見出し画像

直線的なパターンの服

概要

最近つくった和服生地の服の紹介。京都では和服生地が安く手に入る。そこで、和服生地を直線的に裁断して作る服を考案した。この記事ではそれに関連するトピックをいくつかのべる。西洋のシャツも昔は直線的なパターンだった。日本では明治以降、和服と洋服の折衷が試みるなかで「改良服」として直線的なパターンの洋服が考案された。西洋でも20世紀初頭にはモダニストたちが直線的なパターンの洋服を新しくデザインした。今日、生地の無駄がでないゼロウェイストファッションに注目が集まっている。そのほか、民族服的なものへの関心。体の動かし方と服装の関係。

和服生地の服

京都では天神さんなどの市やリサイクルショップで和服生地が安く売られている。ひとつには、京都が生地の生産地で、繊維業が縮小していることが影響しているかもしれない。事業所数はだいたい毎年数パーセント減っているようだ。つぶれたメーカーの在庫が放出されているのもあるだろう。もうひとつには、古い家がたくさん壊されているからだろう。昔は自分で服を作るのがあたりまえだったから、どの家にも反物があった。古い家が壊されるとそれが放出されることになる。少し古いデータだけれど町家は7年で5602軒なくなったというから、年あたり800軒だ。思ったより多くない。けれど個人的な経験では、解体される家を整理して出てきた和服や和服の生地をもらうことは多い。

こうやって放出される和服生地は質は良いけれど、幅が狭いので、普通の洋服はつくりづらい。そこで、和服生地で作れる服のかたちをかんがえていた。同じような試みはたくさんなされていて、普通の本屋の手芸コーナーで「着物リメイク」の洋服の作り方の本が売られている。まあでも、自分なりに考えるのが楽しいので自分なりに考えた。考慮したかったのは、なるべく無駄が出ないパターンにするということだ。和服は基本的に直線で構成されていてほとんど生地の無駄がでない。

野袴

無駄がないことで関心したのが、解体される家からもらってきた野袴。わりと複雑なかたちをしているのに、多角形の部材がパズルのように一枚の布にぴったり収まる。

画像17
北山(中川)の野袴


現代風野袴

伝統的な野袴はわきに隙間があって、裾のながい上着を中に入れないとパンツが見える。また、4本の紐で履くので履くのがめんどくさい。それで、脇をポケットにしたり、ズボンのようなフライをつけて紐を2本にしたものを考案した。表紙の写真もおなじパターン。

画像14
現代風野袴

(2023年7月3日加筆)
その後モンペの研究などもして、もっと簡単に作れるズボンのデザインをかんがえました。
以下のは乗馬ズボン風のモンペ。本山桂川は戦前、戦中の労働着として普及しつつあったモンペを批判して乗馬ズボンの方向にすべきだと言いました。それと関係あるかわかりませんが、当時藤田嗣治も乗馬ズボン風のモンペをデザインしていました。

「モンペばかりをいくら間に合わせに改良したところで、上衣がそのままでは、婦人労働服の完成は望まれないのである。要は上衣の思ひ切った改革にある。既に袂を剪る以上、長着の裾も短かくして、二部制とすれば、腰のだぶついたいはゆるガフラ風のモンペなどはをかしくて着られなくなって来る。自ら乗馬ズボンの方向にその仕立て方が変更されなければならない。」本山桂川『服飾民俗図説』(1943)p.125


羽織

おなじ解体される家でもらった羽織も、まったく生地の無駄がない。袖の作り方が普通の着物とちがって45度で折って三角になっている。

画像18
画像14


テーラード羽織

この羽織をベースに洋服のようなラペルをつけてみたもの。袖も細くしている。現代社会で、羽織を着ると目立ってしまうのがいやな人も周りの目をきにせずに着れる(?)。図で、カラーの形は試行錯誤して二通り書いてある。

画像10
テーラード羽織-01


画像11
画像20

洋風巻袖羽織(2022年2月17日加筆)

上の羽織に洋風の襟と前立と袖口をつけたデザイン。

画像29
画像30
画像31
洋風羽織_アートボード 1

2023ー7-3加筆
上のものにノーフォークジャケットのような感じでベルトを追加したもの。

和服生地シャツ

和服生地で作れるシャツをつくった。肩を滑らかにしようとしているけれど、これは無くてもよいだろう。

和服生地シャツパターン_アートボード 1
画像6


(2020年9月22日加筆)
上のパターンのシャツは着心地が良くない。上の脇下のマチは大きすぎるし、肩の造形は袖を引きつる。改良したのが下のもの。麻の古布で手縫い。

画像23


シャツ1

パターンは後で紹介しているWorkman's Shirtを参考にしている。上は前身頃と後身頃がつながったばあい。下はヨークを介して縫い合わせる場合。後者はさらに、襟は四つ折りと袖口は三つ折りにする設定。

シャツ2

(2021年2月16日加筆)
昔の日本に野良シャツと呼ばれるような直線裁ちのシャツがあったようで、それを参考にしたシャツを作った。上のとはマチの形が違う。

野良シャツ
野良シャツ2
野良シャツ


(2021年7月12日加筆)

上のとほぼ同じパターンで女性用のシャツを制作した。作り方の図を作った。作り方はだいたい同じ。

まりこさんのシャツ赤_アートボード 1

上のシャツとセットアップで作ったショーツのパターンと作り方。

まりこさんのシャツ赤-02


和服生地シャツジャケット

上のをもとに袖をちょと変えてジャケットを作った。そういえばこういう図面の書き方については、今のところ適当なので、ちゃんとした書き方をそのうち習得したいものだ。服のパターンのノーテーションの歴史についても気になっている。

画像5
和服生地ジャケット

(2023年7月3日加筆)
2021年7月12日加筆のシャツに近いかんじのパターンで襟をテーラードジャケット風にしたジャケット。

昔のヨーロッパのシャツ

昔のヨーロッパのシャツも直線的なパターンだった。19世紀に曲線的になっていったけれど20世紀の初頭まで直線的なシャツは作られていたようだ。The Cutter's Practical Guideには、Workman's Shirtとして、直線的なパターンのシャツのつくり方がのっている。リンク先だとこの本は1800年の刊行となっているけれど1900年の間違えだろう。著者のW.D.F. Vincentは1860年生まれだ。

この本に載っているWorkman's Shirt以外のシャツは現代と似た曲線的なパターンとなっている。労働者用の服に古い形が残るというのは、よくあることなのかもしれない。この本には二つのWorkman's Shirtがのっている。下の図のものと、袖が台形でマチが別になったもの。下の図のように袖のマチが一体化しているのは珍しいと思う。この図では、28インチの生地からほとんど無駄なく部材が切り出すことができる。ただしヨークに用いる生地が左右で同じ形になっていて、つまり一方を裏返しにして縫い合わせる設定なので、裏表で異なる生地を使う場合は工夫しないといけない。

画像3

このパターンをもとに作ったのがしたのシャツ。丈は短くしている。フライの部分の構造などは適当につくった。

画像2
画像19

直線的なパターンのシャツは、マチの部分がミシンで縫うのが難しい。縫い合わせが角度を持って重なるので。古着で見かける19世紀のシャツは、手縫いのものが多いきがする。多少生地に無駄が出ても縫い合わせ部分が滑らかになっているほうが、ミシンはかけやすいように思う。ミシンの登場も、19世紀にパターンが直線的になっていった理由のひとつであるかもしれない。

(2021年10月12日加筆)最近、町田の古着屋で、フィッシャーマンズシャツで、上記のような直線的なパターンで脇に三角のマチがはいったものをいくつかみかけた。ラベルにドイツ語があるのでドイツ製だろう。ラベルを見るとそれなりに大量生産品らしい雰囲気があり、ミシン縫製で、折伏せ縫いのもあれば、ロックミシンも使っているものもある。おそらく20世紀後期、1960年代くらいのものではないか(雰囲気から推測するに)。こういうパターンのシャツはワークウェアとしてはごく最近までヨーロッパでつくられていたのだろう。もしかすると今でも作られているのかもしれない。

他にも参考資料。

こちらは18世紀のシャツの作り方。

ヨーロッパにおいてシャツは20世紀初頭まで直線的なものが残っていたけれど、上着のほうは、もっと前に、14世紀ころから曲線的なパターンになっていったようだ。13世紀までの服はダボっとしたのをベルトでとめる感じだった。村上憲司の「西洋服装史」によれば「十三世紀の単純な構成のドレスの時代は、十四世紀にはいってようやく技巧的で洗練されたファッションの時代へと移っていった」。「1340年頃に、プールポアンと呼ばれる上衣が市民の間で採用された」とある。このプールポアンのパターンは曲線的で体にフィットするものであり、その後の服の基本となったという。

下記の動画はイギリスの女性用のドレスに関してのものだけれど、これも1340年ころに曲線的で体にフィットしたパターンの服が登場したという話をしている。この曲線的で体にフィットしたドレスは、一人では着たり脱いだりできないものだったという。


改良服

上で紹介した、和服生地のシャツは、古いヨーロッパのシャツとほとんど同じ直線的なパターンになっている。それとはすこし違うけれど直線的なパターンのシャツが大正、昭和初期の日本で作られていたようだ(袖は三角のマチをつけるのではなく、下記の改良服のように台形に作られることが多かったようだ)。天神さんの市で見かけたことがあって、買わなかったことを後悔している。それは綺麗な状態だったけれど、野良着として使ってボロボロになったものが高値で取引されている。野良シャツなどとも呼ばれているようだ。そういう日本のシャツのパターンを探しているけれど見つけられなかった。そのかわりに、「改良服」というのがあることを知った。現代ではもっぱらお坊さん用の和服の一種の名前として用いられているようだけれど、そもそもは明治時代に、洋服と和服の良いとこどりをした新しい服として構想されたもののようだ。

1903年の改良服図説は、図説というわりには図が少ない。また文章もいかに和服と洋服の両方に問題があるかの説明ばかりで、改良服じたいの説明が少ないのも面白い。

画像8
画像9
画像8

洋服の問題については作るのが難しく、材料を輸入しないといけないことなどがあげられている。和服の問題については動きにくいことや特に女性については帯が健康に悪いことなどがあげられている。それを解決するために改良服が考案された。

大方洋服に似た様な形で日本古代の服に近い一種の簡便な服を考出しました是の服なれば日本の内に出来る織物で宜しいそうして誰にでも裁縫することが出来ます布片も沢山要らない代価も安くてそうして之を着て居るに身軽であって極く運動し易いもので御座ります

著者はテーラーではなく、「警察医長医学士」の山根正次という人。美学的な関心はあんまりなさそうで、富国強兵のために健康な国民を経済的に生み出すことを目指していたようだ。難波の論文「衣服をめぐる「和」と「洋」の相克・融合」によれば、改良服は普及しなかったけれど、例外として、女学生の袴とは、その成果であるそうだ。

明治大正昭和初期は建築においても和洋折衷がこころみられたけれど、服装においてもそうだった。改良服はその一つであり、他にもいろいろ面白い服が考案された。野良シャツだけではなく、ダボシャツ、鯉口シャツといったものも、そこに改良服がどれだけ影響したのかとかはっきりとしたルーツはわからないけれど、そういう和洋折衷の中で生まれたのだろう。そのへんのことについても知りたいと思う。

民間の服装だけではなく、弁護士の装束のようなフォーマルな服装においても和洋折衷が試みられた。

「和服改良の軌跡」という修士論文もある。

「むかしの装い」というサイトが面白い。改良服にも触れている。それによれば、大正時代は欧米でも直線的な筒形の服がはやっていた。

このメインストリームの流行と結びつけて良いのかわからないけれど、ロシアで直線的でラディカルな新しい洋服が構想されていたのを見つけた。

ロシア構成主義×DIY

上の図は、 Iskusstvo v bytu [Art in Everyday Life]、「日常生活における芸術」という革命後のロシアで1925年に発行されたイラスト入りのハウトゥー本に載ったもの。Nadezhda Lamanovaのデザインで、Vera Mukhinaがイラストを描いている。ふたりとも第一線で活躍したアーティストのようだ。

下記のサイトによれば、ロシア革命のあと、社会主義の理念を表す大量生産の衣服をつくりたかったけれど、経済的な制約があってまだ工業化はすすんでいなかった。そこで、人々が家庭で最低限の技術でソビエト的なものを作れるように、イラスト入りの冊子を作ったのだ。

1917年10月の革命のあと、多くのロシアの芸術家と職人はボルシェビキ体制に参加し、各々のスキルを共産主義に向けた仕事に用いた。芸術家は新しい社会を視覚的にかたちづくる方法を模索しはじめ、日常生活への芸術の統合と、芸術と産業の融合を擁護した。その試みのなかで党員たちは、社会主義の理念を表す大量生産の服装の新しい哲学を考案しはじめた。ボルシェビキは機械と技術の価値を称揚したけれど、第一次大戦とそれにつづく内戦がロシアに経済的な障壁をもたらしていて、大規模な工業化はできないままだった。多くの芸術的実験は当時の現実に適応することも大衆の関心をひくこともなく、実現しなかった。しかし全てのプログラムがユートピア的奇想にすぎなかったわけではない。「日常生活における芸術」は、1925年に発行された絵入りのハウトゥー本で、1920年代の経済的な限界を迂回し人々に直接的にかかわろうとする稀有な試みだった。

こうして、ロシア構成主義×DIYという意外な組み合わせが生じた。

直線的なパターンにしていてるのは、人々が家庭で作ることを想定して裁断を簡単にするためだろうけれど、それだけでなくオストラネーニエ(異化)の効果をもたらしていると言えるだろう。メンズ服のほうは、一般的なジャケットをベースにしている。レディース服のほうでは、矩形を折り紙のようにたたんで装飾的な効果を狙ったものもある。着心地はどうなのだろう。そのうち試作してみたい。しかし、この冊子を見るだけで着れるものを作れた人は、そもそも普通の服を作れる人だけだったのではないかという気もする。

冊子全体もオンラインで読める。服の他にも、おもちゃ、劇場のDIYレシピがのっていて面白い。

イタリア未来主義

それより少し前、イタリアでも直線的なパターンの服が生み出されていた。下記はErnesto MichahellesによるTUTAという直線的なパターンの服。1918年のもの。順序的には、上のロシアのデザインはこれから影響を受けているのかもしれない。

この人は晩年はUFOを探していたらしい。

花森安治の「直線断ち」(20200622追記)

雑誌「暮らしの手帳」初代編集長花森安治という方が「直線断ち」の洋服を提案していたそうだ。これが今本屋の手芸コーナーにあるような直線断ちの服の原点なのだろうから、これについても触れないわけにはいかないだろう。

しかしそれもまた、上述の改良服のようなものに由来する部分があるのだろう。(「暮しの手帖」と花森安治さんの直線裁ち

直線裁ち的な洋服、というのは洋装が普及する過程で、家庭で入手しやすい和服の反物や古着などを使って、誰もが簡単に縫えるように考案された簡易・簡単・改良服などと呼ばれるもの辺りから始まったのではないかと思います。

上のサイトでは横林と森の「洋装・洋裁の普及と「和服」--1950年代における「直線裁ち」の意味」が参考文献として挙げられている。以下、この論文のアブストラクト。

アジア太平洋戦争敗戦後の1950年前後の日本において, 洋裁・洋装の普及過程で注目された「直線裁ち」は, 洋服地と洋裁技術のないままに, 「和服」地と和裁の技術をもって洋服を身につける, という困難な課題に対する解決策であった。またそこに西洋の洋服とは違う, 「日本人に合った洋服」が求められることにもなった。本研究では, この時期に, 多くの服飾関係者や一般の人々が, 「日本人にとって洋服とは」という疑問につきあたり, 「和服」と洋服との折衷とも言える「直線裁ち」に活路を見出そうとしていたということ, また, 洋服に「和服」の手法を取り入れるという方向と, 「和服」に洋服の手法を取り入れるという方向との双方向があったことを明らかにした。加えて, 和服がほぼ儀礼服と化した現在と異なり, 1950年前後の時期は, 「日本人にふさわしい衣服」についての議論が活発であり, 「和服」と洋服のあり方や両者の関係についてもとらえ方が流動的であることを明らかにした。

当時の日本人の、新しい服装を生み出そうという心意気には共感するところがある。

ところで最近、大塚英志は、現在のコロナの時代における政府による「新しい生活様式」の提唱に、戦時中の「新体制生活」との同質性をみている。

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たちhttp://www.webchikuma.jp/articles/-/2041

国家のために国民が総動員され、生活と日常が一新されるのである。戦時中、花森は今であれば「ていねいな暮らし」と呼ばれるような、質素な生活を宣伝していたけれど、それもまた戦時下の新体制生活を後押しするものであった。

近衛新体制に始まる戦時下の日常の「実践」を導いた生活様式や美意識があり、それは花森が手がけた雑誌の中で表現され、「戦後」において、戦時下起源であることを曖昧にしたまま持ち越されたことは確かなのだ。

大塚はこれが現在まで尾を引いていると見る。

花森が戦後『暮しの手帖』を創刊したことはよく知られるが、「報研」のメンバーたちはマガジンハウスをつくり、あるいはコピーライターやアートディレクターとして電通を始めとする広告代理店や広告制作の現場で戦後の生活を設計していく。雑誌や広告の歴史ではよく知られた事実だ。そういうものの果てにぼくたちのこの「生活」や「日常」があり、だからこそ、ぼくはコロナという戦時下・新体制がもたらした「新しい生活様式」や喜々として推奨される「ていねいな暮らし」に、吐き気さえ覚えるのである。

この「ていねいな暮らし」の一つの要素に、現在であればDIYと呼ぶような、自分たちでいろいろ作るということがある。花森の直線断ちの服も、自分で作るものである。

「モンペについて」で紹介した「隣組家庭防空必携」などもまた、国家のために国民にDIY生活を勧めるものであった。防空壕や防毒マスクや非常服としてのモンペを、自分たちで作れということである。

DIYはたしかにアナーキズムに結びつくことがあるけれど、他方でファシズムにむすびつくこともある。

上述のロシアの「日常生活における芸術」もまた、国家のために国民の日常生活を組み込むもの、という面もある。そしてそもそもDIYという言葉の起源が戦後のイギリスにおいて復興のための国民の動員にあった。

最近のZero Waste Fashion

廃棄された和服生地をつかって無駄がない裁断の服を作るという試みは、エコロジーへの配慮という点からも意義があると思う。

エコロジーへの悪影響は今日のファッション業界の大きな課題でもある。そのなかでゼロウェイスト、つまりゴミがでない、ファッションが研究されている。よりひろくいえば、サーキュラーデザインなどと呼ばれる、資源が循環するように工夫されたサスティナブルなモノのデザインの試みの一環。日本では商品の半分くらいは売れ残っているというから、製造時の生地の無駄よりそっちのほうが大事かもしれないけれど。

https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/business/entry/2020/021106.html

ゼロウェイスト・ファッションについてはホーリー・マキランという人が有名みたい。本もだしている。けれど高い。

マキランの論文。後で読もう。

https://archive.nordes.org/index.php/n13/article/download/485/456

日本では川崎和也さんがゼロウェイストファッションの研究をしている。

マキランも川崎もコンピューターを用いて無駄がでないパターンを生成することを試みている。その方向性が可能性を持っていること疑わないけれど、一方でローテクでできる直線的なパターンの服のDIY的な生産にも可能性があると思っている。なんの技術も道具も持っていなくても、やってみようかなという気になる。もちろん、マキランも川崎もデザインへのユーザー参加の重要性を理解している。アルゴリズムもデジタルファブリケーションも手段にすぎない。

エコロジーとのかかわりでもう一つ重要にしたいのは素材の固有性だ。どこにでもある交換可能な素材ではなく、それしかない素材。たとえば、中古の和服生地のような。もちろんそれも過去に大量生産されたかもしれない。それでも、独特のルート(誰かの家のタンスやリサイクルショップ)をへて自分の手元に来た。個人的には毎回同じ素材を使うことでクオリティを上げることよりも、別の癖をもった素材を扱って即興したいという思いがある。

民族服的なもの

個人的には民族服的なものからいろいろ学ぶことも将来の服を考えるのに役立つと思う。

持っていないけれど、民族服にインスパイアされたMittanの服とか素敵だと思う。

現代版野良着をつくっているSAGYOも良いと思う。どちらのブランドも直線的なパターンの服を出している。

服装はアイデンティティときりはなすことはできない。それは文化的社会的に構成された物語だ。和洋折衷のこころみ、とくに改良服はアイデンティティの揺れが表れていて面白い。服装のデザインは物語のデザインでもある。物語の多声性が重要だと思う。これぞ日本とかこれぞ未来みたいなものではなくて、いろいろなルーツのメッシュワーク。これまで注目されてこなかった民族服や野良着や改良服の類を結びつけることで、おもしろい物語を生み出せそうだと思っている。

身体性

和服的で直線的なパターンの意義として、もうひとつ、体の動かし方への影響がある。これはSAGYOのデザインでも重視されていることだと思う。身体感覚を磨くための衣服。

「野口整体」といって、腰痛を直すような普通の整体ではなくて、明治以前の日本人の体の動かし方(動法という)を研究している人たちがいる。外の視点から観察された身体ではなく、内側から観察された身体(内観的身体という)に注目している。彼らによれば、近代的で機械論的な身体イメージ(たとえばそれは関節を軸に肢体が運動すると考える)が、体をいい感じに動かすことを妨げている。彼らの考えでは洋服というのは近代の機械論的な身体イメージに基づいているため、和服のほうがよいということみたいだ。

じっさい、和服と洋服によって体の動かし方は変わる。明治大正の改良服は、輸入された科学的な機械論的身体観にもとづいて洋服のほうが体を動かしやすいと主張した。しかし洋服も100年前の洋服と現代の洋服ではパターンが違っていて、そのことによって少なくとも着心地は変わるし、体の動かし方も変わるだろう。体の動かし方は精神の動き方にも影響を与える(生物システムと精神システムの構造的カップリング)。体の緊張を解くことが精神の緊張を解くことになる。明治大正昭和の人たちが、外で洋装しても家では和装したのは、そのほうが落ち着くからだろう。将来の服装をデザインすることは、将来の体や心の動かし方をデザインすることでもある。




















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?