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我が胸中


"♪ピコン♪"

スマートフォンが鳴り画面に目を向けると1件のメッセージが届いている。

「ごめん。コロナ感染者がまた増えたから食事行けない。」

「またか」と思いスマホを投げ朝の寒さに気付き毛布に包まる。
先日も旅行も計画していたがそれもコロナで頓挫した。
不幸ではなく人生こんなもんだ。
がっかりじゃないと言えば嘘になるが。

我が胸中。
これは次への幸せに繋がる過程だ。
定期的に感じるがっかりは幸せ定期預金だ。
日々なんなく暮らせ、やり遂げられているのはこの幸せ定期預金の小さな積み重ねなのだ。


元々定期的に元気が無くなることがある。
小さい頃は泣き虫で毎日のように泣いていた。
それは怒りや悲しみが湧くと「こんなことが耐えられない自分が情けない」と自分を見窄らしく思い牙を自分に向けて同時に

「どうしてみんなは泣かないのだろう」

とも思っていた。
その時の感情が癖付いているのか定期的に元気が無くなる。
医者に診てもらってないから鬱なのかパニック症なのかはわからないが行かなくてもなんとか生きてられるのはそういうことなのだろう。

三つ子の魂百まで
雀百まで踊り忘れず

とはよく言ったもので幼い頃から癖付いているものはまだあると最近気付いた。

それは集団への嫌悪だ。
約10年ぶりだろうか。最近久しぶりに集団に属した。
そこは1000人以上もいる大集団。
属した当初は新しい人や新しいコンテンツだらけで興奮と知的好奇心が満たされ楽しかった。
しかし興奮にも次第に慣れそれは退屈へと変わっていく。
さらに他人の嫌なところへ目が行くようになる。
該当するアカウントに触りミュートしていく日々に変わっていく。

同時に人の言ってることが信用できなくなってきた。
「ん?これは人間不信になってるのでは?」と思いその集団に使う時間を減らしてみている。

そうだ。僕はいつだって1人だった。

友達を沢山欲しくて作ることに勤しんだこともある。
しかし手に入れた先には何もなかった。

人は定年退職をした後に社会的コミュニティを失い孤独になり痴呆になり死ぬという。
しかし今や成熟したネット社会になり社会的コミュニティはネット上で作り上がっており手に入れることができるようになった。

嘗て僕はこう言ったことがある。

「定年退職してもネットでのコミュニティがあるから孤独を防げボケなくて済む。」

しかしどうだろうか。
僕自身は集団や社会的コミュニティいてもそしてそれがネット上だとしても孤独を感じてしまっている。

(孤独がずっと隣にいる僕がいるのだから孤独と痴呆は関係があるかどうかの問題を書くと長くなるのでやめておこう。)

他人の嫌なとこばかりに目がいって素敵なところは見ても楽しくないと思い目を塞ぐ。
今の僕にはこのコミュニティが全く楽しくなくなってしまった。

集団への嫌悪。なかなか拭えない。

嘗て人が嫌いだったことも思い出す。
しかしこれは拭い取れた気がしてる。
人が嫌いだったのは愛の欠如が原因だ。しかし愛ってのは見えづらかっただけだった。改めて周りを見るといい奴ばかり。こんな僕のことを好きと言ってくれている人がいるわけだ。
これに関しては言う事はない。

さて、ここで自分に問うてみる。

お前はなぜまた集団に飛び込んだのだ?

わからない日々が続く。
この集団にいるとよく「前進したね!成長したね!」と言われる。しかし言われるたび僕は納得がいっていない。
客観的には成長しているのだろうが主観的には疑問が残る。


僕はこの集団から脱する理由を探している。
辞める前提で属したからだ。
もしかしたら辞めるタイミングは主観と客観のその意思が合致した時なのかもしれない。

もちろん辛くなったら問答無用で辞める。
(これは逃げではない。例え逃げだとしても逃げてもいいだろう?)
しかし今は辛くはない。

楽しくないのだ。

僕の課題は集団で楽しみを覚えることで
それが成長に繋がるのかもしれないな。

『異端の鳥』という映画を見た。
主人公の少年はまるで人が受けることができる残酷な不幸を全て味わっていた。その中で少年の心の変化が垣間見られる。しかし彼は生きるという意思は全く変わらず貪欲に生きていた。自殺なんて考えている様子は全く伺えなかった。

少し僕に似ていた。僕も自殺を選ばない。
その先に何もないからだ。
生きることに貪欲でいたい。

みなさん、今は楽しいですか?
幸せですか?元気ですか?

僕はなんにせよ、今は元気です。

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