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寂しさから生まれるもの

某文学賞への応募が終わり、しばらく文章を書くことをお休みしていた。
その間、録画して観ていなかったテレビドラマを観たり、買うだけ買って読んでいなかった小説やエッセイなんかを読んだり、ひたすらインプットに時間を費やしていた。そしてそれは、幸せな時間であった。

しかし、元来飽き性のわたしは、しだいにその生活にもマンネリを感じ始め、また書きたいという欲が湧いてきた。はて、どうしたものか? と思った結果が、ここnoteへの投稿に至る経緯だ。

エッセイと言えば聞こえはいいが、ただ思ったことをつらつらと書くだけだ。
書くという行為は、頭を使うし、文章も上達すると言われている。そしてなにより、暇な時間が充実した時間に変わるという、とてつもなく有意義なものなのだ。
モヤモヤした感情や退屈感から解放される。寂しさも紛らわせてくれる。お金もかからない。こりゃもう、書くしかないだろう。

「さみしい夜にはペンを持て」という本がある。
紹介しておきながら未読であるが、「嫌われる勇気」でおなじみの古賀史健さんの人気の書である。
タイトルだけ見て読んだ気になっているわたしだが、なるほど、寂しいときには書くことが癒しになるだろうな、とは思う(ちゃんと読んでから言え)。

なぜ、この本に反応したのかというと……。
わたしは遠距離恋愛をしていたことがある。18歳からの2年間だ。
高校を卒業して恋人と別々の大学に進学したため、近県ではあったが、なかなか会えなくなってしまった。当時は携帯もない時代で、ビデオ通話なんて夢のまた夢。
わたしは毎日せっせと恋人に手紙を書いた。

恋人は寮生活。わたしは一人暮らし。
わたしのほうが、寂しさは強かったはずだ。
入学して間もない頃は、友達もまだできていなかったから、一人暮らしのアパートに帰ったとたん猛烈な寂しさに襲われたのをよく憶えている。
一人という寂しさに加え、恋人に会えないという寂しさ。今振り返っても、当時の自分よ、あの寂しさによく耐えたもんだな。

寂しさをどうにか紛らわすために、わたしは手紙を書くことにした。
書いているあいだは、不思議と寂しいという気持ちが薄らいだ。
普通なら、相手からの返事が届いてからまた返事を書くのだろうが、わたしは返事が来なくてもほぼ毎日手紙を書いてポストに投函した。

手紙を書いていた当時のことを今でも懐かしく思い出すが、会えない時間が愛を育てていくというのは本当だった。
その恋人は、やがてわたしの伴侶となった。
寂しさのおかげと言ってもいいかもしれない。寂しいから手紙を書き、思いを綴った。そしてそれが相手にしっかり届いたのだ。
寂しさって感情は、捨てたもんじゃない。

日々生活をしていると、ときどき猛烈に寂しさを感じる場面がある。
その寂しさを人と会うことで埋めることもできるが、わたしはあまりそういうことを好まず、一人でその孤独と向き合うタイプだ。

孤独には創造性を高める魅力もある。
現に今こうして書いていると、身体のあちこちから沸々と意欲が湧いてくるのを感じる。

「さみしい夜にはペンを持て」ではないが、一人でいるときこそ書こう。
この本を読んでいない人間が、この本を二度も紹介しているのはなんだか妙だが、いずれ読む機会があったときに、今のわたしの気持ちと本の内容がどう交差するか、ちょっと楽しみだ。

人間である以上、みんな寂しいのだ。
だれかに自分のことを知ってほしいのだ。
noteを書く目的は人それぞれだろう。
寂しいなんて思っていないという人もなかにはいるかもしれないが、わたしは書く人の根底には必ず寂しさが存在していると思う。

寂しいとき、それがまさに創作のタイミングだ。
孤独から生まれるもの、寂しさから生まれるものが、きっとあるはずだ。

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