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#26 秋、衰弱堂の呪い

 25%オフになったDiabloⅣを買ってしまった。衰弱堂さん(以下敬称略)とオンラインで一緒に遊んでいた頃を思い出しつつ、のんびりひとりでやろう。大人なので、節度をもって。ええ、明け方までやったりしませんよ、もちろん。

 ミラン・クンデラはニーチェの「永遠の回帰」を否定している。すべての事象は一度しか起こらず、失敗など一度しかないのだから、軽く踏み出して好きなことを書けばいい。衰弱堂にこき下ろされることも、とりあえずないのだから。冥界からダメ出しされそうな気がして本当は少し怖いけど。

 衰弱堂はクンデラを愛読していた。そのクンデラが衰弱堂の死のおよそ4ヵ月後の7月に亡くなった。読むなら今か。なんとなく手を出せずにいた「存在の耐えられない軽さ」。クンデラの訃報に接したその夜、私は運よく、程度のよい河出の池澤夏樹個人編集版(西永良成訳)を入手することができた。

 この小説を読み進めることは、難解というのも読みにくいというのとも違う、名状しがたい困難さをともなった。だが、チェコスロヴァキアの近現代史にはもちろん暗く、政治にも哲学にも歴史にも明るくない自分でも、読み進めることができるだけの魅力が、この作品にはあった。登場人物が性行為ばかりしているからなのかもしれない。キリンとコウノトリに似た女性!

 キッチュの概念がつかみきれない。スターリンの息子の死のエピソードが記憶に残る。

 糞は悪よりもずっと厄介な神学的問題である。神は人間に自由をあたえた。だから神が人類の犯罪に責任がないと認めることはできる。しかし、糞の責任は全面的に人間を創った者、ただその者だけに帰するのである。

 調べた限り、衰弱堂がクンデラについてつぶやいたのは、意外にも一度だけのようだ。

今年のベスト本から。ミラン・クンデラ「緩やかさ」。クンデラでこの本を挙げるのは今年読んだということだけだが。最小限の枠組みをロジックで繋ぎとめながら驚愕すべきささやかな出会いを演出するクンデラの、軽やかな力技。脱帽。

 衰弱堂の眼には何が見えていたのか。クンデラのこの不可思議な長編を前にすると、衰弱堂の死への超越も、ひとつの軽やかな選択のようにすら思えてしまう。少し悔しく、少しだけ気が楽になる。

 まとまらないなあ。師匠、よく分からないところもあったけど面白かったよ。いずれまた、ご教示願うよ。犬を飼うことになったら、カレーニンと名付けようかな。

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