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健康観についての批評

はじめに

最近、健康心理学の本を読みました。そこで、健康観について思うことがあったので、今回は社会における”健康観”について批評したいと思います。薬物を研究対象とする身として、健康は深く考えなければならないテーマでもあると思います。

健康観の形成

健康心理学は健康観の形成に強く影響を及ぼしていると考えられます。そもそも、健康心理学の定義とは『心理学が蓄積してきた知識に基づいて、可能な限り病気にならずに心身ともに健康であり続けるための応用領域』になります。
その役割は下記になります。
①健康を増進し維持すること
②疾病を予防し治療すること
③疾病の原因を研究すること
④ヘルスケアシステムと健康政策を改善すること

健康にリスクをもたらす行動を望ましい方向に変化させたいという社会のニーズから健康心理学は発展してきましたが、これが健康を望ましいとする思想の再生産になっていることは否定できないと思います。「神のような大いなる力に自身を導いてもらいたい」という思想が多くの宗教の基盤にあると思いますし、それに同意する人が多いからこそ信者が増えていくのだと思いますが、「神に導いてもらいたい」という思想に囲まれて育った人はその思想を内面化し、「神に導いてもらいたい」という思想を抱くようになるでしょう。それと同じように健康を優勢の概念として信じる人が多い環境で育った場合、健康になりたがるように育つのは当然です。これは「健康はいいものでは決してない、不健康が良い」「宗教なんて馬鹿げてる」という意味ではなく、ただそのような傾向にあると述べたいだけです。

健康観における多様性

健康に生きたいという人が多数派なのに対して、不健康に積極的になりたいとまではいかなくても不健康な生活に不満を抱いていない人がいるのも確かです。そのような人たちは退廃美を好む人と同じ系列のように思えますが、そのような良さを内に見出すか外に見出すかで全く異なるようにも思います。また、不健康と言うと、健康を崩した状態、対比して悪いと思われる状態を不健康だと想像しますが、健康を志向しない人たちはそもそも不健康をそのように捉えていないかもしれません。退廃美を好む人も同様です。崩れていく様子にエクスタシーを感じるのか、それとも崩れた状態だからこそまとう独特の雰囲気に惹かれるのか。安易にステレオタイプに当てはめなければ、その解釈は多様です。

健康の正当化事由

禁煙の奨励のような健康を促す活動は政府が主導するものでもありますが、そのような活動は資本主義に則って国家を運営する政府にとって非常に重要なものです。なぜなら、人間は資本の源泉だからです。資本は関係の蓄積です。その蓄積の仕方によって資本は様々な価値を持つようになります。人間の価値付けなくして資本は資本足り得ません。

このことからわかるように、政府が行う健康活動は健康そのものの価値からなされるものではなく、ただ政府というその立場上、推進されるものでしかないということです。ただし、健康活動を推進する現場に従事する人が、その立場上の必要性以外に、思いやりのような形で活動を行うことがあることは否定しません。ですがそれは健康それ自体に価値があるという証明ではなく、健康が正しいと考える思想が深く定着した結果でもあります。

結語

「資本主義は多様性を生み出す」と確かドゥルーズが述べていましたが、資本主義はその都合上、生きて労働することを重視するため、価値観が健康第一に一極化しやく、そこに資本主義の限界が指摘されます。身体機能は生物のシステムに基づき、多様に再設計されるため、各人において身体機能は微妙に異なります。つまり各人における心の良い状態も異なります。心(精神)は環境(身体機能も含めたもの)に依拠して育まれるからです。

そうした多様な健康観が存在するはずですが、私たちは多数派の健康観に同調することを強いられます。健康観において多様性が認められず、一部の人間が肩身の狭い思いをしている、そのような社会になっていると思います。

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