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noteとメンタルの効能

本日二本目の記事です。やっぱりちょっと上がっているのかな?

小説などのフィクションへの創作欲と、noteなどのノンフィクションへの創作欲がかなりはっきり分かれています。
今は恐らくノンフィクション寄りなのでしょう。締め切りは設定していないとはいえ、やるべきフィクション課題もあるのですが……。

Twitter(いまはXか)のアカウントも持っているのですが、メンタル系のセンシティブな話題を求めていない方も多いし、せっかく趣味で知り合ってご縁が続いている方に赤裸々すぎる内容でひかせてしまったり気を遣わせてしまっても申し訳ないなということで、メンタル系の深部についてはnoteにそこそこの長文で、文章の体裁を保って投稿しています。

そういうブログ的な投稿をコンスタントにやり初めて約3年。
徐々にではありますが効果らしきものが見えてきました。もしかすると初めの記事から効能はあったかもしれないのですが、実感できるようになってきたのが最近というべきか。

短文投稿より長文投稿の方が優れていると思う面↓
・読む人が限られる
読者の方はこの文章も「目にはいってしまった」のではなく、「リンクを踏んで数行読んで『まぁ読んでもいいかな』と思って」読んでいるはずです。
宣伝目的の方にはつらい仕様ですが、気楽に書くには「嫌なら読むな」の精神がよい方に働くこともあります。

・気分やテンションの備忘録代わり
一番大きい部分かもしれません。テンションは文体にでます。
躁気味だとむやみにウケを狙いに行く傾向があります。ちくちくした書き方をしますと「テンション高めのオタク構文」になりがち。あと誤字脱字。
あんまり書き手の方で継続的に追っかけている方はいないのですが、(本文にそう書いていないにも関わらず)「この人は今、躁状態なのかな」というのはなんとなく見えますね。一見反省しているようで終始楽観的だったりとか。
鬱状態だと投稿自体がなかったりすることもあります。
書き留めておくと「今なんか105%くらいの力が出てる感じがする……待てよ、過去に似たことを思ったんじゃないか?」とさかのぼることもできます。パっと出て来る人間の表現幅ってそんなに広くないのです。

・過去の出来事に対しての再解釈
許せぬ出来事のひとつやふたつ、誰にだってあるもの。
怒りの内容を短文でリアルタイムで連発して書くのは、……本当に今あった「現在」の怒りを受け止めるためであれば別ですが……、生傷をえぐりつづけるようなものです。こびりついた怒りを鎮めるにはその事象に対して再解釈した方が有効なのかもしれません。
多少、嘘っぽく、自分の気持ちを偽ってもそれで過去の怒りが和らいだり、許して楽になるのであれば多少偽りの気持ちを上塗りしても構わないと思います。どうしても、ということであれば許さないという選択もOKでしょう。
「なぜ許せないのか」の分析材料になるからです。
怒りや悲しみの再解釈が出来るようになれば相当効能を実感できるのですが、無理にしなくてもいいと思います。

ネットってずっと「自分語り」に冷ややかな目を送ってきたと思うんですよね。
それは記事と個人がヒモ付いていない匿名のネット掲示板ならではの価値観だった、と思ってもいいと思います。SNSなんて完全な自分語りで成り立っているし。
ブログに関しては特定個人の誹謗中傷や罵詈雑言でなければチラ裏でもよいというか「面白い記事を提供しよう」なんて考えなくてもいいと思います。
読み手に対しては大したことなくても「語る」ことは語り手の事実と主観の区別に一役買っているかもしれません。
他人の目を意識することで客観的な視点も入ってきます。

とはいえ、私は最初の症状こそ激烈でしたが、割と急性のものであったというか、慢性疾患としては比較的寛解している側です。
「書いたから、言語化したから良くなった」とは大っぴらに言いにくいです。たまたま脳が快復していく過程で「認知機能の回復が分かりやすいのが文章作成だった」というだけかもしれないし。
もちろん苦しむ方あれば背中をさすってあげないし、快復を祈りたいのですが、上から目線でアドバイザーを気取りたくはありません。そういう奴らにさんざんつらい目に遭わされたじゃないか、と思うのです。

まぁでももしこれを読んで「心の健康のために何かしてもよいな」という候補に「ブログ」が上がってきたらそれはそれで嬉しいですね。

ここまでお読みいただきありがとうございました。よろしければサポートのほどよろしくお願いいたします