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自己紹介 「偉大な事を成し遂げれていないけど、素直に生きることが結局人生を楽しくすると信じてる僕の話」

 1.ごあいさつ

はじめまして。Noteを見ていただきありがとうございます。
僕はHyko(ヒコと読みます)といいます。

僕はいまベトナムのダナンという街に住んでいます。ダナンに来て5年目になりました。
現在はダナンで前職の仲間と一緒に独立して、IT業界で自社サービスを作っています。(アプリ開発もやっているのでアイデアある人は相談のりますよ〜)

おもしろいことをして世界を驚かせたいと、毎日ワクワクしながらお仕事しています。

初投稿ということでまずは僕が何者なのか、僕の自己紹介として今に至るまでのストーリーをこれからお話していきたいと思います。少し長くなりますがお付き合いいただければ嬉しいです。

2. 10年間のバドミントン生活

僕は中学から大学卒業までの10年間バドミントン部に所属していました。
中学生のときの部活見学をきっかけになんとな〜く楽しそうだなあと思い入部を決めたことがきっかけですが、そこからめちゃくちゃ熱心に取り組みました。

[ 10年間の主な戦績 ]
 ・中学 - 県大会シングルス優勝
・高校 - 県大会シングルス、ダブルス、団体の3種で優勝 / 国体 ベスト16
・大学 - 関西 ベスト8 / 西日本 ベスト 8

これだけみると一見アスリートの華やかな経歴に見えますが(もちろん上には上がいます)、実は10年間のバドミントン生活の中で1つだけ後悔の念が残っていました。
それは高校3年のときに練習をサボったことです。

なぜサボってしまったかというと、部活の顧問の先生に対して反抗心や不信感をいだき始めたことがきっかけでした。そのサボりが影響してか最後の夏のインターハイ(スポーツやっている人はみな目指す全国大会)で1回戦で敗北。団体戦でもチームに迷惑をかけてしまい、2回戦で敗北。

大会前の校外練習試合の戦績やトーナメントのくじからは、ベスト16 もしくは ベスト8になれるチャンスがあったにもかかわらず、練習をサボってしまったことでチャンスを逃してしまいました。

試合に負けてしまったことはもちろん悔しかったですが、特に僕が抱いた後悔は、不平不満を自分の目標を達成るするためのエネルギーに使えなかったことです。

部活の顧問の先生への不平不満とインターハイで優勝という自分の目標。
ここで僕は外的要因から影響を受け、負の感情をもち、自分の目標を結果的に見失い、その負の感情をぶつける手段として練習をサボるという誰も得をしない行動をとってしまいました。

3. 大学卒業と自分の道を決断

そんなバドミントン漬けの大学生活も4年になると大学卒業が近づきます。就職の時期、僕は2つの選択肢がありました。

①普通に就職活動をして企業に就職する。

②バドミントンでの繋がりを使って企業の為に競技することを条件に就職する。(いわゆる企業所属のアスリート)

僕はなるべく後者は避けました。
なぜならスポーツの世界というのはとても小さなコミュニティです。10年もその競技に関わっていればほとんどの人が顔見知りなんです。
人生は1度しかないので、このままバドミントンの世界だけしか知らず死んでいくのは望んでいませんでした。

自分の得意なことをしながら生きることで、楽はできても最高にたのしめないんじゃないかと思い別のことにチャレンジする道を選びました。
本能的に自分は新たなチャレンジを望んでいたのかもしれません。

しかし、いざバドミントンには関わらないと決めたものの、10年間ほとんどの時間をバドミントンに費やしていたので自分が何に興味があって、将来何がしたいのか分からず毎日悩みました。
このときの僕はかつての輝きを完全に失ったと自分に失望してました。

今だから冷静に見れますが、スポーツの世界では県内といえども1位を取るような選手はチヤホヤされますし注目も浴びます。常にそんな環境にいたので自分という存在価値もそんな風に感じていたので、相当失望したんだと思います。

とんだ勘違い野郎です。笑

社会に出るとなったら、今までの自分のアイデンティティだったバドミントンの世界が通用しなくなる。バドミントンに打ち込んだ10年間がまるで無駄だったかと思うくらい自信を失っていました。

とんだ被害妄想野郎です。笑

でもそんなことはないとまだ諦めきれていませんでした。だから、悩みながらも色々やってみました。

広告系の会社を受けてみたり、飲食でバイトしてみたり、iPhone 3Gか4がでたてくらいの時期だったんでiPhoneをめちゃくちゃ売ってみたり (このときにけっこう儲かって後述の海外進出資金となりました。笑)

そんな毎日を繰り返しながら、当時「自分はなにがしたいんだ!」とずっと自問自答を繰り返していました。しかし、そのときは本当に自分がやりたいことは結局わかりませんでした。

だから、とりあえず無理矢理やりたいことを決めました。

それが「ファッション」でした。

色々と悩みながら考えた中で、自分が少しでも興味あるものは「ファッション」でした。
たしかに大学時代は洋服が好きでよく京都の河原町、大阪の堀江に買い物に行ってたな〜ぐらいの感じでしたが。

とりあえず今の状態を脱却すべく、ワクワク感ゼロで「ファッション」の道に進むことを決めました。

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4. 海外を意識するようになったきっかけ

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悩む日々を経て、なんとなくファッションの道に進もうと思っていたそんな中、人生の大きな分岐点を迎えました。

それは高校時代からの親友とのタイへの大学卒業旅行です。

このときそんなにお金もなかったので、物価は安いけど食事、娯楽を満喫できる外国ってどこが良いだろうと探していたところ、知り合いの先輩がタイがおもしろいと言っていたのでタイに決めました。

ちなみに僕にとってこの旅行が親なしで行く初めての海外旅行でした。

当時ちょうど日本では、英語・海外留学・グローバルといった言葉をニュースなどでよく聞くようになりはじめてきた記憶があります。

実は、タイに行くまで僕はめちゃくちゃアンチ海外派でした。笑

海外の話題になれば、
「日本もろくに知らないのに海外行ってどうすんの?」
「全世界の人たちが日本語話せば良いんだよ!」
って感じでした。

負け犬の遠吠えですね。笑

しかし、タイに行って全てが変わりました。

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タイのバンコクに着いて街を散策していたら、道中に沢山の物乞いをされている方々がいました。その中には片方の腕や足がない人たちもいました。
海外経験者にはそのような光景は発展途上国では当たり前のことだと思うかもしれませんが、無知だった僕にとってこの光景は衝撃でした。

このときに自分がどれだけ小さな世界で生きてきていたかを知りました。
これまでバドミントンしか知らないしスター選手扱いされてきたので、僕はいわゆる「世間知らずのスポーツバカ」だったので、目の前の光景に映る、「リアル」な生きることへの実感は恐怖にも似た感情で自分の焦りにもなりました。

僕はその光景を見ながら思考を自分にフォーカスしはじめていました。
そして、「自分このまま日本で死んでいくわけにはいかない!!もっと他の世界も見なければ!!」と強く思ったのです。

5. ロンドン行きを決意した1つの理由

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タイからの帰りの飛行機では、2つのキーワードで頭がいっぱいでした。

「海外」と「ファッション」

どうしたらこの2つを満たせるか考え始めていました。

これがまた運良く隣に座った方が海外に居住経験があるご年配の方で、その方が色々教えてくれました。その中にワーキングホリデーという手段があることを教えてもらいました。

そこで「ファッション&海外&ワーホリだったらロンドンでしょ」くらいでロンドンに行くことを決めました。

ロンドンのファッションが多少好きだったとはいえ、今思うとタイ旅行をキッカケに海外を意識しはじめ、ロンドンに行くことを決意するって都合のいい考えしてたなと思います。。。笑

日本に帰って早速ワーホリに申し込みました。

結果、落選しました。

イギリス(ロンドン)のワーホリは毎年1000名限定で、各国のワーホリ申込の中で1番くらい人気と倍率が高い国だったようです。(当時の数)

僕は来年のワーホリの抽選を待てませんでした。1年後だし、当たるかどうかもわからないし。
運任せほど怖いものはありません。

なので観光ビザでロンドンに行くことを決意しました。

観光ビザでは仕事はできませんが、6ヶ月間滞在できました。このときにiPhoneを売り倒して稼いだお金が大活躍するとは思ってもいませんでした。笑

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当時僕はそれっぽい理由を探してロンドンに飛び立ちました。
正直言うと行く目的は明確ではなかったんです。

自分に何ができるか、何ができるようになるかなんて、全くわかっていませんでした。
それでも1つわかっていたことは、ロンドンに行くと決めた時、心がとてもワクワクしたんです。
この気持ちはめちゃくちゃ鮮明に覚えています。

英語も話せないし、知り合いもいませんでしたが、ただただこの気持ちに素直したがって行動しました。

6. ロンドン生活を価値あるものにした2つの事

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ロンドン生活を価値のあるものにした2つのことがあります。

1. 成果物を残す

勢いでロンドンに来ちゃってるので右も左も分からないし何をしたらいいかわかりません。
けど、なにか爪痕を残さなければ帰国した際に両親や友達に見せる顔がないと焦ってもいました。

ちょうどそのとき、ロンドンにいってから知り合って仲良くしていた美容師の友達が「モデルさんを使ってヘアーの撮影をしたい」と言っていました。

撮影なんてこれまで一度も経験したことがないことだったので他人事のように聞いていたんですが、ある日その友達に「ひこはリーダーシップあるから撮影のディレクションしてみてよ」と言われたのです。

ちょうどなにか爪痕を残さなければと思っていたときだったので、これはまたとないチャンスだと思い、友達のその話にのっかることにしました。

それからは怒涛の日々でした。

・つたない英語でのモデルさんのスカウト
・カメラマンやメイクアップアーティストさん探し
・撮影場所探し
・メイクやヘアーをするセットスペースの確保、スケジュール調整
・撮影のコンセプト決め

全てが初めてのことでしたが、手探りでなんとかやりきりました。
作品のクオリティとしては世に出せるようなものではなかったと思いますが、自分なりの爪痕はロンドン残せました。

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2. 本気でその道を極める決意

ロンドンに半年いる間に、沢山のロンドン在住や長期滞在されている日本人の方々と会う機会がありました。

このときに僕が感じたことは、なにかゴールを決めてやる切る必要性でした。それなしでは全てが中途半端になると思いました。

ファッションで何かしたいというパッション。
英語を使って生きていくこと。

ロンドンで掴みかけ始めていたことが、このまま日本に帰るだけでは全て中途半端で終わってしまうと思ったんです。
そう感じたときめちゃくちゃ怖くなってきました。

自分なりに考え抜いた結果、ファッションで進みたいんだったらちゃんとファッションを勉強するべきだという結論が出ました。

そして今でも鮮明に覚えているんですが、日本に帰国する10日前です。
キングス・クロス駅周辺にある大英図書館で、例の美容師の友達に「俺、マジでファッション勉強したいからロンドンのファッションで有名な大学に入学するって決めたわ!!」と宣言しました。

7. フィリピンでのIELTSの勉強と苦労

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ロンドンの大学に行くと決意した後、日本に1ヶ月ほど一時帰国してフィリピンのバギオに向かいました。

その理由がIELTSです。

IELTSを知らない方に簡単に説明しておくと、「私は英語がこれくらいできますよ」という証明書のようなものです。

その証明がないとイギリスの大学には入学できません。イギリスの大学に英語圏でない国の人が入学する際に、大学規定のスコア以上が必要となるのです。

大学入学を目指すと決めた時、僕はそのことを知りませんでした。
あとIELTSはTOEICとは比べ物にならないほど難しいというのです。

TOEICもこれまで受けたことがないからあまりピンとこない。笑

しまいには、大学に入学願書とIELTSスコアを提出する期日が半年を切っていたんです。
このへんから、なんとなく周りがネガティブ発言をすることを理解し始めました。

さて、ここからIELTS6.5以上(大学規定のスコア)を半年以内でとらなければならない状況に追い込まれました。

しかし、英語力も、お金もない。

そんなとき、ロンドンでの友達が「フィリピンって良心的な金額でクオリティの高い英語の授業を受けれるよ」と言っていたことを思い出しました。

早速グーグルで「フィリピン」「IELTS」と検索。
 そこのトップに出てきたのがフィリピンのバギオにあるIELTSの勉強に特化した学校でした。

当時日本人がフィリピンで英語を勉強するというのはあまりメジャーではありませんでした。なのでネットにも情報が少なく本当に学校が存在するのかも怪しい中、とりあえずフィリピンのバギオに向かうことにしました。

書いてて思うのは僕はとりあえず行ってみるとかやってみるってのが多いですよね笑

学校に着いた初日に、簡単に受講生の英語力をみるために模擬試験が行われ、僕は0点に近い点数を叩き出しました。

このときに初めてIELTSの難易度を知りました。
そして無謀な挑戦だと気づきました。
けど、バギオまで来てしまったからには諦めきれませんでした。

フィリピンのバギオでの生活の色々は割愛させてもらうとして、とにかく1日12時間くらい毎日勉強しました。 しかし、そう簡単に英語力は上がりませんでした。

僕は合計4ヶ月間その学校で勉強しました。毎日約12時間の勉強。週末も遊びには行かず勉強。しかし、週間に1回ある模擬試験でいつになっても目標の点数になりませんでした。

時間がない、しかし点数があがらない、しかし毎日英語学習にコミットしていることは確か。
頭が痛くなりました。

「IELTSの規定のスコアとれませんでした。なのでイギリスの大学に入学できません。」なんて絶対に言いたくない。
友達と両親に日本で合わす顔がない。てかこのままでは日本に帰れない!!と思いながら僕は焦っていました。

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4ヶ月目のフィリピン滞在の最後の月の模擬試験までスコアが4.5 ~ 5.5を行ったり来たりしていましたが、ついに最終本試験でなんとか滑り込みでゴールスコアがとれました。

今思うと無茶苦茶しんどかったです。これをもう一度しろと言われたらできないでしょう。

8. 大学入学のために再びロンドンへ

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フィリピンでの戦いを終え、日本に一時帰国して大学入学の結果を待ちました。

実はフィリピンにいる間に願書提出の手続きは済ましていました。後出しでIELTSの証明書も添えました。

運良く僕が第一希望にしていたロンドン芸術大学(ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション)に合格することができました。
 実は入学願書の必要事項の中に「自身の作品」という項目がありました。

元々ファッション畑の人間でないので作品は1つも持っていなかったんですが、ロンドンでなにか爪痕を残してやろうと思って行った撮影の写真を作品として提出しました。

スカイプでインタビューをした大学の面接官の人に、この作品の作るに至るまでの経緯と、実際に撮影したことはとても高く評価されました。このタイミングでその爪痕が意外な形で生きました。

そしてついに大学入学のためロンドンに降り立ちます。

とにかく1年目は地獄でした。。。笑

もともと英語ゼロ人間でしたが、来る前に猛烈に英語の勉強をしていたので英国といえでども多少はやっていける自信がありました。 

しかし入学初日にその自信は完全に打ち崩されました。。。笑
僕が話す英語が聞き取ってもらえない、そして他の人が話す英語がほとんどわからない。

それに加えて、僕は大学院ではなく通常の学位をとる学部だったため周りの子たちは19歳、20歳でとても若かったせいか、彼ら彼女らが聞き取れなかったときのリアクションではこんな感じでした。
「What!?」+ ちょっとイラっとした顔
それが自分の英語が通用しないその状況をより辛いものにしていました。。。

入学して初めの6ヶ月間は英語を話すことすら少し怖くなり、イラッとされる度に心が折れそうになっていました。
 しかし壮絶な努力とけっこうな高いお金を払ってこの大学に入学したのでここで諦めるわけにはいきませんでした。

また、この大学に来た本来の目的はファッションの勉強だったので、英語で躓いている暇はありませんでした。

とりあえずその「What!?」+ ちょっとイラっとした顔をする子達を味方につけて、なんとかその辛い状況を緩和させる作戦にでました。
作戦と言ってもとりあえず仲良くなるように絡んでいくってだけでしたが。笑

お昼ごはんを食べる際は輪に混ぜてもらったり、わざわざ席の隣に座って絡んだりしました。
最初はほぼほぼ無視されていたり、イギリスの話題ばかりで日本でいうとジャニーズの誰々がとか俳優の誰々がとかのイギリス版をされていたので、全くついていけないし英語にもついていけないしでとても大変でしたが、粘って接していたら彼ら彼女らもだんだん心を開き始め、僕に興味を持ち始めました。

心を開いてもらう状況を作れればもはや勝ちでした。

私の英語にも耳を傾けながら、色々と教えてくれるし、相手が話す速度が速ければ「もう少しゆっくり話してくれ!!」と言いやすい関係性ができていました。

とはいえそれでも授業や課題は全て英語ですからやっぱり1年目はキツかったです。

9. フリーランス開始

大学1年目のときから大学での勉強以外にフリーランスとしての活動を始めていました。

大学での勉強だけでは実践的なスキルを身につけるのは難しいと考えていたので、勉強と実践を並行して行うことを意識していました。

大学にいくだけでは、バドミントンが上達したくてバドミントンの教本だけを読んでいるようなものなので、いかに学んだことを実際に試す機会を増やし、そしてその経験で疑問に感じた点を大学で答え合わせをする機会も増やすかを考えていました。

そのためファッションに関わるお仕事であればなんでもやりますというスタンスでお仕事を探しはじめていました。

しかし、元々ロンドンに知り合いがいたわけでもなければ、これまでファッション業界で仕事してきたわけでもないので、1年目はとりあえず種まきからはじめました。

色んな求人に応募したり、イベントに参加したり、自分でできることは全部やりました。
仕事探しをしている時 MixB という掲示板サイトを特に使っていました。

英語も十分ではない日本人が仕事をゲットするのは本当に難しい状況でした。
なので僕は自分なりに考えて色々工夫することにしました。
それは、「絶対に自分にはできない職種に応募してなんとか面接までこぎつけて、とにかくお話をして、自分自身の売り込みをして、名刺を置いて帰ること」でした。

今思うと面接に時間を割いてくれていた人たちに大変申し訳ないことをしたなと思いますが、そうやってどうにか繋がりをつくって、最終的になんでもいいからどうにか仕事までこぎつけたいという思いで必死でした。

その結果だんだんと名前を覚えてもらえるようになり、関係性も少しづつできるようになりました。

ちょうど2年目を迎えたくらいから、無給でマガジンの撮影や、小さな展示会の設営・運営に呼んでもらえたり、パートタイムでファッションに関わるお仕事ができはじめたりと、これまでの自分営業が身を結んできていました。

主なお仕事はこちら
- 映像、写真の撮影のディレクター(有給)
- 小さな展示会の企画、運営(無給)
- ロンドン、ミラノ、パリコレクションでの大規模展示会での通訳兼セールスアドバイザー(有給)

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このときにフリーランスのお仕事の関係で、上記の写真にもあるようにミラノ、パリには年に2、3回ほど行けるようになっていました。

今振り返ると、このときが何かを売るということの本質的なことをしていました。

人に会う、話をする、そして人に会う、話をする。

何もない状態で前に進もうと思うと、一番大事なことをするのだと今になってわかりました。

10. 日本での仕事

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駆け足でここまできてしまいましたが、大学を無事卒業し、そのあとは約2年ヨーロッパでお仕事をしていました。

このときフリーランスのお仕事で様々な人との繋がりができていました。
その中で特にご縁がある方がいて、その方とお仕事をすることになりました。

日本に帰ってからは、約1年間、20代後半から40代後半の女性をターゲットにしたコンセプトストアの、海外貿易業務、MD、アシスタントバイヤーを担当しました。

主なお仕事はこちら
- 1シーズン50~60海外ブランド、デザイナーを担当。
- 商品の買い付け
- 価格交渉
- 貿易業務
- 海外のクライアントが来日の際のアテンド業務。
- 販売促進、MD

11. ライフスタイルを考え始める ~ 東南アジアへ

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日本での任期を終える頃に、働き方について考えるようになってきました。

その当時僕には外国人の彼女がいて遠距離恋愛をしていました。そのときに改善したいと感じていたところが、時間と場所に拘束される自分のライフスタイルでした。

単純に遠距離だと時間と場所の制限が同じ国内の恋愛よりも圧倒的にハードルが高く、その不自由さから働き方、生き方をよりいっそう真剣に考えるようになりました。

そのときにあたまに浮かんだのが、ITでプログラミングでした。
ソフトウェアエンジニアになれば時間と場所から自由になれるのではないかと思いました。

なので、突然ですがアシスタントバイヤーの任期を終えたあとの3ヶ月をプログラミング学習に全ての時間を注ぎました。

そのときにインタビューしてもらった記事がこちらです。


プログラミングを学んでいく中、同時にIT業界でのお仕事も探していました。
テーマは海外とITで絞って探していました。

ちょうど当時付き合っていた彼女が仕事でベトナムに行くと決めていました。それが理由で僕もベトナムに決めました。

パワープレイではありますが、同じ国にいけば場所の壁はとりあえず乗り越えれる!!まぁそんな感じでした。

しかしその決断もけっこう真剣で、最悪の場合ITで探せなくてもその国で何かしらの職で入国することは心に決めていました。そのあとにITで探せばどうにかなると。

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そして運良く就職先が決まりました。
それが以前働いていた会社になります。

社内インタビューを受けた記事がこちら↓↓

結局働き始めて1年後くらいにその彼女と分かれました。

よくそのときに周りの人から「どうすんの?日本帰るの?」「もうこの国にいる必要ないんじゃないの?」と聞かれていました。

入社初日の挨拶で、全社員のまえでこの国を選んだ理由は彼女がこの国を選んだからですとはっきり自己紹介で話をしたので皆知っていることでした。笑

もうこの時、僕の中でこの国にいる理由は明確でした。
それはその会社の存在でした。

ITの知識だけでなく人間としても成長させてもらえている環境にまだまだ自分を発展させていく可能性を感じていたんです。

働いていく中で自分がこの国にいる理由は1つ増えていました。 
何事も一生懸命行動に移し、それをやりきることの大切さをとても強く感じました。

傍から見ると馬鹿げていますが、僕は当時その彼女に一生懸命でした。
その時その彼女と真剣に向き合っていたからベトナムに来れました。
もしそれが中途半端な気持ちで向き合っていれば、絶対にベトナムには来ていません。

また、真剣に向き合っていたからこそ自分のライフスタイルに疑問を抱くようになってきました。
何か変えれるのではないか?変えるべきではないか?そう感じたのです。

僕がこの国にきてこんなにも素晴らしい環境に巡り会い、5年が経つ今もこの国で生活すると考えていたのかという、全くそんな事考えていませんでした。

ただただ僕は目の前のことに一生懸命取り組んで、そのときの自分の気持ちに素直に従い行動に移し、なんとかやりきることでした。

これが自分が想像もしない世界に連れて行ってくれました。

12. EnlytのCEOに

今まさに道半ば。経営ができるよう奮闘中という感じです。

日本に戻って3年目を迎えています。

経営者となってからも3年目でしょうか。

黒字を残せていますがまだまだ経営ごっこで、経営者と呼ぶには程遠いという感じではありますが、前に進むしかありません。

会社のサイトリンクを貼っているので見てあげてください。

現在進行系のお話なので、このトピックはこのへんで。

12. 僕の人生で共通すること

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この自己紹介文を書くにあたって振り返ってみると、僕の人生の中で共通しているこがありました。

何か変化があれば、その都度心で感じ、その上で自分はどうしたいのかを考え、それに素直に従って行動に移す

自分の決断を正解とするためになにがなんでも全力でやり抜く

この2つを実行してきて自分が想像もしていなかったたくさんの楽しい人生を送ってきました。

この経験から思うことは未来は誰も予想なんてできないのかなと。
それと、何をするとか、どんな計画をしたか、などはほとんど未来には関係ないことなのかなと思います。

結局、今やっていることが未来となっていくので、未来のことを考えて生きるのではなく今を一生懸命生きることが全てだと思います。

いかに自分の気持ちと真剣に向き合って、自分が本当に望む方向に向かって今を一生懸命生きていれば、人生は楽しいものになるのではないかと思っています。

世界を騒がせる偉大なことはできないかもしれないけれど、最低でも自分とその周りの人くらいは幸せにできるんじゃないかなと思います。

これからも変わらずいつも自分と向き合い、目の前のことに一生懸命取り組んでいきたいと思います。

僕はまだまだ自分が描く理想のライフスタイルを実現できていません。人に自慢できるほどの偉大なことを成し遂げれていません。

今も毎日、そうなれるよう色々試行錯誤しながらやっています。
みなさんのアドバイスなどいただけたらとても光栄です。

長くなりましたが以上が僕の自己紹介でした。お付き合いありがとうございました!

twitterもやっているのでぜひフォローしてもらえると嬉しいです。
色んな人のお話を聞くのも好きなので、僕にご興味ある方はtwitter経由でもよいのでご連絡ください。

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