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我々は、みな孤独である

……という小説を読んでいる。
貴志祐介の本は初めてだが、面白い。

先日は、森博嗣の「孤独の価値」という新書を読んだ。
孤独という言葉には、どうしてもマイナスな印象が付いて回るが、それを根底から覆された。
読んでいるときには、孤独をまったく感じなかった。むしろ、孤独で在らなければとも思ったほどだ。

前回の記事(note初投稿)では、わたし自身、寂しさについて書いた。
寂しさって捨てたもんじゃないとも。

冒頭からこんな風に孤独について書いていると、こいつどんだけ寂しいやつなんだ! と思われそうだが、それは半分正解で、半分違う。
それは孤独が二つの側面を持っているからだ。
それは「やっかい」と「心地好い」だ。
あるときは、一人でいたい。でもあるときは、一人でいたくない。
その両方が同時にやってくることは、たぶん、ない。

心地好いときは問題ないはずだから、やっかいなときにスポットを当ててみよう。
やっかいなとき、たとえば人は誰かに連絡してみる、SNSに投稿してみる、本を読む、テレビを観る、そんな行動に出るだろう。
そして、ここでの行動もやはり二分される。
「一人をやめる」か「一人を続けるか」だ。

一人をやめて、誰かと時間を共有することによって、孤独(寂しさ)から解放されることもあるだろう。それはきっと楽しい時間なはずだ。
だが、そんな時間にも終わりはやってくる。一時的な楽しみでしかない。賑わいから孤独への帰還は、より寂しさを感じるだろう。
再び一人になると、やはりSNSに投稿してみる、知り合いにLINEをしてみるなどなど、寂しさを紛わせたいがための行動を起こす。
SNSやLINEでリアクションがあったとしてもそれは一時的なものでしかなく、その後、また一人になる。
結局、ここに戻ってくるのだ。その繰り返し。エンドレス。

こういう観点で見えてくるのが、結局のところ、「我々は、みな孤独である」ということだ。

わたしは、一人を続けることが多いタイプだ。
本を読む、映画を観る、散歩をする、音楽を聴く、ラジオを聴く。
寂しいようでいて、案外心地好いものである。

さらに、寂しさを感じたときには、何かを創造したくなってくる。
そういうときに、書くことやモノを作ったりすると、まずまず納得のいく時間を構築できる。
冷めた言い方をすると、物理的な関係にはできることが限られているということだ。
案外、満たされないことも多かったりする。

しかし、それでもわたしはこうしてnoteに投稿しているわけで、つまり、ここには、わたしを見て欲しいという欲求がある。
それはおそらく寂しさからくるものだ。
話していることがやや矛盾しているようにも感じられるが、この寂しさが孤独の「やっかい」な側面だ。
みなが、両側面を持っている。
そのボリュームは人よって違うが、わたしの場合、寂しさの心地好さは7割、やっかいさが3割という具合だ。
だから、こうして書いているときは、3割の状況のときだ。
でも面白いのは、やっかいなのに、書いていると孤独を感じないという点だ。
これはなかなか興味深い。
寂しいから書いているのに、書いていると寂しくない。
書き終わると、心が落ち着くのだから不思議だ。

小説「我々は、みな孤独である」は、現在100頁ほど読み進めているが、今のところ孤独の要素はあまり感じられない。ハードボイルド系、探偵ものという印象で、純粋に面白く読み進めている。
この小説のタイトルの意味を、これからどこかで感じるであろうことが楽しみだ。
楽しみの狭間で、寂しさを感じることもあるだろう。
そんなとき、わたしはまたnoteを書くことになると思う。

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