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「最初のクリスマス」の傍らで起きた悲しみに思いを馳せる―「聖なる幼子の日」に

 新規記事をなかなか出せないままクリスマスが過ぎてしまいました。クリスマスおめでとうございます。
 世間では、いや教会でも?、クリスマスを過ぎると「終わった感」が漂いがちですが、教会暦の視点から言えばむしろ「始まった」のです。1月6日の公現日(エピファニー、wiki)までの期間が欧米ではクリスマスシーズンと言われますし、日本でも教派を問わず降誕節と呼ばれるのがこの期間です。しかし、日本ではどうしても「年末年始感」が優勢になってしまい、教会でも年末礼拝の後にツリーや飾りを片付ける+大掃除というケースが少なくないようです。そういった事情は致し方ないとしても、せめて一人一人の心の中ではクリスマスを祝い、感謝する営みを続けることができればと思います。
 もう一つ加えれば、カトリックやルーテル、聖公会といった伝統教派では1月1日を「キリスト命名祭」と定めています。それは、次の聖書の言葉に由来します。

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 新約聖書 ルカによる福音書2章21節

 これも聖人暦に含まれるのでしょうか。聖人暦がどのような経緯で定められたのかは知りませんが、少なくともこの命名祭は聖書の記述に従って定められています。ゆえに、この日に関してはより多くの教派で共有されればいいのになぁと思ってしまう訳です。

 前置きが長くなってしまいましたが、タイトルに記した「聖なる幼子の日」は命名祭の4日前、つまり今日に定められています。(カトリックでの呼称は「幼子殉教者の日」)
※ただし聖公会の暦では、今年の福音書記者聖ヨハネ日(27日)が主日(日曜日)と重なったため28日に繰り下がり、28日の幼子の日も29日に繰り下がります。さらにこの記事によれば、正教会でも元々29日が「無辜嬰児殉教の日」だそうです。

 キリスト誕生に関する直接的な記述はマタイ・ルカ福音書にあります。後者はマリアに焦点が当たっているのに対し、前者ではヨセフに焦点が当てられています。
 マタイ1章、つまり新約聖書の最初は「信仰の父」アブラハムからイエスに至る系図から始まります。これで通読を挫折した方もいらっしゃることでしょう(^^;; それが17節で終わり、18節からヨセフに天使が現れる場面が描かれます。イエスが生まれたという直接的な表現はないものの(一応2章1節で言及)、25節でイエスと名付けられたところで1章が終わるのです。

 続いて2章に入ると、救い主として生まれたイエスを礼拝するために旅を始める博士たちが登場します。「東方の博士」と呼ばれることが多いと思いますが(新共同訳聖書では「占星術の学者」)、キリスト教主義の幼稚園・保育園や教会の日曜学校のページェント(聖誕劇)ではよく盛り込まれる場面ではないかと思います。
 博士たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(2節)の行方を捜しに、政治的な王であったヘロデのもとを最初に訪ねます。その出来事だけで、ヘロデだけでなく、彼がどのような行動に走ってしまうのかとエルサレムの人々も不安を抱いたというのです。宗教的指導者を集めて旧約聖書に預言されていたことを知ったヘロデは、博士に「私も拝みに行きたいから、詳細が分かったから教えてくれ」と頼んで送り出します。
 星が指示した通りにイエスとその両親のもとを訪れた博士たちは、黄金・没薬・乳香を贈り物として献げました。これらが持つ意味についてはこちらの記事を参照していただければと思います。

 これで無事に目的を果たした博士たちでしたが、思わぬお告げを夢で受けるのです。

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(12節)

 さらにヨセフにも…

 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(13~15節)

 実は、晩年のヘロデは自らの妻子を処刑してしまうほど懐疑心が強かったと言われています(『新実用聖書注解』p.1296)。それに加えて博士たちにだまされる結果となり、ヘロデの怒りは頂点に達してしまったのでしょう。ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまったのです。前掲の注解書やWikiによれは「犠牲者は数十人」とのことですが、それが「大したことではない」とする根拠にはならないのではないかと思います。

 多くのプロテスタント教会ではこの出来事を暦の中で取り上げることがありませんが、紹介した記事は非常に痛烈な批判性を持っています。一言だけ引用します。

可哀想なことに幼子達はヘロデによって殺され、さらにプロテスタント教会によって無視されているのです。しかし、語られなくなる事こそが同じ悲しみの道を進んでしまう大きな理由でもあります。歴史は伝える事、受け継がれる事で再び命の光を宿し、今を生きる私達の道を照らします。

 幼児虐殺についての聖書の記述をまだ紹介していませんでしたが、この出来事も旧約聖書に預言されていました。

 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」(16~18節)

 その預言が記されていたのはエレミヤ書31章15節ですが、この章には「新しい契約」という小見出しがついています。なぜなら、終盤で神の民イスラエルの回復が約束されているからです。これは、救い主イエス・キリストによる贖い(救い)の完成を示しています。
 幼児虐殺の記事だけを見ると「なんてことだ」と思ってしまいますが、前後やその背景となる箇所に当たってみると「決して悲しみで終わるのではない」ことが分かります(前後・背景…に関しては聖書の読み方として教えられることです)。しかし、直接の関係がない理由で突如我が子を奪われた母親たちが悲しんだという事実は変わらないのではないかと思います。

 翻って考えると、最初のクリスマスと呼ぶことができるキリストの誕生には他にもいくつかの苦しみが関係しているのではないかと思うのです。
 旧約聖書で有名なメシア預言(救い主誕生の預言)はイザヤ書9章冒頭に須利されていますが、預言者イザヤが活動したのは紀元前740/739~680年とされています(前掲書p.1893)。また、紀元前4世紀には預言者がいなくなってしまうのです(前掲書p.1894)。イスラエルの人々は約700年もの間救い主の到来を待ち続け、神の言葉が新たに語られない時期を400年ほどは耐え抜いたのです。
 また、ルカ福音書2章は次のような言葉で始まります。

皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。(2節)人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。(1、3~4節)

 イエスは「国策に翻弄された先で生まれた」と言えなくはないのです。現に、イエスは現代で言うところの難民だったと教える牧師のコメントをfbでいくつも見かけます。イエスの両親の移動距離は、Googleマップで徒歩移動で計算すると157kmになります。現代でも身重の女性がその距離を移動することはただ事ではないかもしれませんが、2000年以上前であればなおさらです。しかも、ベツレヘムに着いても落ち着く場所をなかなか見出すことができませんでした。
 また、自分たちがヘロデに追われる可能性もあり得た博士たちの帰路や、イエスの先駆者として位置づけられる洗礼者ヨハネの誕生を疑った父ザカリアがヨハネ誕生まで口を塞がれたこと(ルカ1章20節)、さらにはイエスを礼拝した羊飼いたちが当時の社会で最下層に追いやられ、疎んじられていたことも、関連する苦しみに含んでいいかもしれません。
 聖なる幼子の母たち以外にも、いくつもの苦しみのただ中に起きたのが「最初のクリスマス」だったと言えるのではないでしょうか。

 イエスの生涯は35年弱でしたが、公生涯と言われる伝道活動の期間はその1割程度の長さしかありませんでした。その生涯がどのようなものであったかを要約した言葉を紹介します。

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。  新約聖書 ヨハネによる福音書1章10~11節
※「言(ことば)」はイエス・キリストを指す

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 新約聖書 ヘブライの信徒への手紙4章15節

 考えてみれば、イエスが殺された十字架というのは当時最も残酷な処刑方法でした。その誕生直後に殺された幼子たち以上の苦しみの中で死んでいったと言えるのかもしれません。(安直な比較は禁物だと思いますが…)
 十字架の視点から作られたクリスマスの賛美歌もあります。

 こうしたことを考えると、クリスマスは「喜び祝うもの」というのは当然である一方で、少しは幼子たちの死にも目を向けた方がいいのではないかと思えてきます。

 今年はクリスマスに関しても異例づくめとなりました。社会全体がそうであったように、教会でも全面的にコロナの影響を受けたと思います。例年であればクリスマス直前の日曜日(今年なら20日)にクリスマス礼拝があり、その後に有志の出し物や食事などを楽しむ「祝会」が行われる教会が多いと思いますが、今年は取りやめた教会が多かったようです。イブ礼拝も例年通りに行えなかった教会がほとんどだったと思います。今年ならではの恵み(感謝なこと)もあったと思いますが、クリスチャンでも物足りなさを禁じ得なかった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 視点を広げれば、コロナの影響で失業・収入減に陥ってしまった方、自ら命を絶ってしまった方についての報道が多くなされています。そうでなくても、いつも通りの生活ができずにストレスを蓄積されている方は多くおられると思います。医療・福祉従事者をはじめとした激務の中にある方も含め、今年はクリスマスどころではないという思いの中にあった方が例年以上に多かったのではないでしょうか。
 そういった方々のことを心に留めることの大切さを歌う賛美歌もあります。

 冒頭に幼児虐殺の描写が見られます。また、ダウンロードできる音源は一部だけですが、ほぼAABAな曲なので問題ないかと思います。

 さらに教会の営みに視点を広げると、苦しみの中にある方が心安らかに集うことができるクリスマス礼拝が必要ではないかという問題意識から「ブルークリスマス礼拝」の実践が徐々に広がりつつあります。

 2016年のアドベント(待降節)の時期にやけに「ブルークリスマス」の文字を見かけて不思議に思っていたんですが、恐らくこのブログの影響だったんでしょうね。(去年やっと知った)
 このブログの筆者である中村佐知さんは翻訳家・ライターでいらっしゃいますが、21歳の娘さんを末期がんで発病から1年足らずで天に送った経験をもとに2冊の本を出版されています。

 ブログの冒頭で「知るのが遅すぎた… もっと早く知っていたら、ぜひ行きたかった。」と書かれているのは、こういう背景から出た言葉なのかもしれません。
 実はこのテーマでクリスマス前に書き始めていたんですが、なかなか進まずに一旦断念していました。結局クリスマスの数日後になってしまったことは少々残念ですが、この礼拝の必要性を感じられた方はぜひ来年以降のために記憶にとどめておいていただければと思います。中村さんのブログに、礼拝の例(日本語)へのリンクも貼られていますが、そこで何度も歌うことが推奨されている賛美歌の動画を貼っておきます。

 これは讃美歌(1954年版)94番のバージョンです。(リフレインの訳詞を考慮してこちらを選びました)
 最後にもう一曲、今年歌った中で特に切実に感じられた賛美歌を紹介したいと思います。

 特に心に沁みたのは奇数節の前半の歌詞でした。

1.「見張りの人よ、夜明けはまだか。いつまで続く この闇の夜は」。
3.「見張りの人よ、朝は来るのか。すべての恐れ 消えゆく朝は」。

 「決して悲しみで終わるのではない」とすでに書いた通り、この歌でも夜明けや光、明けの明星が確実に到来することも歌われています。しかし、闇をこれだけ強調(?)する賛美歌も貴重だなぁと、歌いながら思ったのです。(他にもあるにはあるんですが、歌う機会がなかなかなく)

 遅きに失した感がありつつも、クリスマスシーズンという観点から見ればまだ半分以上残っています。「こんなにたのしい…」で言うところの「悲しみ嘆く人」に思いを馳せ、すべての人に平和が訪れるように祈る日々を過ごしたいと改めて願わされます。
 またそのために、行政サービスが閉まる年末年始に重点的に働いてくださっている方々のことも心に留めたいと思います。その働きが一人でも多くの方々の救いとなりますように。
 この段のみ1/1追記:ちなみに日本聖公会管区事務所による代祷表では、「聖なる幼子の日」には「すべてのこともたちのため、養護施設、障がい児施設の働きのため」に祈るよう指定されています。

 見出し画像は、色つながりで母校・敬和学園大学のツリーを添えてみました。

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