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行き着いたところは、”晴耕雨読”(1)

おはようございます。人生まだまだ道半ばの38歳です。いつかは自分の畑を持ちたいという念願が今月叶いました。その畑をもつというプロセスと自分の足跡を重ねてお伝えします。

原点は、「天空の森」田島社長の教え

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2001年2月上旬、私は大学1年生(東京)。法政大学、鈴木輝隆先生の「地域活性論」という授業で、有限会社雅叙苑観光 田島健夫社長の講義があった。田島社長については、他のプロの方々の取材記事などがあるのでここではサイトのご紹介だけ。

http://www.relaischateaux.jp/tenkunomori.html(ルレシャトーHP)https://irotoridori-jp.com/spot/tajima_tateo_tenku_no_mori/(経歴、プロフィール等)

あまりも田島社長の講義が当時の私には奇抜だった。なぜなら、東京ドーム13個分の広大な敷地の森を人の手で切り開いていると言うのだ。また、鹿児島の霧島方面に位置するところに、世界からお客さんを呼ぶと言っている。当時インバウンド(訪日旅行客)という言葉を誰かに伝えたら、「芋パウンドケーキ」と聞き間違られるくらい、海外からお客さんという発想がない時代だ。まるで言っている意味がわからないがとにかく話のスケールが大きかったので、大変な興味がそそられた。よって、授業が終わった後に、私と複数人は社長を囲って引き続き話を聞いた。そして、社長からは、「東京から鹿児島空港までの飛行機代を出せば、うちで下宿して、僕がやっていることを見に来たらいいですよ。」と。答えは即「YES」である。ということで、わたしとトシさんという1つ上の先輩と一緒に行くことになった。

少し私の生い立ちをお話すると、私は北九州の黒崎というところで生まれ育った。(有)伊藤機工商会という小さな機械工具屋を両親が営んでおり、私がものごころついた時は父は稼業はもともと興味がないらしく、学生時代から政治家になりたいという夢があったらしく、北九州市議会議員をしていた。幼少期から父の名前を連呼する選挙カーを聞きながら育った。この辺は大変波乱万丈な部分があるのだが、後日詳述する。議員の父の背中を見ながら育った私はどうも地元「九州」の思い入れは強い。それは、東京の大学に進学して尚更強まったのかもしれない。

天空の森の田島社長に、授業後私が話しかけにいった一言目を明確に覚えている。「私も九州出身なのですが、いつか九州に戻って地元のために働きたいと思ってます。」と。親子の血は似るもんだと思う。こういう言い方は申し訳ないが、世界から人を呼び込める鹿児島の田舎の宿ってなんだ?って好奇心が猛烈に芽生えた。私もそんなことを将来できるならしてみたい!という青春の希望がスポークした瞬間だった。当時54歳だった田舎の宿の親父に大学キャンパスでときめいたのだ。

実際に2月上旬頃に鹿児島空港に着き、田島本館http://tajima-honkan.com/で10日間弱住み込みさせていただいた。その間は、午前、山の開墾(竹切)、昼ごはん(田島社長と共に)、午後山の開墾(竹切)、湯治場の温泉、夕食(田島社長の講義付)という日々を繰り返した。誰しも原体験というのがあるかと思うが、間違いなく私がその後就職し、転職し、家族を持ち、家族を失い、家族を持ちなど、さまざまな人生の経過に田島社長の教えが影響をしている。そして、行き着いたところは”晴耕雨読”(せいこううどく)。続きはまた明日。

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