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食がアイデンティティを決める。| 葱抓餅

 日本にいるときの私と中国にいるときの私は少し違うように感じる。家族や地元の小中の同級生と話すとき、頑張っている自分がいる。どうにかこうにか日本にいたころの自分を思い出し、彼らの眼に「変なやつ」「かぶれたやつ」と映らないように頑張っている。いったい何が違うのだろう?中国語を話す私と日本語を話す私、二人は同じだろうか?
 以前、異文化に長く触れた多くの人が、現地化していく過程で、大なり小なりアイデンティティクライシスに陥るという話を聞いた。現地に慣れたのち、基本的に日本語しか使わない日本に戻った時、元いた環境や周囲の人たちの「共通の文化、生活様式を持つ」という前提条件があまりにも強く感じてしまうのだ。
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 昨年の9月から中国天津で留学している。コロナの影響で今は日本でオンライン授業を受けているが、まだ天津にいたころ、日本で中国語を教えていた中国人の知り合いに「この間駐在で来ている日本人を案内したんだけど、日本人って海外にいても日本食食べるのね、日本食が食べたいって言われて日料(中国語で「日本料理」はこう略される)に連れてったわ」と言われた。
 私は「その気持ち分からなくはない。数日だったら現地のグルメを堪能したいと思うが、長期滞在となればみんな自分の故郷の料理がどこで食べれるか詳しくなる」と答えた。
 食文化が南北で異なるイタリアでは、北部のサッカーチームが南部に遠征するときも、わざわざ北部のシェフを同行させるらしいし、そう言ってきた知り合いだって、きっと日本にいれば他の海外に住む中国人と同じように普通のスーパーとは別に、どこに物産店があって、調味料や食材が買えるか詳しくなるはずだ。
 国境を跨がずとも、家を出て、故郷を離れれば多くの人が多少高くとも食べなれた調味料や食材を売っているところを見つけ、母親にレシピを聞いたりして、昔食べた味を再現する。
私も普段中国でほとんど中国人学生と同じものを食べているが、それでも日本人だから日本食食べに行こうと誘ったり、誘われたり。自分で料理すると気づかずに日本風に味付けしてしまう時があった。

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「中国人にはなれない。やっぱり日本人。けど普通の日本人でももうないな。。。」
漠然ともやもやした中、実家で日中はひとり中国の暦で生活する日々を過ごしてきた。窓の外は自粛から一転Gotoに切り替わろうとしている。

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そして最近、中国にいたころとは逆のことが起きている。無性に中国料理が食べたくなるのだ。クックドゥー的中華料理ではなく、「中国料理」。家族は誰も食べないのを承知しながらも輸入食品店で老干妈という中国では一家に一台といわれる調味料と、そして業務スーパーで売っていた葱抓饼なるものを買ってきて(おそらく葱油饼、手抓饼の名前を掛け合わせた商品名)朝ごはんや昼に食べている。

私はこう考えることにした。
国でもなく言語でもなく、食がアイデンティティを決める。
中国料理はおいしい、日本料理はやっぱりおいしい。他の料理ももっと食べてみたい。
おなかの中がこうなら、きっと私の中身はつまりこういうこと。

「あれ、これは日本ならどうするんだろう、日本人だったらこんな風に言わない?」

考えてみれば、これは周囲の人間や社会システムに変化が起きれば、当然起きること。
海外にいる時の私も私、今の私も私。
前の自分に戻る必要はない。また新たにここに適応すればいい。
人は引き算ではなく、足し算。

葱抓饼を食べながらそんなことを思って、過ごした一日。


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