パパ、一歳になる

つい先日、娘が一歳になった。同時にパパも一歳になった。

パパという役割を一年間行ってきた感想を少しばかり書いてみようと思う。

「パパ」というのは、生物学的に親を示す場合と、子供の面倒を見る「親」という役割としての「パパ」という意味が存在する。

生物学的な親であるというのは娘の眉毛などのパーツにありありと見ることができる。そのような存在がいることは単純に間隔として不思議だ。

役割としての「パパ」

役割としての「パパ」と書くと、お前は親というものを「役割」として見ているのか!こどもをなんだと思っているのか!などお叱りを受けるかもしれない。

しかし、「親」というのは、役割の一つとしてとらえられると思う。ただし、放棄することが極めて難しい役割である。

といいつつも、自分が「パパ」という役割をこの一年間きちんとできたかは分からない。もう一人の「親」の役割を担っている妻にだいぶ負担をかけたかもしれない。感謝したい。

ところで、子どもは、食べるのも、飲むのも、排泄も最初は一人ではできない。その意味で、「親」としての役割は非常に重要である。親が手を施さなければ、子どもは生きていけないのだ。

一方で、この一年間思ったことは、子どもは思った以上に勝手に育つ、ということである。最初、寝返りもできなかった娘は、親が何もしないのに勝手に体を動かすことを学び、寝返りもできるようになった。

ずりばいも、ハイハイも、つかまり立ちも、親は特に何も教えていない。ほとんど自動的に子どもは勝手にその行動を獲得した。

その間、親はその獲得の邪魔をしないことはできても、教えたりすることは不可能であった。

最近になり、マネをしはじめたことで多少、親の意図したとおりの行動をしてもらうことができる場合もでてきたが、基本的にはアンコントローラブルである。

本当に、自動的に学習していく。娘の様子見ると、手を動かしてみたりして世の中の仕組みを学習していく様子が見て取れる。そこに何かしら知性を感じた。

生まれてからしばらくは、体がうまく使えない、言語が良く分からない、目も良く見えない、というだけで、その世界に適用するために学習する知性がそこにはあった。

「子どもだから」という言葉を発するときに、「知性がないから」という意味が暗に込められている場合があるように思う。だが、子どもは、まだこの世界の学習が十分ではないが「知性がない」というのは大間違いだと思う。

これから、娘は一年で言語を発声するようになるらしい。コンピュータでAIを学習させている身からすると、この子どもの圧倒的な学習がいかにすごいのかよくわかる。

確かに、「子ども」は親がいないと生きていけないこともあるかもしれない。しかし、一方で「知性」がないわけではなく、学習するということに対してのプロフェッショナルであり、親はそれを邪魔しないようにしかできないのではないか、と一年「パパ」をやって思った。

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