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インキュナブラー

 文:永井一樹(附属図書館職員)

 もう20年以上前の、私が高校生の時の話である。ある日、私は近所に住む友達に招待されて、彼の家で晩御飯をご馳走になった。広い和室のリビングで、一家の団欒に加わっていたとき、突然部屋の電話が鳴った。受話器を取ったのは、彼の母親だった。電話は部屋の片隅にあり、まだ買ったばかりと思われる真っ白なコードレスの子機が親機のすぐ横に置かれていた。その電話は彼の父親にかかってきたもので、彼女は、そのとき隣室でくつろいでいた父親を呼んだ。すると、驚いたことに、部屋の向こうから「よっこらせ」というかけ声が聞こえてきたかと思うと、股引姿の父親がぬっと現れ、母から子機を受け取ると、母が立っていたその場所で、話をし始めたのである。
 私がさらに驚いたのは、そのとき友達も友達のふたりの妹も誰も、父と母のその行動につっこみを入れなかったことである。

 ところで、15世紀中頃にヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を発明したとき、本づくりの定番といえば、写本だった。膨大な時間と労力をかけ、一字一句丁寧に書き写されて編まれる写本は、オンリーワンの奢侈品であり、それゆえ装丁には豪華絢爛たる意匠が施されていた。活版印刷により、本の大量生産が可能になると、本という商品はコモディティ化したが、しばらくは写本時代のバブリーな意匠を引きずっているものが多かったらしい。この、写本文化の影響からまだ抜け出ていない初期刊本のことは、インキュナブラと呼ばれる。
 と、そんなわけで、上掲の両親のように、新しい技術(無線電話)を使っているのに、古い技術(有線電話)の習慣をまだ引きずっている人々のことを、ここでは語尾を伸ばしてインキュナブラーと呼ぶこととしよう。
 さて、インターネット時代のインキュナブラーとは誰か。偏見を怖れずに言えば、PDFにやたらとこだわる人々である。

 私は最近、図書館司書のある知り合いに、彼が手掛ける業界誌のリニューアルに際して、デザイン面の助言を求められた。彼はとにかく情報をいっぱいに詰め込んだ報告書みたいな現在の誌面をもっとスマートにしたいと考えていた。そこで、私はまずその業界誌はなぜPDF形式なのか、そして決まって4ページなのはなぜかを問うた。4ページで窮屈なら、5ページにしたらいいではないかと提案したのである。彼の言い分はこうだった。その業界誌は印刷製本して読まれることも想定しているから、きっかり4の倍数でなければだめなのだと。ウェブという文明の利器を駆使していながら、紙のユーザにも配慮しようとする、その涙ぐましい老婆心こそ諸悪の根源ではないのかと、私はそのとき彼を強くたしなめた。ウェブと紙の便利さはトレードオフであり、一石二鳥を求めるとその中途半端さがあだとなる。グーテンベルクの「魔法」の怖さを切々と説いた、かの哲学者マクルーハンも言っているではないか。「新しい技術に伴って変化するのは、枠組みそのものであって、枠の中の絵だけではないのだ」と。紙はもうあきらめなさい。ゲームのルールは変わったのだ。私はそんな風に彼にいい諭したのである。正直、胸のすく思いだった。

 ところがである。最近そんな私に信じられないことが起こった。それは、コロナ禍に立ち上がった大学のテレワーク推進会議のメンバーを拝命したときのこと。私は早速意気揚々と情報収集を始め、やがて、このテーマにほぼ無知だった私にもわかりやすい総務省作成の入門書に行き着いた。それはPDF形式の100ページを超える大作であったため、閲読する目の負担を考えて、私はまず職場の複合機で両面印刷を試みていた。ようやく刷り上がった紙の束は大型ホッチキスでも綴じられないくらいの分厚さで、私は机の奥の方から物騒な二穴パンチを取り出して「よっこらせ」と穴を掘り、それを紙ファイルに丁寧に綴じた。そして、表紙に「テレワーク推進会議」と油性ペンでタイトルをしたためているとき、はっと我に返った。俺はいったい何をしているのかと。
 紙の呪縛とはかくも怖ろしきものなのか。「人類は数世紀にわたって典型的で全面的な失敗をしてきた。メディアの衝撃を無自覚のまま従順に受けてきたために、いまやメディアはそれを使う人間にとって壁のない牢獄となっている。」
 これもまた、マクルーハンの言葉。
 

文献:『メディア論:人間の拡張の諸相』 (マーシャル・マクルーハン著 / みすず書房 / 1987年)

 


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