〈相関社会科学〉という呪縛・考
〈相関社会科学〉とは何か、進学選択でこのコースを選んで以来、幾度となく考えさせられている。「社会科学」とはいかなる方法なのか、「相関」とは何を意味するのか。
先生方も口を揃えて言う。〈相関社会科学〉とは何か。院生の方々と話していても、同期と話していても、ついこの話になってしまう。同じ分科の国際関係論は明快で、(色々と怒られそうな話だが)「国際」の二文字が付けばこのコースで扱う対象となる。であれば、我々の所属するこのコースは何なのか、本郷の諸学との違いは、この学で何ができるのだろうか。我々はこのコースで何を学び、何を観察できるようになっていくのだろうか。
本稿はそうした葛藤を諦念に代えて、区切りをつけようとするものである。
「学際」の魔力と教養学部
〈相関社会科学〉の正式な英訳は、Interdisciplinary Social Sciencesであり、駒場の学問の例に漏れず、その学際性が一つの看板となっている。
駒場の学問の掲げる〈越境する知性〉は、「深い教養をベースに従来の枠組みや領域を超えて、新しい分野を開拓する気概」なのだという。本郷の諸学部の多くは戦前に設立され、日本における近代国家の発展に貢献してきた。しかし、学部・講座といった制度のなかで本郷の諸学は「閉じた学問」となってしまった。駒場の教養学部はそこに異を唱え、異分野・異文化に「開かれた学問」であることによって、新たな分野を切り開こうとするのである。
東京大学の後期課程に教養学科が創立されたのは1951年、その2年前に創設された教養学部の初代学部長を務めた矢内原忠雄が教養学部の生命と語った「眞理探究の精神」を後期課程の専門教育でも実践するために設立された。
それから20年程が経過して、1977年に教養学科は教養学科第一、教養学科第二、教養学科第三の三学科に改組される。
60年代、学生運動がごく一部の暴力化によって失敗に終わり、プラハの春の弾圧で再び冷たい時代が到来したと思われた。しかし、70年代に入り、二度の石油危機や環境問題、東欧変革など漠然とした社会変動によって遂に世界が大きく揺さぶられようとするなかで、「学際」という言葉はそうした変動を捉えようとする一つの可能性として挙げられるようになった。
例えば、1978年に教養学科第一の分科として発足した超域文化科学分科の表象文化論コースの紹介をみると、次の様に書かれている。
現代を社会の大きな変動期と位置付けてその解明を「学際」によって試みようとする態度は、21世紀に入っても変わらずあり続けている。2011年の改組で教養学科と統合自然科学科と並んで設置された学際科学科全体の紹介文はこうだ。
国立大学法人東京大学に巨額の資金を割り当ててくださっている文部科学省も、例えば2015年に「課題解決のため」に学際研究が必要であるとして、次のような見解を示している。
以上の様に、「学際」という言葉は、拡散する現代社会を理解する試みにおけるキーワードとして、人々を吸い寄せてきた。また行政の手にかかれば、戦後の政策の責任を産学に擦り付けんとする「イノベーション」や「産学官連携」とセットで使われる魔法の言葉と化してしまう。
しかし、19世紀に近代社会を解明する学として登場した社会学は、その目的からして同時代をある種の「拡散する現代社会」として捉えており、原初より学際性がどこかにあり続けた。少なくとも、人文学と自然科学の際の領域に社会科学があるという描き方は、政治学や経済学から検討を始めても妥当しうる。社会科学において「学際」が無かったと言うのは、文部科学省が「我が国では、伝統的な学問分野の体系に即した研究が多く行われて」と指摘するように本郷の諸学部がまともに社会科学をやってこなかったことを看破しているのか、もしくはただ本当に失礼なやつなだけである。敢えて後者を擁護するとすれば、うえに見てきたような社会環境の変化が加速しているという認識のなかで、社会的要請によって「学際」を殊更に強調する部門の設置が求められ、それが駒場の精神に合致していたのであろうか。
話は戻って、相関社会科学コースは1978年に教養学科第三の分科として発足した。一期生であった平山朝治によれば、1970年代は教養学科で社会科学の学融合的研究が発展しはじめた時期であり、村上泰亮や西部邁が構造主義的な記号論を用いるなどして、諸社会科学に共通する基礎論を打ち立てようとしていた。しかし、1988年、いわゆる東大駒場騒動(ポスト構造主義系統の人材採用をめぐる騒動)を機にこうした「改革派」は辞職に追い込まれる。ちなみに、このなかには後に政治家に転身し都知事となった舛添要一もいた。かくして相関社会科学の黎明期は、一旦区切りを迎えることとなった。そして1990年代、〈相関社会科学〉は改めて自己定義をする機会を与えられる。
ここで改めて、〈相関社会科学〉という名称を考えたい。その名称は、時間を超えて現在の学生にも社会科学で〈相関〉することを暗に要求している。結局、〈相関〉の精神とは何であろうか。なぜ「学際社会科学」にならなかったのか。そして、その〈相関〉の精神はいま、どのように変容しているのか。その答えを探るために、第二の黎明期における〈相関社会科学〉に目を向けてみよう。
第二の黎明期における〈相関社会科学〉
1990年、紀要『相関社会科学』が初めて世に送り出された。冒頭の「創刊にあたって」では、編集委員代表の長尾龍一が〈相関社会科学〉の理念を「現在決定的なことを語りうる段階ではない」としたうえで、次に挙げる5つの理解が「その推進者たちの間で共有されているではないか」と書いている。
2) と 3) では社会認識の分化とその克服が並べられており、後者を「偉大な社会科学の先達」の試みとして称揚するとともに、〈相関社会科学〉をその継承として位置付ける。これは先に触れた通りである。
そして、4) では20世紀末を「拡散する社会」と捉えることで、「学際」の重要性を強調している。さらに 5) で、〈相関〉が「諸学の相関」を意味すると明らかにしている。
「諸学の相関」とは具体的に何を意味するのだろうか。紀要『相関社会科学』の第2号・第3号合併号(1992)の長尾龍一「相関社会科学の現状と展望」を読むと、次のように書いてあった。
万物は相関する。しかし人間は個物を認識するのがやっとであるから、到底全体の把握などできやしない。それでも〈相関社会科学〉は、そうした〈相関〉に目を向けることで、個物の認識を超えた認識に手を伸ばそうとする。
ここにきて〈相関〉の意味がはっきりとしてきた。ある研究の蓄積に基づいて、ある方法を用いて観察されるものは、部分の認識にすぎない。しかし、別の研究の蓄積に基づいて、別の方法を用いて観察されるものとのつながりを見ることで、つまり相関をみることで、全体の認識につなげることができる、というものである。
その具体的な方法として、後段には実際その構想が次のように描かれている。
〈相関社会科学〉とは、二つのディシプリンを用いて一つの問題に取り組むことではない。そもそも、知の方法としてのディシプリンとは、そのように工学的に捉えきれるものではない。〈相関社会科学〉は、単一の確固たるディシプリンを持ちながら、既存の諸分野に開かれることを重視する。既存の「〇〇学」における閉じる力として、学部における講座(法学部の「憲法」「政治学」の様な)を基にした概説的講義が毎年担当者によって繰り返され、「標準的教科書」が執筆されることがある。しかし、こうした「井戸掘り的学問」では、タコ壺を脱することができない。学問とは壺の様に全体が見えているわけではなく、掘り続けても下がわからなければ、諸学の底を貫く「ササラ」に到達することはない。〈相関社会科学〉はそれ自体が新たな方法となる道を選んだのである。
それでも基本は「万事にアマチュアな人間」ではなく、「専門をもつ人間」である。「このようなことを一人でやる必要はもちろんない。知識や能力において補完関係にある研究者集団の共同体がここに成立する」(p.2)。外形的には様々な専門家が集合した「学際」であるが、〈相関社会科学〉では個人に対して「諸学の相関」が常に問われることになる。
一方で、2年後の紀要『相関社会科学』の第4号(1994)の序では、社会科学の研究史を振り返ったうえで、〈相関社会科学〉のより強い目的が導かれている。すなわち、社会経済学やゲーム理論の功績を踏まえたうえで、経済学者の杉浦克己は次のように宣言した。
学問の「イノヴェーション」は効率性や利便性に拠らない。人類不朽の問題——それはしばしば機能的には無意味な問いであるにしても——に絡むことが求められ、そこに至るためには差し当たり当面の問題に取り組んでみる必要性がある。つまり、
と。
〈相関社会科学〉という呪縛に向き合うこと
初期の〈相関社会科学〉から新たな方法を模索する試みは、現代思想の新たな潮流との融合という路線を絶つことで、〈相関社会科学〉を新たな方法とする試みとして再出発することとなった。
しかしここで採られた「社会科学コミュニティ」の創設という方法は、実は社会科学において使い古されたものであり、フランクフルト学派やエコノメトリック・ソサイエティといったいくつもの学派が多大な功績をもたらしてきた。しかし、おそらく〈相関社会科学〉はそれ以上の理論的支柱を持たなかったゆえに、「駒場学派」は未だ叶わぬ夢のままなのか。
さらに、学部や大学院の専門教育において、〈相関社会科学〉は大きな問題を抱えていた。これは第二の黎明期において既に懸案事項に挙げられており、「院生は、既存の領域で先人の道を継承し批判し新たな貢献を果たしつつ、同時に既存の領域を超えて新たな学問領域を創造していなければならないという二重の負担を強いられる」(杉浦克己、1994「相関社会科学の飛躍のために:序にかえて」『相関社会科学』第4号: 6-7)。
結果、「相関社会科学」という名前と、issue-oriented approachという枠組みだけが奇妙に残った。20世紀後半に登場した「比較政治学」や「ジェンダー論」といった新領域が人気を高めた。〈相関〉どころか、もはや「学際社会科学Interdisciplinary Social Sciences」も陰りをみせている。〈相関社会科学〉は再び、閉じてしまったのである。
「社会科学においてなぜ学際が必要か?」という問いは、マルクス、ヴェーバー、マンハイムに然り、常に重要であり続けた。社会科学が自らの属する「社会」というものを内部から観察しようと試みて、新たな意味や知識を生成し、社会に還流させる科学であるということは、社会科学はそれ自身の必然として、様々な意識や知識の関係、ないし相関を、説明しなければならない。
社会学者の佐藤俊樹によれば、ヴェーバーが社会科学の方法論を反省的な形式化に求めていったのも、「閉じる力」と「開く力」の二つの力との格闘のうちにあった。
少なくとも、1990年代におけるイノヴェーション(創発)を目的とした〈相関社会科学〉の方向性は頓挫した。30年が経過し、社会の様相は変化している。一方で、50年前、100年前の社会科学者の方法を用いることで、経済的なもの、政治的なもの、そして社会的なものに手を伸ばすことができる。〈相関社会科学〉は、もう一度〈相関社会科学〉を自己定義しなおすべき時がきているように思える。
もう一つ、学部で教養学科にいる利点は確かにあった。教養における自由とは、自分が何でもできるという自由ではなく、自分を解放すること、自分が何でもできるようにすることにある。背景の異なる他者と語らい、共に学ぶことが活発に行われる。他学部に無いとは言わないが、ここでは意識的に取り組まざるを得なくなる。そうした場で、教養学科で20代の始まりを過ごせていることを、誇りに思いたい。
〈相関社会科学〉は社会科学の野望から生じた。社会的なものを捉えたいと考えながら、社会科学を、社会学を学んでいると、〈相関社会科学〉はますます魅力的にみえてくる。もしあなたが相関社会科学コースに所属していなくても、自分で〈相関社会科学〉をしてみればよい。それが何であるのか、自分が何をしているのかを反省的に問いながら。そのために、今日も学ぶのである。
あとがき
テーマ画像は、30年前の相関社会科学分科生による分科誌、もとい同人誌。駒場図書館地下二階の集密書庫に眠っており、中には手書きでびっしりと、当時の学生が思いの丈を語っていた。
現在の相関社会科学コースは、悲しきかな、かつての炎は風前の灯である。院生は悲しい顔で指導に期待するなと言い放ち、UT-BASEには期待外れと書かれ、公式サイトから「相関社会学」という誤表記が消えることなく、立ち上げ人の舛添要一にすら「相関社会学」と誤解を受けている。今日も国際関係論コースの大群に怯えながら、部屋の隅で蹲っている。自分が何をやっているのかわからない。問われても説明できない。選ぶことのできるアイデンティティなるものも無い。ただ、不安と失望が蔓延っている。
本稿は、相関社会科学コースの同期や国際関係論コースの友人との会話を基にしている。なぜ不安を感じているのか、我々に未来はあるのか、そもそも我々は今、何をしているのか、等々。今学期、ようやく社会学に手を付け始めたおかげで、少しずつではあるがこのあたりがおぼろげにも見えるようになってきた。思いや考えをぶつけ合い、なんとか互いの了解に至ろうと辛抱強く付き合ってくれた彼女ら彼らには、非常に感謝している。
ついに、前を向くことができるだろうか。3Aセメスターも精進したい。
2021年9月8日 終わらぬ緊急事態宣言を嗤いながら、稽古終わりの自宅にて
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