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Days on the trapline

 

2月頭の北緯60°。

厳冬のユーコンでは全てが凍りつく。

この時期は、銃猟には適していない。

猟師は皆、最上級の冬毛を纏った動物たちを

罠で捕える。

 

罠猟には、トラップラインと呼ばれるルートが必要だ。

ルート上にいくつもの罠を仕掛け、

それをスノーモービルなどで見回る。

トラップラインはそれぞれの猟師に付与されていて、

他人のそれに罠を仕掛けることは許されない。

 

キースもいくつかのトラップラインを持っていて、

一番近いものは、家の裏庭に直結している。

そこには、色々な動物に合わせた

大きさも種類も違う罠が仕掛けられている。

悲しみの時にあっても、一旦罠を仕掛けたからには

見回りを欠かすことはできない。

それが、命と対峙する猟師の責任だ。

息子の訃報により多忙を極め、

失意のどん底の中で葛藤しているキースだが、

そろそろトラップラインのチェックに

出かけなくてはならないのも確かだ。

そしてそのように、

否応無しに日常生活に戻らざるを得ないことが、

キースの心がいつもの呼吸を取り戻すのに

必要なことなのかもしれない。

 

前の晩、キースの奥さんのドナが、そっと私に言った。

「キースの心は深く傷つき、疲れ切っている。

今彼には、誰にも気兼ねなく過ごす時間が必要なの。

だから心置きなく、二人で山に入ってほしい。

きっとミキオはそのために、

何かに呼ばれてここに来ているのよ」

 

 

 

朝、私より随分遅れて起きてきたキースが、身支度を始めた。

私も慌てて厚手のジャケットを着込み、

ドナから差し出された極寒仕様のブーツを履く。

 

さあ行くぞ、と目の動きだけで合図するキース。

表情には力強さが戻っている。

ドアを開け、−20℃の空気を胸いっぱいに吸い込むと、

キースは大股で歩き出した。

何度も見てきた後ろ姿。

ずっとこの大きな背中を、追いかけてきた。

今日もまた、同じだ。

そっと喜びを噛み締めた。

 

 

 

大きな新型のスノーモービルのエンジンをかけ、

荷物を積み込んでいく。

納屋の後ろにはもう一台、

古いスノーモービルが停めてある。

セルモーターはなく、

リコイルスターターのコードを思い切り引いて始動させる。

パキスタン製の古いヤマハ。

ツーストロークのエンジンが白煙をもうもうと吐き出す。



 

「コイツは操作が単純で重量も軽い。

スノーモービルの扱いを覚えるのには一番だ。

だからミキオが運転してみろ」

 

アクセルは親指で押すタイプであること。

バックギアはなく、カーブを曲がりきれなかったら、

前半分を持ち上げて力ずくで方向転換すること。

解説はそのくらいだった。

すぐに出発。

あとは体で覚える。

これまでも、いつもそうだった。

ぐねぐねと折れ曲がったトレイルを、必死に進む。

 

跨っている姿勢はオートバイに似ているが、

カーブの時に内側に車体を倒せないのが大きく違う。

重心を傾けることで自然に曲がっていくことができず、

ハンドルを切る腕の力だけが頼りだ。

路面の凹凸もかなりなものだ。

スピードを出しすぎると窪みに突っ込むし、

アクセルをふかし損ねると突起を越えられない。

あっという間に姿が見えなくなったキースを、

真新しい轍を頼りに追いかける。

 

ふと、HiとLoというスイッチがあるのに気付いた。

スピードが出せる平坦な場所ではHiに、

トルクが必要な凸凹をゆっくり進む時はLoに切り替える。

ようやく調子が出てきたところで、

分岐で待っていてくれたキースに追いついた。

ギアを切り替えながら進んできたことを報告すると、

「そのスイッチは、

ライトのハイビームとロービームの切り替えだぞ」

と笑われた。

 

 

 

罠が仕掛けられているところには

近くの枝などに蛍光色のテープが

目印に貼られている。

クズリ、イタチ、オオヤマネコ、コヨーテ。

獲物によって、罠の種類も違えば大きさも違う。

日本では使えない、トラバサミやおし罠も

ユーコンでは頻繁に利用されている。


 

キースの罠猟講座が始まる。

 

ビーバーが川を堰き止めて作ったダムは、

オオヤマネコが川を渡る時の獣道となるため、

首が引っかかる高さにくくり罠が仕掛ける。

輪の直径は、親指から小指を広げたくらい。

高さも同様にして地面から測る。

 

以前にオオカミの足跡が見られた場所には、

オオカミ用の罠も仕掛けられていた。

頭がちょうど入るように直径は40センチほど。

高さは膝くらい。

コヨーテは、それより一回り小さく、少し低く。

 

オオカミやコヨーテは、

罠のワイヤーロープを噛み切ってしまうため、

径の大きい頑丈なものを使う。

買ったばかりのワイヤーロープは

機械油の臭いがするのですぐに見破られてしまう。

だから新品は鍋でよく煮る。

そのままワイヤーを引き上げると、

水面に浮かんだ油がまた付着してしまう為、

まずは上澄みをこぼしてから

慎重に引き上げる必要がある。

罠を仕掛ける時も、

スノーモービルを運転してきた手袋には

これまた機械油の臭いがついてしまっている為、

手袋を付け替える必要がある。

 

そこまで注意を徹底しても、

最も賢いオオカミを捕獲するのは至難の業だ。

キースをもってしても、

今まで1頭しか獲ったことがないという。

その賢さを物語る出来事について、キースが教えてくれた。

 

遠い山奥のトラップラインに、入念に仕掛けた罠。

翌日見にいくと、罠には小便がかけられていたという。

失意のまま帰宅すると、

庭先には、その罠に仕掛けておいた肉が捨てられていた。

オオカミはエサを食べず、

自分を捕まえようとした猟師の家を鋭い嗅覚で探し当て、

罠から何キロも離れた庭先まで肉を運んだというわけだ。

「お前のやっていることなど全てお見通しだ」

と、オオカミの声が聞こえた気がしたという。

 

恐るべき聡明さ。

ユーモアさえ感じられるではないか。

そんな動物が、この森に、確かに存在している。

たとえ罠に掛からなくても、

姿を見せてくれなくても、

同じ森を歩いているだけで

至福の心持ちにさせてくれる。

 

 

 

森を抜けると、大きな湖が広がる。

キースが一気にスピードを上げる。

置いていかれないように

私もアクセルのレバーを握り込んだ。

ただでさえ−20℃の大気が

強風となって襲いかかってくる。

体感温度は、一体何℃なのだろうか。

目を大きく開けていることなど到底できず、

ギリギリ状況が把握できる程度に細める。

涙が溢れてくるが、すぐに凍ってしまい、

上下のまつ毛が癒着してしまう。

眼球自体が冷えてきて、頭の芯が痛くなる。

アイスクリームを急いで食べた時に感じる、

あの痛みと同じだ。

 

湖の縁をしばらく走ったところでキースが止まった。

そばにはこんもりとした雪山がある。

直径5メートル、高さは1.5メートルほどか。

最近見つけた、ビーバーの巣だ。

本当はここに、一緒に罠を仕掛けるつもりだったという。

しかし、アーロンのことがあってその時間は取れない。

だから、今回は見るだけだ。

 

雪山を注意深く見ていたキースが、

てっぺんから少し下の部分の雪を手で掬った。

そこには穴が空いていて、中には霜が成長していた。

ビーバーの呼気が通う穴だという。

 

「この下に、まさに今、ビーバーがいる。

 息を潜め、我々の声をじっと聞いている」

 

この極寒の地で、水の中を泳いで暮らす。

食べるものは木の枝だけ。

なぜ彼らの命の炎は燃え続けていられるのだろう。

動物の持つ奇跡のような力に、胸が熱くなる。

 

ビーバーの唇は二重になっていて、

水中でも口に水が入らないままに枝を齧ることができるそうだ。

冬が来る前に巣の周りに貯めておいた木は

徐々に樹皮が傷んで酸っぱくなってしまうため、

巣のそばの氷に穴をあけ、新鮮なポプラを仕掛けると

すぐに食べに来るという。

実際に罠を仕掛けるときには、

もっともっと、いろいろなことを教えてくれるはずだ。

いつかまた、その時が訪れるに違いない。

 

これからしばらくは、

キース自身がトラップラインを毎日見回ることはできない。

くくり罠やトラバサミは、

獲物が脚を取られたまま放置となる可能性がある為

回収しながら来た道を戻った。

 

 

 

夕方、キースがトーテムポールを彫るワークショップを訪ねる。

そこでは、数週間前に獲ったコヨーテが解凍されていた。

せめて皮剥ぎだけでも私に体験させてあげたいと、

キースが準備してくれていたのだ。

有難く、教えを乞うことにした。

 

コヨーテの毛皮はとても温かく、

伝統的なパーカーのフードの縁取りなどに使われる。

「いい毛皮には時間をかけろ」

とキースは言う。

オオカミの毛皮を、爪まで残して綺麗に剥いだときには

5時間をかけたそうだ。

 

使用した器具や、手順の全てについては

とてもここに書ききれるものではないが、

簡単に説明してみよう。

 

まずは、専用の台にコヨーテを吊るし、

後脚の方から上半身に向かって

筒状に毛皮を剥いでゆく。

靴下を脱がせるようなイメージだ。

顔については、耳や鼻は全て綺麗に残すが

下顎の皮は切り取る。

続いて毛皮を裏返し、先端を丸めた丸太のような治具に固定、

専用の道具で皮の内側に残った脂肪や肉をこそぎ取ってゆく。

肉を残してはならないが、毛皮を破くことも許されない。

丁寧に時間をかけろ、というキースの言葉の意味を理解した。

 

皮の内側は綺麗になったら

ストレッチボードという板に毛皮をかけて伸ばし、

ピン留めする。

ここまでの作業は2時間ほどだったろうか。

これで、この日の作業は一旦終了だ。

毛が内側の状態で一晩乾かし、

翌日には裏返して毛を表にする。

そこからは何日もかけて、ゆっくりと乾燥させてゆく。

きっと、極上の毛皮になってくれるだろう。

 

 

 

その後、私の滞在中に

キースがトラップラインを見回ることはなかった。

なので、朝一番の日課として、

私が一人で見回ることとした。

皆が寝ている時間だということもあり、

スノーモービルのエンジンをかけるのは憚られるので

歩くことにした。

 

朝ぼらけの森の中を

目を凝らしながらゆっくりと進む。

スノーモービルで飛ばしている時には

見えていなかったものが見え、

聞こえなかったものが聞こえてくる。

 

カラ類の活発な囀り。

小さな体で長い夜を乗り切り

朝を迎える度に、

新たにこの世に生まれたかのような喜びを

噛み締めているように聞こえる。

 

スノーモービルの轍を

上から踏んでいるヘラジカ足跡。

メスなら子供を連れているはずなので、

これは単独のオス。

蹄のサイズ、歩幅の広さから見て、

相当に大きい個体だ。

昨日、我々がスノーモービルで帰宅した後、

きっと夜の間に林道を横切ったのだ。

木立の中からのそりと現れ、

機械の臭いにブルっと鼻を震わせ、

左右の耳を色々な方向に傾けて安全を確かめた後に

力強く雪を踏み締めて歩く姿が目に浮かぶ。

 

 

 

家を出て1時間半。

罠には何もかかっていない。

 

一番奥の折り返し地点である、

湖のほとりのビーバーの巣まで来た。

ビーバーの呼吸によって出来るという霜は

昨日より少しだけ成長しているように見えた。

 

湖の対岸には、長大な山塊が聳え立っている。

折しも、東側の斜面は朝焼けに染まり始め、

西側の斜面には月が落ちようとしている。

今、ここから見えている広がりの中には、

ビーバーの息吹が、ヘラジカの足音が、

オオカミの気高さが、溶け込んでいるのだ。

 

何かが体の中から突き上げてきて、

思い切り息を吸い込み

甲高い声で遠吠えをした。

 

湖は広く、山は遠いにもかかわらず、

何度もこだまが繰り返された。

無論、オオカミが答えてくれるはずがないことは

分かっている。

それでも良かった。

それでも止められなかった。

 

鳴き返してはくれないが、

私の声はきっと彼らに届いているはずだ。

いや、届いていなくても構わない。

私は何度も吠えた。

理由などなかった。

きっとオオカミが遠吠えしている時も

明確な理由などない気がした。

自分の力を遥かに超えた何かが

轟々と溢れ出してくる。

すると、無性に吠えたくなる。

きっと、ただそれだけなのだ。

 

月は完全に落ち、

最後のこだまが山に吸い込まれてゆく。

 

私はとても満たされた気分で帰途についた。

 

 

 

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