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相手の気持ちを考えない

毎年、年末にひたすら記事を書くという百森アドベントカレンダーを今年もやります!3年目ですね。メンバーがそれぞれ自由にイロイロ書いていきますので、お楽しみに!今日の分は田畑が担当します。

言葉でのコミュニケーションを大事にする会社にしたいと日頃から思っています。というのも、社長の僕自身が言外に秘められた他人の気持ちを読み取るのが上手くないからです。良かれと思ってやったことが、相手を傷つけたり怒らせたりしたことは、一度や二度ではありません。

それだけ聞くと「ふーん」程度かもしれません。しかし、僕はさらに「ひとはすべからく、他人の気持ちを勝手に考えるべきではない」というちょっと過激な思想の持ち主です。ここまで行くと「なんて酷い、冷酷なヤツだ」と言われることもあります。そうなのかも知れません。

でも、特に仕事の場では、得られる情報ならば確実に手にしておくべきだろうと考えています。「他人の意向」というものは推測もできますが、それは確度が低い情報です。「あなたはどうしたいのか?」と聞くことで、より正確な情報が得られことが多い。その手間を省くべきではない。

これは逆も同様です。「わたしは◯◯してほしい」というのを、相手に察してもらうというのは不確実です。相手に「わたしは◯◯してほしい」と言葉にして伝えることで、より正確に伝達することができます。文字なら見返せるので、なおよい。この手間を省くべきではない。

相手への想像力を働かせるのは良いことであるかのように語られることが多いですが、仕事において、それは手間を省いているだけなのではないか。想像力を働かせたことにして、面倒を避けているだけではないか。問題を相手の想像力のなさに押し付けて、逃げているだけではないか。

反論があるのは分かっています。特に、言葉にすることが、質問をすることが、要望を伝えることが、侮辱的だと考える方も一定数いるようです。常識で考えれば済むことだ。相手のことを思うチカラが足りないのだ。そんなお叱りを頂くこともあります。

しかし、常識なんて場所や時代によって全然ちがってきます。西粟倉ではゴミ袋に自分の名前を書くし、車を所有するために車庫証明が要りません。どちらも他所では「そんな馬鹿な!」となる話です。運動中に水を飲むのがご法度だった時代もありますが、今では危険行為です。

相手の気持ちだって、勝手に類推して間違うひとだらけです。僕自身がやってしまったことも多くありますが、やられたことだって幾らでもあります。歴史的に見れば「相手も嬉しいはず」と思って治療という名の拉致監禁を国家で進めてきた例だってあるくらいです。

そもそも人間というのは理解しあうことがとても困難だ、という認識を僕はもっています。理解することが困難だからこそ、言葉という希望に願いを託したい、託さねばならないという立場です。しかし、言葉にするのが侮辱的だという方は、人間というのは理解しあえるものだという前提に立っている事が多いように感じます。この断絶は深い。

もちろん、言葉は万能ではありません。全てが解決するわけでは決してありません。しかし、言葉を使いこなそうという意志がなければ、それは怠惰であると感じます。少なくとも、仕事という場においては。

相手のことを考えたつもりになって満足するのではなく、言葉を以てはじめて意志の伝達を図るべし。社外の方にこの考え方を押し付けるつもりはありません。でも株式会社百森はそういう会社にしていきたいです。ご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いします。

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