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21🎂

私事が過ぎますが、21歳になりました。
何歳の時にどんなことを考えていたか、後々読み返すと結構面白いので今年も適当に書きつくろうと思います。

昨年禁酒生活から解放され、今ごろアルコールの味にも慣れてきてお洒落にお酒を嗜んでいるはずだったのですが体質の問題的にそのような理想は実現しませんでした。
もしかしたら今後急にお酒に強くなって酒豪に成り上がれるチャンスが到来するかもしれませんからそのときを待ちたいと思います。

そういうわけで大して呑めもしないので20歳という派手な節目を超えても変わったことは特にありません。
この先自分の感覚や考えを大きく揺るがすようなことって何か起きたりするんだろうかとか、これまで自分が書いてきたNOTEを読んで、全然何言ってるか分からないみたいな状況になることってあるのかなと不思議に思います。

大昔に書いた日記ですら「確かにな?!」と大共感してしまうようなことがあるし歳を重ねることも経験を重ねることも当然自分に影響を与えてはいるものの、一貫した自分というのは意外と図太くあるのだと思うわけです。

やはり沢山の人が共に生きる世界で息をしていると、比較というのは無意識にでもしてしまうことなのでいつもみんながこうだからとかあの人がああだからとかいう判断材料を使ってしまいがちです。世間一般で絶対とされている考えとか常識みたいなものもたくさんあってそういうものが自分の人生の判断にものすごく介入してきます。
でも比較をしたところで幸せに感じることも不幸に感じることも皆違うのであれば全く意味がない。

自分は自分の幸せを考えないといけないし、比較の結果世界に馴染むような選択肢を選び続けてもドーパミンは上手いこと分泌されないのだとあらゆる場面で思わされます。
人が言うことは的を得ていることもたくさんあるのですが、安全安定失敗しない可能性、そういうものだけを軸にもしかしたら数百倍の価値があったかもしれない未来を捨てるというのは、それはそれで愚かなことだなと思うわけです。

自分を縛る学校とか校則とか門限がほとんど消え、ほぼ自由な状態になれているのだから自由を無駄にしたくないものです。
小学生のときも高校生のときも、大人は自分の意思で転職できていいなああ〜〜〜
と思っていました。
転職だって簡単じゃないんだぞと大人は言いたくなると思うのですが
子供はどんなに学校が嫌でも基本的には辞められないし親の都合で自分の意思とは無関係に転校することはあっても自分で気が済むまで良い学校を求め転々とするなどということはできません。
だからやっぱり子供は縛られているし、大人は自由だということです。

縛られていた子供のときにその生活と反りが合わなくても頑張っていたのは、大人になって自由を手にしたときにその自由を好きなように使うためだったと今は思います。後付けでしかないですけどね。
当然小学生とかでそんな数十年先のビジョンを明確に持てるわけはないのですし高校受験をする時は失敗を取り返して世の中ギャフンと言わせたいぐらいの思考しかなかったのですけども、大学受験ぐらいからは多少のビジョンを見始めていたと思うのです。

自分がそんなに頑張ったことを無駄にしたくないのでやはり世間とか社会とか宇宙とか言ってないで自分が価値があるとするものがなんなのか、そのことに頭を悩ませないといけないのだなと思っているのです。
理想や夢というのは意外と探そうとしないと見つからないなとつくづく思います。
自分がどうしたいかという意思も、少なくとも私の場合は目を向けなかったら分からなくなってしまうものなのです。


自分を主体として考える側の人間ではないからこそ、意識的にそうしないといけないのだなと思いますよね。やるべきことは人によって違っていて他人を主体に出来ない人はそこを磨くべきだし自分にある偏りを発見して整えていくということをしないと、自分の言葉や態度で何人の人を悩ませることになるのやら、、
ここでも人を悩ませてしまうことに恐怖を感じすぎる人は自分を尊重することを、人を悩ませることを何とも思わない人は他人を尊重することを学ばないといけないはずだよな〜と思います。
価値の尺度が人それぞれである限り課題も人それぞれなのですよね

まずは自分にある偏りを発見するところから!
来年はどんなことを考えてるか楽しみ〜

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