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リニア型とループ型の生き方

哲学対話

先月、初めて参加した哲学対話のテーマは「苦」でした。参加者でデビュー戦だったのは私だけ。いくらかは参加者本人の感情が吐露される場面も想像していましたが、例えるなら「苦」をテーブルの真ん中において、各人の体験などに基づいて語り合うといった、理性的な時間でした。哲学ですから、当たり前なのかもしれませんが(みなさん大人ですね)。

私自身は打たれ弱いので、すぐに悩みを打ち明けたくなってしまいますが、社会には、悩みとその苦しみを一人で抱えて耐えている人が割と多い気がします。「共有」の世の中ですから、楽しいことばかりではなく、辛いことももう少しシェアできるとよいと思います。

他の哲学対話を知りませんが、こちらでは、一人ずつテーマに対する問いを書き出し、共有するところから始まります。今回はそのうちのひとつである「自ら課した苦は苦か」から、対話がスタートしました。自らの意思で挑む試験勉強やマラソン、登山などのゴールのあるものに伴うのは苦なのか、苦ではないのか。介護などの終わりの見えないものはどうか。先天的な性格や育った環境の影響はどうか。苦は解消できるのか。それは自らで可能なのか、他者によるのか。

もちろん一つの答えには辿りつきません。ある視点が一つの側面をうまく把捉できたとしても、他の側面は掴み損ねる。対話が進むにつれて、他の方の問いにもつながったり、寄り道したりで、約2時間の対話は終了。結論が出なくても終わる。それがいいのでしょう。終盤はファシリテーターの方の問いである「苦と思い通りにならないことは同じか」に向かっていたように感じます。

ここでの対話を通じて、私が納得のできそうな仮説は「なりたい自身の像との乖離が解消されないほど苦は大きくなる」、「他者から自己の承認を得られるなら、苦は軽減する(が、消滅はしない)」。

苦は滅尽できるのか

さて、少し脱線をしまして、「苦」といえば仏教です(個人的に)。先程の「苦と思い通りにならないことは同じか」も仏教的な問いと言えます。例えば、仏教には有名な「一切皆苦」という見方があります。一見するとニヒリズムの塊のような、この言説の意図するところは何でしょうか。

まず、批判を承知で単純化してしまうと「認知によって対象化されたすべて(諸法)」、これが一切です。対象化(分節)されたすべては、言語化され、存在となり、固定化される。それを我々は「ある」あるいは「ない」と考える。「苦」、「死」、「生」、そして「私」や「親」や「子」、「楽」や「幸せ」や「富」や「年齢」も、我々が対象化し、言語化したものです。この固定化は、我々に対象への執着を与えます。

この構造に気づいて、本来、すべては(一切皆空、無分節)であると知り、すべては縁起に拠って起こる無常であり、すべてはそれ自体に根拠を持たない(無我)と見て、そこから離れなさいと説く(解く)。

まあ、頭でわかったところで、感情はなかなかついていきません。仮にこの執着を滅尽できたとしても、それだけでは生きていけない、片道切符だと私は考えています。なぜ「華は愛惜にちり、草は棄嫌におふる」のか。そもそも対象化は、なぜ起こるのか。これらについては、別の記事で書きたいと思います。

ループ型とリニア型の人生

話を戻しまして。遠方から参加された方が、地方では時間を円環のように考える傾向があると仰っていました。自転と公転によって、夜が明け、日は暮れ、季節は巡る。24時間ごと、365日ごとに振り出しに戻る。それに疑問を持たない人が多い(ように見える)と。敢えて例えるなら、農耕的な思想と言えるのかもしれません。

一方で、繰り返される営みに疑問を持ち、目標(到達点)を外に置いて、そこへ向かう。これも敢えて狩猟型と呼ぶ必要があるのかはわかりませんが、会社で職位を上げる、都会で一旗揚げるといった発想はこちらでしょう。前者はループ型、後者はリニア型とも言えるでしょうか。もちろん、ループ型が、同じ中心点の周りで、同じ弧を描き続けている訳ではないですし、リニア型が一直線の軌跡を描く訳でもありません。現実には、双方とも非線形なのでしょうが、ここでは比較のための単純化と考えてください。

こうした考え方は、何も新しいことではなく、例えばこちらでも考察されています。

これまでは、経済的な発展を求めるなら、リニア型と考えられてきました。所有とその拡大を是とする経済型社会は、右肩上がりを前提としています。つまり、今日よりも明日の所有の方が多くなければならない。それによって、一部では捨てるほどの食糧不安になるほどの寿命を獲得しました。

こちらの記事では、都会でキャリアと収入を得たけれど、家族とは離れてくらす兄と、兄ほどの収入は得られないが、地方で働き、家族とともに暮らす弟との対比が紹介されています。

もちろん、どちらがよいという単純な話ではないですが、これまでは兄のような生き方だけが評価される傾向が強かった気がします。しかし、最近では弟のような生き方も評価されるようになりました。単なる価値観の循環かもしれませんが、テクノロジーの発展による、我々と生産あるいは労働との関係の変化、所有から共有への意識の変化、などもその背景にあるような気がします。

先程の遠方から参加され方は、ループ型には発展性がなく、待っているのは衰退しかないと言いながらも、ループ型の方が苦しみは少ないのではないか、とも仰っていました。確かに一見するとそうなのかもしれません。リニア型は、到達点へのアプローチがモチベーションである反面、容易に到達できないその頂(対象)を見上げ、乖離を感じる程に、本人を苦しめることも多い気がします。また、その到達点すら、社会の枠組みの中で選ばされた可能性も決して小さくはないはずです。

なんてことを考えていた時に、紹介されて読んだ本がこちら。

「ロボット」で有名なカレル・チャペックの本です。農業ではないですが、園芸マニアである彼の視点から(大戦中であったにも関わらず!)、園芸家の一年を面白おかしく描いています。ネタバレになってしまいますので、この本に興味のある方は読み飛ばしていただくとして、最後にこう書かれています。

わたしたち園芸家は、未来に対して生きている。バラが咲くと、来年はもっとよく咲くだろうと考える。(中略)五十年後には、このシラカバの木々がどんなになっているか、早く見たいものだ。
真正の、最善のものは、わたしたちの前方、未来にある。これからの一年、また一年は、成長と美を加えていく。(後略)

農業と園芸とは異なるとは言え、この本からはむしろループ型の方が長いスパンで変化を楽しんでいるのではないかと感じさせられます。

あとがきにチャペックの旧居と庭を再現した施設のある公園が紹介されていました。これは行かねば!


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