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高遠弘美『楽しみと日々──壺中天書架記』の余白に

プルースト『失われた時を求めて』個人全訳刊行中の仏文学者にして、稀代の随筆家でもある、高遠弘美先生の集大成『楽しみと日々──壺中天書架記』が刊行されました。

この880頁の大著の装訂をお引き受けくださったのは、ヒロイヨミ社を主宰するブックデザイナー・山元伸子さん。今回の装訂はどのように生まれたのか、そして、いったいわたしたちはなぜ「本」を必要とするのか……。装訂、書物、読書をめぐるエッセイをご寄稿いただきました。

装訂ができるまで

山元伸子

 4月のある日、編集者のAさんから、「装訂のご相談」というメールが届いた。

 その内容よりも、まず、「装訂」という語が、気になった。「装幀」でも「装丁」でも「装釘」でもなく、「装訂」。依頼されたことを引きうけるのに迷いはなかったが、返信にその言葉を使うかどうかですこしなやんで、結局、このように返した。「装幀、よろこんでお引き受けします」。知らない言葉に、ひるんでしまった。
 後日、打ち合わせのときに、どうして「装訂」なのか、教えてもらった。

 家の本棚で、最近出版された本のクレジットを調べてみたところ、今、もっとも広く使われているのは、「装幀」のようだったが、だからといって、それが正しいとはかぎらない。実際、「装訂」をもとの用字としている辞書もある。
 書物に対する著者の想いが、この言葉の用い方にも表れていて、その想いに触れられたことは、この本の装訂を考えるうえで、大きな助けになった。

 本の装訂を依頼されると、何か四角いかたまりのようなものが、あたまに棲みつくことになる。その「もの」は、輪郭がはっきりしない。色もない。感触もわからない。とてもあいまいな、フラジャイルな存在だ。まだ生まれていない、これから生まれようとしている、生命のようなものともいえる。内側にみなぎっているものは、言葉だ。呼吸をととのえ、ゆっくりと、そのかたまりの内部を手さぐりして、かたちにしていく。

 校正刷りを読み進めて、まず、「文学的魂」という言葉が目にとまり、手帳に書き留めた。この本で、なみなみならぬ敬愛の情をもって論じられ、描き出されている作家たちや書物たちが、憩うことのできる空間をつくることができれば、と思った。そしてこの本は、長い時間をかけて書かれた文学的エッセイであり、文学的自叙伝でもあるのだから、長い時間をかけて読まれてほしい、それにふさわしいかたちにしたい、とも考えた。

 この書物をひもとく人は、どういう人なのだろう。想像してみた。その人は、きっと、文学を、読書を、切実に必要としている人だろう。読むことなしには、生きていくことに、困難を感じる人かもしれない。だから、読書の妨げになることは、できるだけ、したくなかった。

 長く読まれ、したしまれるべき本には、目を奪うような強い色彩やタイポグラフィは、必要ないと思う。本に向かうこころの静けさが失われてしまう。言葉と読み手のあいだに立ちはだからないこと。書物と読者の、ひそやかなやりとりのじゃまをしないこと。本のページは、深い読み手がいてはじめて完成する、というような詩を、どこかで読んだことがある。

 装画は、1896年に刊行されたプルーストの『楽しみと日々』の初版本に載っているマドレーヌ・ルメールの挿絵から、というのは著者の希望で、貴重な本をお借りして、緊張とよろこびにふるえながら、ページをめくり、絵をさがした。

 「画家と音楽家の肖像」の章の扉を見たとき、息をのんだ。時を止められたような、不思議な感覚だった。繊細でのびやかなクローバーの絵と、揃えるのではなく、流れるように置かれた文字が、少し褪せた紙の上でみごとに調和していて、いつまでも見ていたい、と思った。放心したまま、いつまでも、ただここにいられたらと。それはほんとうにうつくしいページだったのだ。

 その扉の絵を、カバーのおもてに配置して、レイアウトの微調整をくりかえし、あの感覚がすこしでも再現できないか、こころみた。そして、文字と文字のあいだに、風が通るようにした。文字の息が、くるしくないように、と。

 「我々が本を読むのはどうもかうして息を整へる為にであるといふ気がする。」(吉田健一「本を読む為に」)

 息を整え、深い呼吸をして、からだのなかに、言葉を響かせること。それこそが、読書の本質ではないかと思う。そのためには、どうしても、余白が必要なのだ。紙上の余白が、精神的な余白に、影響しないわけがない。

 表紙の仏語タイトルは、これも初版の『楽しみと日々』から、表紙のタイポグラフィを参考にして組んでみた。「日々」よりも「楽しみ」のほうに大きい活字が使われていて、そのたくらみのある組み方にも惹かれた。

 カバーの紙の名前は「ロベール」、表紙は「OKミューズコットン」。どちらも、やわらかな風合いの紙である。「本には本の手触りと姿があること」というのは、著者が吉田健一から教わったことのひとつだという。この言葉も、装訂を考えるなかでたびたびあたまをよぎった。
 どうしても本が読めないときには、触れたり撫でたりするだけで、こころをしずめることができたらいい。紙のやわらかさとやさしさが、きっと指先から、伝わり、うつってくるだろう。
 
 装訂の仕事が終われば、あたまに棲みついていた本は消えている。できあがった本を眺めて、こういう顔で、こういう肌で、こういうからだをしていたのか、と思う。装訂が、どこからどこまで自分の意図でできたのか、わからない。何か、しぜんな流れによって、あるいは、目に見えない力がはたらいて、つくられた気がする。
 
 ひとりの読者として、書物と読書にあこがれる者として、いつまでも眺めたり触れたり、くりかえし開いたりして、長い時間をともに過ごすだろう、そんな本の制作にたずさわることができて、こころから、うれしい。

© 水中書店
https://twitter.com/suichu_shoten/status/1804295332626600308


執筆者プロフィール

山元伸子(やまもと・のぶこ)
1972年、富山県うまれ。早稲田大学第一文学部卒業後、書評紙の編集者を経て、ブックデザインなど。ヒロイヨミ社、ananas pressとして本をつくる。



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