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運動嫌いがジムっていいなと思った


運動というものを高校生の運動の授業から社会人5年生になるまで、本当にやってこなかった。

なぜかというと、運動が本当につまらないと思っていたからだ。

「走って何になるの?」「懸垂が出来て何になるの?」「無意味じゃん。」「そんな無意味の時間を過ごす中にある感情って苦痛だけじゃん」と思っていた。そんな無の時間を過ごして、例えばスポーツに出て何かの大会に優勝することができるだとか、マラソンで優勝するだとか、そういった目的があれば別かもしれない。でも、自分は社会人の運動サークルに入ってもいないし、足が速くなった所で別に遅刻に遅れそうになった時にダッシュして息が切れなくなる程度の恩恵しか得られないと本気で思っていた。(運動が好きな方、本当にすいません)

しかし、なんでここまで運動が嫌いになってしまったのかということも同時に考える訳だ。なんでこんな人間になってしまったのか?

ということをさかのぼると、やっぱり小学生の時の苦い経験が色濃い影響を残しているからだと思う。影響どころか、深い傷跡=思い込みとして頭の中に刻み込まれている。

3月生まれという事もあるかもしれないが、自分は小学生の時から運動音痴だった。マラソン大会はほぼビリッ尻。運動会で出場した種目の殆どが最下位だったと思う。運動会というイベントは最悪で、なんでわざわざ大衆の面前で、しかも親の前で自分の運動能力の無さを露呈され、比較されなければならないのかと、恥ずかしかった。同時に理不尽さも感じていたし、運動会の前の日は絶対に雨が降って中止になって欲しいと願いながら自分の布団に入った。

特に運動会の最悪な思い出としては「地区リレー」という最悪の競技だ。

地区リレーというのは、集団登校をする同じ地区のグループの子供で一年生から6年生までバトンを渡して競争するリレー種目の事をさす。選手は各学年の男女から一人ずつ足が速い子を代表として選抜する事によって、どの地区の子供たちが足が速いのか競い合う内容になっている。

子供たちが沢山いる地区であれば、そこそこ足の速い子が各学年ごとにそろうという事もあって、優勝争いをする地区同士のバトルはかなり見ごたえがある内容だった。親御さんの立場になってみれば、自分の子供と自分の近所の子供、そして自分の住んでいる地区を応援する事になるし、さながら小学校版のペナントレース感があって、面白かったと思う。実際に生徒の中でもこの地区リレーに勝つことに対して、闘志を燃やしている子も少なからずいた。

が、問題はここからである。自分の住んでいる地区は4年生までは同学年で足がそこそこ速い子がいたのだ。その子が選手になって走ってくれればなんでもよかった。僕は無関心なまま応援していればよかったのだ。だが、5年生になる春にその子が引っ越ししてしまったのだった。そうなると必然、自分がリレー選手にならざるを得なかったのだ。

ちなみに自分の地区は毎回優勝候補に絡むほど、他の学年の子供の足は学年上位に食い込む程早かった。となれば、もうお分かりだと思うが、下の学年の子たちが積み上げてきた順位を、その努力を俺は潰す役割を追ってしまったということになる。

下の学年の子がどれだけ早くリードを稼いだとしても、自分の番に回ってきた瞬間に順位が最下位近くまで落ちる。この責任の重たさと、下の学年の子のため息や愚痴「どんなに頑張ったって勝てないじゃん」は今でも頭に残っている。5年生の時はまだよかった。6年生の時は本当に地獄だった。アンカーの足が学年で最下位の男というのは地獄以外のものではない。

チームプレイにおいて自分が足を引っ張っているという自覚、でもそれを自分から避ける事のできないという理不尽さ、また、小学校特有の運動が出来る奴は一目おかれるという謎の価値観からくる信頼の暴落、そういった物を痛感させられる運動会が嫌=運動なんか大っ嫌い。運動が出来る奴は最初からできるし、できない奴は一生その世界を味わう事もできないし、運動が出来る奴になれない。なら、運動なんか出来たって意味がない。出来るように訓練する事は意味がない。

となってしまったのだろうと思う。今思えば逃げずに練習すればよかったなとおもうのだが、当時はひたすらに運動を憎んでいたと思う。「俺は運動ができないからな~」という思いや言い訳は、運動以外の部分で頑張ろうという方向にスライドしていった。つまりは、運動から目を背けて、自分の内向的な趣味に走っていくことで、運動から目を背けた訳である。

そんなわけで社会人5年生になるまで、運動をめっきりしなくなった訳だが、その結果、どんどん身体は衰えていった。

特に、コロナ禍が決定的だったと思う。仕事の為に出勤する事もなくなれば、普段の買い物もネットの通販やウーバーイーツで済ませるようになった。46時中家に引きこもって生活するようになり、スマートフォンの万歩計は1歩も刻まない日が続いた。だが、食事量は変わらなかったので腹は膨れ上がり、必要以上にご飯を食べる事を繰り返していたら、階段を上がるにも一苦労感じるようになってしまった。

また、案外肉体というのものは、体力を使い切らないと寝れないもので、ベッドに横になっても寝付けない日々が続いた。その意味が分からないまま睡眠薬を飲んでは寝れない、飲んでは寝れないとよく嘆いていて、精神科で沢山睡眠薬を貰っていた。

結果、昼夜逆転して寝坊して、日常生活が壊れていったと思う。また、日々の生活を続けていく中で、なんのために自分が生きているのか分からなくなって行ってしまった。つまり、日々の仕事や趣味が無意味になってしまったのだ。なんのために仕事をしているのか? なんのために趣味をしているのか? その意味がただの時間を潰すためのものになってしまった結果、今度は逃げ場所すら、逃げなければならないものになってしまった。

そういった日々の中で、ある時上司にからこう提案された。

「ジムに行ってみたらどうか?」

最初は受け流していた。イヤー自分は面倒くさがり屋でして、本当にジムなんか行ったらビビッてなにもできないですよ~とか。運動している時間が凄く嫌いなんです。苦痛しかなくて。とか言っていた。そういう僕に対して、上司は職場近くのジムを見つけてくれて、おまけに昼休み一緒に見学してくれることになったのである。僕はそのままいよいよ逃げ切れなくなって、事務にいき、そのまま流れで契約をしてしまった。まったく、断れない性格もあったかもしれないが、しかい、自分の中の生活を一歩踏み出して変える為には、何かをしなければならないと思っていたのだと思う。自分の思い込みを壊すには経験しかない事も知っていたからだ。

そしてジムを契約した理由として、実は一番大きかったのは、トレーニング機械を使える事ではなかった。水(水素水)、プロテイン飲み放題、風呂入り放題、サウナ入り放題、プール使い放題、という夢のような空間であることを教えてもらったからだ。また、7月から月4000円で簡単にレクチャーをしてくれるというのだ。これは安い。

という訳で、トレーニングウェアとシューズを買い、仕事帰りにジムに向かった。最初はロッカーの開け閉めの仕方が分からなかったり、着替えに手こずったりと散々だったが、トレーニングルームに入ってみると、意外な事に、案外だれも他人の運動に興味がなさそうにそれぞれが一人一人無言で運動をしていたのだった。また、筋肉ムキムキの人ばかりかと思ったら、エアロビなどの教室で大勢の人が踊っているのは見えたが、トレーニングマシンの周りは殆ど人がいなかった。すれ違う人達も、年齢体型色々な人ばかりで、それぞれが好きな格好で自分のペースでトレーニングしているのが目に見えたのだ。

また、最初にトレーニング室に入場した際、ジムのトレーナーさんから声をかけてくれた。「初めてですか? ジムを使った事は?」「初めてで何も分かりません」「そしたら、簡単にレクチャーしますので、こちらへ。ちなみにジムに通うきっかけはどのようなものですか?」「体力を付けたくて」「でしたら、まずは5分間バイクを漕ぐウォーミングアップをして、そのあとストレッチをしてもらって、3種のマシンを10回1セットしてもらったら、後はもう一周バイクから始めるといいですよ~」と答えてくれたのだった。そのあと、実際にマシンの使いかたをレクチャーしてもらったのだが、そのおかげて、あっという間に自分だけの運動メニューが出来上がってしまった訳のだ。

後は淡々と言われたメニューをこなしていくだけ。

言われた通り、最初は5分間足で漕ぐだけのバイクマシンでウォームアップを行う。これだけで汗が尋常じゃなく出てくる。そのあとは、カーペットが引いてある床のトレーニングが出来るブースに移動し、10分間のストレッチをする。基本的にテレビでストレッチの動画が流れているのだが、自分の場合はYouTubeの柔軟体操の動画をする事にきめた。全身の筋肉をほぐした後は、マシンに向かう。それぞれ自分の体重の半分くらいの重さを設定し、腕、肩-背筋、足の順番で、それぞれの部位を鍛えるマシンを10回1セット稼働する。足はかなり楽に動かせるが、腕については片腕20キロの重りを1回引き上げるだけで息切れを起こしてしまい、自分の貧弱さを痛感した。

バイクからマシンまでの導線は既に組まれていて、多分定番メニューなのかもしれないが、トレーニング室に入って時計回りに1周するだけでメニューがこなせるというのがよかった。途中で辛くなって投げ出す事があったとしても、一応最後までやり遂げてから出ようという気になれる。そういった援助もあり、言われた通り2週してみたのだが、あっという間に2時間溶けてしまった。

そして、案外一人で運動をする時間というのが楽しいという事にきがついてしまったのだった。

運動をするときに一番自分が苦手だと思っていた事は、チームプレイの中で足を引っ張るという罪悪感だったと思う。ただ、このジムのトレーニングにおいては、ただ身体を無心に動かしていくだけだから罪悪感なんてものは関係がない。勿論、周りの人達と比較してしまうことはある。自分のみっともない腹のぜい肉と引き締まった筋肉を比べて、自分のだらしなさを恥じそうになった瞬間もあった。でも、運動をしている時僕は目を自然とつむって、筋肉が動いていることや、姿勢の状態、回数のカウントに全ての脳みそのリソースを費やしていた。その結果、人目を忘れてしまうくらいに無心になったのだ。

勿論、無心=何も考えていないわけではない。この運動が自分の筋肉にどう作用しているのか、今の重さは適切なのか、フォームは適切か、反動をつけて楽をしていないか、動きを緩やかにすると効いている気がしないか、とか、考える事が沢山あるのである。

とにかく自分の筋肉が効いているという手ごたえを逐一堪能するために、全ての思考を費やすことができる。正に、自分の筋肉との対話をしているという時間は、自分が過去過ごしてきた時間の質と比べた時にとても豊かだったのだ。

日ごろ手に持ち離す事のないスマートフォン。その中にはたわいのない情報が溢れいて、その情報を無意味に摂取しているだけの日々。生活の中で考える事を忘れて、ただ、振ってくる仕事をこなし、時間を潰すためにしていたゲームの中にこういった自分で考えながら過ごす時間があっただろうかと内省した時に、全くないなと思ったのである。

ひたむきに自分の身体と対話する時間が筋トレの中にはあったのだ。

無論別に常日頃考えいないわけではないし、沢山の情報を捌きながら生きているとは思う。でも、運動をしている時間というのは両手を運動のためだけに使用するということでもある。他の事をしながらでは、少なくとも無理なのだ。また、日ごろ使っていない筋肉を稼働させることによって自分本来の身体の動かし方を取り戻すのが筋トレである。

ただ、運動する訳ではない、本来の自分を見つめなおし、対話する時間を強制的に作らざるを得ない状況を筋トレは作ってくれるのである。

そんなわけで初めて行ったジムは思いのほか楽しかったのだ。

身体を動かす事は楽しい。自分の固まっていた、動かしてこなかった肉体を動かすのは楽しい。思考をスマートフォンから解放して、ひたむきに自分の筋肉のためにフルで使用する時間が楽しい。その結果筋肉がじんじんと痺れて自分の今の未熟さを自覚し、次の1週はどうしようか必死に考える時間が楽しい。現状に対する思考、トレーニングをクリアした後の余韻、そして未来への志向、つまり目標がいつのまにか出来上がっているのだ。その根拠は現状の自分という実態との比較にある訳だから。なにも気にしなくていいのだ。

誰かに何かを比較される必要もない。
ただ、今の自分と未来の自分を比較すればいいだけというのは、僕が今までの運動に抱いてなかった。大きな、とても大きな視点だった。

おまけに続けていれば体力や筋肉といった成果もついてくるのだ。
筋肉は裏切らないというのは、思ったより深い言葉であることを思い知らされてしまった。

筋肉は、今の自分を明瞭に提示してくれ、頑張った分だけ答えてくれる。そういう意味で、裏切らないし、逆に言えば冷徹な物差しとして機能するのだ。正に言い訳が通用しない。

だから、ジムは運動が嫌いな人程いってほしい。
なんのため運動するのか?という問いの答えを強いていうならば「自分を取り戻すためだ」。誰の為にする訳ではない。最初は本当に小さな重りから始めていいのだ。諦めたっていいのだ。それが自分なんだ。でも続けていく中で、多分少しだけ体力がついてくる。だって、運動してこなかった自分と、してきた自分では絶対に変化が起きているから。

そしたら、次の1週でもう少し重りを重くしたり、1セットの回数を絶対に増やしたくなる。その時点で自分の中で小さな目標が出来ている。その目標を達成しようというモチベーションができてくる。その結果を何度も経て、なんとなくだった運動の目的が見えてくる。もっと体力を付けたいと思うようになる。そのために、もっと上のハードルに挑戦できるはずだ。

その繰り返しの中で、目標に向かって頑張る事の大切さや、嫌だと思い込んでいたものの原因が別にあったり、それらを解消することができたり、がむしゃらに頑張る事と目的に向かって地道に頑張る事の差異だったり、色々な事に気が付けるはずだ。それは絶対に灰色に褪せた人生を豊かにしてくれる。

僕はジムに通い始めてまだ2週間もたっていないけど、ジムにかよったおかげで、まず寝れるようになった。肩こりも取れた。日々の生活の中に張りができた。今日は仕事をさっさと終わらせてジムに行く。そのために仕事を頑張れるようになったのだ。ジムに行くために仕事を効率的にするには、と仕事に対する向き合い方を考えたりすることで、更に仕事に対するモチベーションも上がってきている。趣味もだらだらするのではなく、自分は何をしたいのか、という事がなければダレルよなという事に気が付いてからは楽しくなっている。

そういった事を自分の筋肉と対話するというシンプルな過程の中で、取り戻す事ができる……はずだ。考え方1つ、日常生活の中に取り込む事で、すくなるくとも日々の無意味さや例えば途方の無い労働から若干解放されるハズだ。

……と数回しかジムに行ってないんですが、誰からも怒られたり評価されない。自分のためだけにする運動って気持ちがいいよってことをちょっとお知らせしたいなと思い、書いてみました。

ローランドさんも困ったらジムに行けって言ってたと思いますが、その原理はこういうことかなとおも思います。

運動嫌いの皆さん。マジで無理なんかしなくていいです。5回マシン動かすだけでもいい。でもそれでいいんです。それを自分のペースでやって許される場所がジムなんです。

正に都会のオアシスとして活用してみてはいかがでしょうか。

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