80sリアルロボットプラスチックモデル回顧録』(以下、80sRRPM回顧録)を読んだ。初めて得た知識も多く、とても興味深い本だった。
88年生まれの私は今まで、80年代前半のロボットプラモ黎明期について様々なメディアでその断片をざっくりと見聞きして推し量ることしかできなかっただけに、それらが脳内でリンクし、朧気ながら立体感のようなものさえ得られた気がする。
ガンダムやイデオン、ダグラム、ザブングル、マクロスなどのプラモデルがどのような空気感で、相互関係で、需要され、供給され、それらがフェードアウトしていったのか。その戦争を体験した2人の語り部が、それらを歴史として残すべく血で書かれた本だった。
例えばある本に「何年何月に○○が発売。1984年12月にMSV No34 1/100パーフェクトガンダムが発売。」などの年表だけが網羅的に記されていたとして、その情報だけではなんら意味をもたない。
そこに至るにはどのような潮流があり、作り手、受け手の欲望がどのように渦巻いていたのかが明示されることで、はじめてパーフェクトガンダムに(商品のクオリティに加え)その時代性を加味した価値づけが成され、意味を持った歴史になる。改めてそう思った。(年表だけではヤクトミラージュがどれだけ巨大かつ素早い動作が出来るのか判らないのだ。)
それらがこの本では著者なりに証明されている。
本書は当時を知る2人が対談する形式をとっている。そしてそれを補足するために本文とほぼ同等量の脚注が並んでいる点も特徴だ。これがまた詳細に書かれており、与太話も豊富で、時代感を掴む一助となっていて面白い。
膨大な脚注があるという点では、田中康夫 著の『なんとなく、クリスタル』の読書体験に近いものを感じた。ファッションとセックスの話はまったく出てこないけれども。しかしアニメとプラモは、オタクにとってのファッションでありセックスであるので、あながち間違った例えではないように思う。
そしてここからは80sRRPM回顧録の本題から外れるかたちになるが、本書のエピローグ「その誕生から40年強ーガンプラ製作における『目標到達点の大異変』とある時期をもってして、ガンプラは《組み立て式アクションフィギュア》と化した」に思う所があったので、「リアル」と「リアルロボット」と「ガンプラ」の関係について改めて考え直したことを書いておこうと思う。
さて、80sRRPM回顧録を読んでいて個人的に興味深かったのが、「リアル」という単語が様々な意味を内包し、口語であることもあって、めちゃくちゃに多用されることだ。ほぼ「エモい」に近い。
基本的にここでのリアルとは、「(架空のものであるが)実在していそうな説得力がある」という意味で使用されるが、その説得力の中にも幅があり、例えばガンダムに対して用いられるリアルと、イデオンに対して用いられるリアルではそれぞれ微妙に性格が異なる。
そこで、リアルロボットアニメを評価する上でのリアルは、大きく分けて3種類に分類できそうなことに気が付いた。
・ミリタリー的な(実在する兵器やメカニズムの延長線上にあるような)説得力
・SF考証的な説得力
・人間ドラマとしての説得力
この3つだ。この3拍子がバランスよく揃うと「リアルロボットアニメ度」が高まるのではないだろうか。
例えば、ガンダム、ダグラムはこの3つが高い次元で融合している(している!)ので、まごうことなきリアルロボットアニメと断言できるだろう。
しかし、イデオンやダンバインは劇中の様々なデザインが「ミリタリー的」では無いので、分類的に純度100%のリアルロボットアニメだと言い切ることができない。
また、「ミリタリー的説得力」と同時に「SF考証的な説得力」のパラメーターまで下がると、低年齢層向けのスーパーロボットと化す。
そして「人間ドラマとしての説得力」は、(ガンダムがドラマとして人々の葛藤を描き、政治を描き、勧善懲悪でないロボットアニメとしてのエポックメイキングになったように)リアルロボットアニメとして評される、一番根幹の部分だと思われる。(その為、回顧録の中でもザブングルやバイファムは高い評価を受けていた。)
そしてこれは本当に個人的な趣向の問題なので怒らないで欲しいのだが、初代マクロス(特にTV版)はこの人間ドラマとしての説得力がガンダムほど強烈ではないので、後塵を拝しているように思う。(フォローしておくと、ミリタリー的説得力、SF考証的説得力はガンダムよりも高次元だ。もっと言えばマクロスプラスには全部あり、リアルロボットアニメとして完璧だと私は思っている。)(また、私はリアルロボットアニメこそが至上と思っているわけでは無いので、誤解の無いようにお願いしたい。)
さて、リアルロボットアニメに対してのリアルを分解できた上で、プラモデルに関してはどうだろう。
ロボットのプラモデル自体が「リアルかどうか」を考えた時に、評価軸は「ミリタリー的な説得力」があるかどうかが大半を占めるのではないだろうか。というかそれ以外は難しい。
プラモ単体では人間ドラマを推しはかることは出来ないし(ジオラマは別だが)、SF考証的な部分(地球人とはバックボーンが異なる異星人がデザインしたものなど)をプラモデルに盛り込んだところで、それをリアルと判別する基準を持つこと自体が難しい。
80年代前半、ガンプラが国際標準スケールの1/144として発売され、HOW TO BUILD GUNDAMの方向性がガンプラ人気を助長したように、リアル≒ミリタリー的という空気感があったように見受けられる。
もちろん現在もミリタリー的に仕上げたロボットが”リアルだ”という感覚はあるだろうが、80年代のそれは今より何倍も強かったはずだ。
それは、戦争との距離感が近かったからではないだろうか。ガンダム放映年の1979年は終戦から未だ34年。しかも世界は冷戦の真っ只中である。そこまで身近というわけでは無かっただろうが、現在よりも確実に戦争の気配を感じ取れるはずで、”戦争”はリアルだったのではないだろうか。
そして現代の上級モデラー達によるガンプラ製作において、スタイリッシュでヒロイックでキレイめな仕上げが主流と化しているのは、やはり戦争が自分たちの遠いところにあり、”リアル”では無くなった為ではないかと思う。
ガンダム放映の1979年から今年で43年。終戦からガンダム放映までの34年より、9年も長い期間だ。時代は変わった。
生まれたときからアニメが溢れ、FSSがあり、GFFのCGイラストを見て育った私のような、戦争を知らない世代にとっては、そのキレイめ仕上げのロボットこそが自分の目で見てきたリアルであり、正解(のひとつとして主力)なのだ。(当然、私もそういう仕上げをカッコイイと思ったりする。)
80年代は「ミリタリー的説得力」がリアルの主流だったが、現代は「(自己参照を繰り返し続けて蛸壺的進化を遂げた)美麗でヒロイックなガンプラ的説得力」がリアルと成り変わってきていると言えるだろう。
これは何が良いとか悪いでは無く、そういう時代なのであると思う。
しかし、閃光のハサウェイ(リアルロボットアニメの3拍子が映像表現として見事に描けている!)が展開され始めたことで、またガンプラの潮流が変わるかもしれないと、一消費者として私は密かに期待を抱いている。私はガンプラのガンダムのガンプラが欲しいのではなく、ガンダムのガンプラが欲しいので。
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