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インターネットは最悪

この文章は『青春ヘラver.5「インターネット・ノスタルジー」』に収録されたものです。完全版は冊子をお買い求めください。


  むずかしいことわかんない
  考えちゃって眠れない
  犬と猫とご飯だけを眺めていたい
  インターネットは最悪

こじらせハラスメント「インターネットは最悪」


 初めてインターネットに触れたときのことは、もうあまり覚えていない。自我が芽生えた頃には家にWindowsがあって、いつでもPCに触れられる環境だった。恵まれた家庭だったと思う。インターネットが、本当に好きだった。
 草薙素子が「ネットは膨大だわ」と言って消息を絶ったように、かつてのインターネットは、果てしなく広く、それでいて独自の温かさを有していた。あの時、僕がインターネットに感じていたワクワク感は、どこに行ってしまったのだろうか。あの気持ちは、歳を取った僕が失ったものなのか、それともインターネットがその成長と共に切り捨ててしまったものなのか。もう届かないと知りつつも、手を伸ばさずにはいられない。
 インターネットには、すべてが残りうる。けれどそれは可能性として開かれているだけであって、実際には断末魔すら叫べずにひっそりと消えていくデータが大量に存在する。本当に弱い者は声も出せずに死んでいくのを、僕はよく知っている。もし、そんな儚く脆いものにノスタルジーを感じてしまっていたら。帰るべき場所はどこにもない。時間的にも空間的にも故郷を失ったままの我々は、なお膨大であり続けるネットの海に放り込まれる。頼りになるのは自分の記憶だけ。
 もう一度だけ、かつてのことを思い出し、記録しておこう。あの時好きだったフリーゲーム。あの時好きだった音MAD。あの時好きだったフラッシュアニメ。集積した何兆ものデータの上に、僕は立っている。

 1.幼少期

 インターネットに関する記憶を辿る前に、僕とPCの邂逅について記しておきたい。仕事の関係でPCを使っていた父親は、日頃からキーボードを叩き書類作成に勤しんでいた。当時のPCはブラウン管のテレビくらい分厚く、形状も似通っていたから、それほど違和感は覚えなかった。なにしろ、生まれた頃からPCがあった。僕はコンピュータの登場の熱気を知らないまま、今日も生きている。
 家にPCはあったものの、もっぱら仕事用だったそれはとても面白そうには映らなかった。DSや3DSが全盛期の時代に、PCに興味を示す子供の方が珍しいだろう。父は医療従事者で聴診器を首にかけていたが、僕にとってのPCはそれと同じだった。あくまで、父が使っている仕事道具だった。
 しかし、祖父母の家にもPCが導入されたことで転機が訪れる。祖父母も同じく仕事の書類作成にPCを使っていたが、晴れて僕は自由に使えるPCを獲得したのだ。それ以来、毎週のように祖父母の家に遊びに行き、休みの日は5時間以上PCに没頭した。ゲーム機を買い与えられていなかった当時、PCに内蔵されていたフリーゲームはとんでもないお宝だったのだ。
 まだ小学生でもなかった僕はろくに操作も分かっておらず、異常な量のタブを開いて親にウイルス感染だと思われたり、シャットダウンの際に主電源をぶち切って叱られたりもしたが、当時の感動は忘れられない。どんなゲームがあったのかほとんど忘れてしまったが、覚えている限りでは「ポムポムプリンが転がる謎のゲーム」と「アホみたいにCPUが強いホッケー」をプレイしていたことは覚えている。それぞれ、名前が判明している。「ポムポムプリンのチャレンジころりん」と「エアホッケー」というフリーゲームだ。富士通パソコン内蔵のゲームらしい。

 ポッキー、アブ、キヨ。といったゲーム実況者たち自体、僕にとっては懐かしくノスタルジーの対象だ。そんな彼らが古のゲームを実況するエモさ。インターネット・ノスタルジーは、エモとノスタルジーのミルフィーユが多重構造を形成して成り立っている。
 「ポムポムプリンのチャレンジころりん」は2015年、「エアホッケー」の動画は2018年にYouTubeに投稿されている。このことから分かるように、こうしたゲーム類のアーカイブ化が行われているのはごく最近のことなのだ。
 据え置き型のゲームならまだしも、PCに内蔵されたフリーゲームなど覚えている人間の方が少ない。けれど、僕にとってのファミコンは富士通のパソコンだったし、ポムポムプリンは僕にとってのマリオだった。
 現代の小学生にとってのゲームボーイやDSとは何か。これは難しい問題だ。皆が同じ機種を持っていた世代からは一転、今は無数の選択肢がある。世代で共通のハードが存在しないのだ。Nintendo Switchで遊ぶ子供、PS4で遊ぶ子供、PCゲームで遊ぶ子供、ソシャゲで遊ぶ子供。もちろん、そもそもゲームに関心を持たない層や、YouTubeやTikTokに熱中する層もいるだろう。
 インターネットの登場により、PCでゲームが遊べるようになった。スマホが登場すると、ソシャゲがプレイできるようになった。昔と比べて、今の小学生は遊びの選択肢が段違いだ。
 例えば、スーパーマリオくらい有名で特定の世代に共有されていたゲームならば、後の世代に向けて必ずアーカイブ化が試みられる。もちろん保存されなかったマイナーゲームも無数にあっただろうが、今と比べれば微少な数だ。
 僕にとってのマリオが「ポムポムプリンのチャレンジころりん」だったとして、ここまで無名のゲームは運が悪いと永遠に消えてしまう可能性がある。ふと思い出したときには、帰れる故郷はなくなっていて、ただ「あったのだ」というおぼろげな記憶だけが残る。時が経つにつれ、僕は思うだろう。「そんなゲーム、本当にあったのか?」と。
 インターネット時代のノスタルジーは、ここに特徴があるのだ。すべてが残りうる。けれど、すべてが残るわけではない。事実、後に紹介するPCゲームの中にはサービスが終了し、資料もほとんど残っていないものもある。

 2.小学生編

 小学生になると、僕のインターネット熱はさらに加速する。使い勝手が分かってきたこともあり、自身の望んだサイトにアクセスする術を理解しつつあったのだ。初めは、ブラウザでプレイできるフリーゲームに没頭していた記憶がある。ワウゲームでひたすら「コマンド」を極めたり、niftyで若干ホラー味のある脱出ゲームをやりこんでいた。
 おそらく同時期に、ニコニコ動画やフラッシュ倉庫にも出入りしていた。まだ幼い頃に「ブロリーでおどるポンポコリン」や「ドラえもん(グロ注意)」を見ていたのを覚えている。どちらも2009年投稿なので、小1から小3あたりで目にしていたのだろう。こんな経験をしながら健全な精神が育つわけがない。やはりインターネットは最悪だ。

 この時期の特筆すべきことと言えば、やはりオンラインゲームに触れたことだろう。PC内蔵のゲームとは違い、見知らぬ誰かとのコミュニケーションが発生するオンラインゲームは、小学生には強い刺激だった。
 はじめ、ディズニーのサイトにあるフリーゲームをやりこんでいた僕は、とあるきっかけで「ディズニー マジックキャッスル オンライン」をプレイすることになる。2006年から2014年まで続いたPCゲームで、プレイヤーは設定したアバターを操作し、街での生活を楽しむことが出来る。服や釣り竿と交換可能な通貨、収集アイテムのカードなど、当時は新鮮なスローライフゲームだった。学校から帰り、ノルマのカード集めをこなす日々。休日は朝4時に起きて夕方までネットに入り浸っていた(本稿を書くにあたり情報を収集していたのだが、出典となるブログの多くは削除もしくはサービス終了していた)。

 僕のオンラインゲーム熱はやがて「メイプルストーリー」に移り、最終的に「アメーバピグ」に落ち着く。アメーバピグは僕がネット上でガチ恋するきっかけとなった記念すべきゲームなのだが、詳しくは以前noteで書いたのでそちらを読んで欲しい(ペシミ「アメーバピグで初恋した話」)。
 マジックキャッスル、メイプルストーリー、アメーバピグ。これらの中で現在もサービスが継続しているのはメイプルストーリーだけだ。特にマジックキャッスルはプレイヤー層が偏っていたこともあってYouTube上にも残っている動画が少なく、当時の雰囲気を感じ取ることは難しい。毎年サービス終了しているソシャゲも同じ境遇に立たされているのだろう。人気のゲームであれば何かしらの資料が残るところ、マイナーであればあるほど後世には受け継がれない。我々の故郷はもはや壊滅寸前なのだ。

 そういえば、初めてボカロに触れたのも小学生の時だった。何年生かは忘れたが、クラスの腐女子が「千本桜」の話題を出していたのがきっかけだった。ボカロの歌詞をノートに書き写しており、そこで「初音ミク」の文字を見かけた。思えば、そういったカルチャーを輸入するのはいつも腐女子だった。最初に聞いたボカロ曲は「千本桜」。その後、小学校でもボカロブームが到来するが、「機械音声が苦手な子がいる」という謎の理由で校内放送で流すことが禁止され、下火になった。

 それでもカゲプロ全盛期のあの時代、ボカロはやっぱり強かった。朝の読書タイムで『カゲロウデイズ』を読んでいるヤツが大勢いたし、作者コメントを縦読みすると下ネタになることで盛り上がっていたような気がする。
 小学校が、ニコニコとYouTubeの過渡期だったのかもしれない。MADやおもしろムービーでニコニコを使った覚えはあるものの、同級生にはHIKAKINを見ている友達もいた。僕は嫌な小学生だったので、HIKAKINファンの友人に、当時2ちゃんねるにあった「ヒカキンを潰す会」の存在を吹聴していた。マジで最悪。

 あの頃のインターネットは、「外部」の意識が強かった。まるで遠い異国の出来事かのように、皆がインターネットの話をしていた。ここではないどこか、見知らぬ世界には初音ミクという歌姫がいるらしい。スモールな社会として機能する前のインターネット。社会とは別の価値観と世界を提示できていた時代の、オルタナティブな場所としてのインターネットだった時代だ。
 インターネットは最悪、ということを言い続けている。あの頃のアナーキーでおおらかなインターネットは死んでしまった。消えてしまったインターネットを懐古し、思い出に浸る。それが、インターネット・ノスタルジーだ。小4の夏、ニヤニヤした友達に淫夢を見せられたあの日をいつまでも忘れられない。

 3.中学生編

 中学生になり、iPadを手に入れた。革新的だったのは、LINEというコミュニケーションツールの可能性が開けたことだった。それまでは何をするにも電話で連絡していた小学生には手にあまる代物だった。自分の場合はiPadだったが、周りを見ると別メーカーのタブレットやiPod Touchを持っている人が多くいた。中学2年になる頃には、クラスの8割がLINEのアカウントを持っていた。全員がスマホを持っていたわけではなかったが、皆が何かしらの手段でLINEを使っているのを見て、なんとなくインターネットが変わってきている予感がしていた。
 僕は、ついにメールを使うことはなかった。物心ついた頃にはApple製品があった。自分のスマホを持つようになったのは高校生からだったが、同級生がガラケーを使っている姿など見たことがない。だから、映画やアニメでガラケーが登場してメールでやりとりしているのを見ると、たまに羨ましくなる。

 遅いインターネット。PCの画面から覗くことが出来たあの世界とは違う、コンパクトだけれどゆるやかなインターネット。あの時代の空気を、もう知ることが出来ない。
 Twitterを始めたのも中学生の時期だった。最初にアカウントを作った理由はソシャゲのキャンペーン目的だったが、後にロックバンド好きと繋がるための趣味垢を開設し、それから高2まで続けることになる。あの頃は「界隈」の意識がはっきりしていて、関係のない・興味のない情報はほとんど流れてこなかった。それが幸福だったのか不幸だったのかは分からない。
 けれど、Twitterをやっている同級生は周りにほとんどいなかったので、リア垢としての側面は弱かったように思う。あの頃、リアルの知り合いと繋がるための場所はもっぱらLINEのタイムラインだった。

 ニコニコやYouTubeで実況動画をよく見ていた。黒歴史なので詳しくは触れないが、実際にゆっくり実況を投稿していたこともある。中学の卒業アルバムに、将来の夢「YouTuber」と書いてあったのだが、二度と見たくないので捨ててしまった。今になってもったいなかったと思う。
 当時もやはり、インターネットでゲームばかりしていた。ゲーム実況を眺めているとそのゲームを自分でもやりたくなるのは自然なことだ。「青鬼」や「のび太のバイオハザード」などの伝説のダウンロードゲームをはじめとして、ブラウザでプレイする「ドラゴンクエストモンスターパレード」、「シャドウバース」にもドハマりしていた。だからなのか、かつてあれほど欲しがって買ってもらった3DSやPS4にはほとんど触れないようになっていた。

 その他、僕の世代はソシャゲが流行り出した頃とも重なる。パズドラが爆発的に伸びたのは小5あたりで、若干世代がずれている。僕にとってのソシャゲといえば「モンスターストライク」だ。神化と呼ばれる進化合体のために特定のモンスターをゲットする必要があった当時のモンストは、時間帯によって出現するモンスターが限られていた。深夜0時~2時までしか降臨しない素材を獲得するために夜更かしした日もあって、親に隠れて布団の中でiPadを抱きしめていた。

 僕は完全な中二病患者だった。いや、今も抜けきってないけど。しかもかなり厄介な中二病だった。単純にキリトに憧れて黒の剣士を自称するレベルならまだかわいいものを、なまじ純文学をかじっていたために明治から昭和の文豪精神をミックスさせた悪魔が僕だった。中2の僕は余命3年という設定があり、命が短いために誰にも心を開けず孤立している……。拗らせて友達が少ないのをそう言い換えていただけだった。サイコパスがかっこいいと思っており、グロ画像を収集してフォルダに入れたり、ハッピーホイールズの実況動画を人前で見ていた。書きながら気分が悪くなってきた。だから、SNSで黒歴史を量産する中高生を見ても未だに馬鹿に出来ない。

 そういえば、ボカロ熱が再燃していたのは中2だった。千本桜を知った小5からそれなりに聴いてはいたが、ロックバンドが支配的だった僕のプレイリストに革命を起こしたのは、ハチの「ドーナツホール」。そこから加速度的にボカロにのめり込んでいく。特に2016年は『君の名は。』が公開され、『君の膵臓をたべたい』が本屋大賞2位を獲り、ニコニコでn-bunaとOrangestarが流行ったエモ大爆発の時期だった。僕のエモの基盤は、間違いなくあの時期に形成された。砂漠とは呼ばせない。あの時代が、僕にとってのボーカロイドだった。当時の再生リストを復元させたので参考にして欲しい。

2016あたりの僕のウォークマンの曲たち。

 4.高校生編

 最高に拗らせた精神状態を克服することなく高校生になった僕は、次第にインターネットからも遠ざかっていく。Nintendo Switchが発売されたこともあって、インターネットでゲームをやる理由がなくなってしまったのだ。加えて、先述したマジックキャッスルやアメーバピグ、モンスターパレードなどのゲームが続々とサービス終了を発表した。僕の居場所は、インターネットにはもうないような気がしていた。
 高校では翻って、SNSがインターネットの中心となる。Twitterは以前にも増して交流が増えたし、フォロワーも爆発的に多くなった。中学2年からRADWIMPS界隈(wimperと呼ばれる)を出入りしていた関係で邦ロック界隈と接続し、大事な友人も何人か出来た。最近は興味範囲が拡散したことで邦ロック界隈と繋がりが薄れているが、それでも邦ロックは聴き続けている。
 Twitterの邦ロック界隈は少し特殊な文化がある。例えばライブ。好きなアーティスト同士で繋がっているのだから、フォロワーが同じライブに参戦している確率が非常に高いため、会場でフォロワーとエンカする文化が強く根付いている。その際、全員でアーティストのタオルを広げて集合写真を撮ったり、横断幕にメッセージを書き込んだりして交流を深めたりする。ライブ会場に限らず、日常生活でも邦ロック界隈の人間はよく見かける。バンT(バンドTシャツの略)もそうだが、もっとも分かりやすいのはラババンリュックと呼ばれる文化。邦ロック好きはグッズであるラバーバンドを収集する人が多いため、それらをリュックサックの後ろにくっつけて自分が邦ロック好きであることをアピールするわけだ。印象的で目に付くので、街を歩けばすぐに見つかるだろう。
 あるいは、Twitter上では「日タグ」という文化もある。日曜日になると、「#邦ロック好きと繋がりたい」などのハッシュタグをつけて、同じ趣味の仲間とさらに繋がろうとするのだ。添付する画像には、好きなアーティストの名前を羅列することがマストとなっている。
 けれど、光があれば常に影がある。邦ロック界隈の影の部分と言えば、頻発するオフパコ事件やライブチケットの未払い問題など、僕の狭い観測範囲でも炎上の材料には事欠ない。
 高校でも孤立していた僕にとって、メインの人間関係はとっくにSNS上で完結していた。一時期、同級生や過去の友人と繋がるためにInstagramを使ってみたりもしたが、どうにも性に合わなかった。高校時代にInstagramがあったかどうかは世代を分断する線となるだろう。年齢が近いにも拘らず「固定化された青春像」と言って伝わらないのは、高校時代にInstagramをはじめとしたSNSがなかったケースが多い。高2以降あたりから、TikTokも流行り始めた。それらのカルチャーを常に冷笑していたのであまり詳しくはないが、Vineにあった温かさのようなものをTikTokからは感じなかった。
 VTuberを初めて見たのも高校生の時だった。キズナアイと輝夜月の名前しか知らなかった僕が、「にじさんじ」という事務所の存在を知った。受験勉強を支えてくれたのは、アニメでも本でもなくVTuberだった。

 やがてコロナウイルスが蔓延し、高校は3ヶ月の休校に入った。僕はインターネットをやめた。
 時代はまさにテレワークを推進し、インターネットで人と繋がることが是とされ始めた一方で、僕はインターネットに疲れていた。一人になれる環境が欲しかった。
 4年間続けたTwitterのアカウントを消し、LINEまで消した。毎日のように見ていたVTuberの配信も見なくなり、それから約一年間、スマホを使った回数は両手で数えられる程度だ。
 一番堪えたのは、Twitterの空気が変わったことだった。新型コロナウイルスの蔓延と共に、SNS上での人々の余裕は一切なくなった。好きな音楽の話をするだけのアカウントにも、日々政治的な話題やどこかで起こっている炎上や論争が漂流してきた。耐えられなかった。インターネットが大好きだった。けれど、インターネット上に帰るべき場所はもう残されていない。

 5.インターネット・ノスタルジー

 大学生になりTwitterを再開したが、時は既に遅かった。ノータッチだった1年で、インターネットは大きく変わってしまった。Twitterの用法が変化したのは東日本大震災がきっかけだったと指摘する者は多いが、トドメを刺したのはコロナウイルスだった。災害や危機は人々から余裕を奪う。インターネットは、使用者の状態によって最高の娯楽にも、劇薬にもなり得る。今時インターネットに常駐するのは、生活に疲れて余裕を失った人々が大多数を占めている。
 特にTwitterはその運用方法に失敗したと言って良いだろう。様々なきっかけでユーザーのSNSの使用法は変わっていく。時代によって許される発言と許されない発言がある。それらの不明瞭な規範が混在し、根本の使用法が異なる人間が混在するインターネットは、いつでも衝突と諍いが絶えない。
 ノスタルジーには、空間的な回帰と時間的な回帰の二つの軸があるという。時間と共に変わっていくインターネットに故郷を見出す僕らは、いったいどこに帰れば良いのだろう。どうしたら、救われるのだろう。あの土地はやはり砂の惑星と化してしまったのかもしれない。インターネットは今日も最悪だ。

 6.これからのノスタルジーのために

 本来はここで筆を置くつもりだったのだが、どうやら僕には続きを書く使命が与えられたらしい。数時間前、たまたまTwitterを見ていた僕の目に飛び込んできたのは個人VTuber・名取さなによるオリジナルソング「だじゃれくりえいしょん」のMVである。

このMVにおいて、方法論として確立した「懐かしさ」によるパッケージングは高い精度で成功しており、美麗な映像からは経験したことのないノスタルジーが立ち現れ、そのギャップに入ったひびが我々に「インターネット・ノスタルジー」を提示してくれる。
 そして、偶然にもこの動画を目にした僕は、他にも二つの動画を思い出した。一つはAiobahn による「INTERNET OVERDOSE」であり、もう一つはにじさんじ所属のVTuber・月ノ美兎による「それゆけ!学級委員長」である。

 前者は数々の美少女ゲームをオマージュしながら、かつてのインターネットにあった粗さと独特の色彩感覚を現代のメンヘラ文化や地雷系文化に結びつけたゲーム『NEEDY GIRL OVERDOSE』の主題歌であり、MVを見れば一瞬のうちにサイケデリックなノスタルジーを実感することが出来るだろう。そこにはダークウェブ的な、やや危険なインターネットの香りが漂っている。
 後者は夕方放映のアニメっぽさを残しつつ、まったく違う方法で懐かしさを演出している。それは確かに90年代から2000年代にかけてのアニメらしさに溢れているが、コメント欄には“大昔のニコ動とかで稀に見かけた「個人勢が途方もない手間と時間をかけて作った妙にぬめぬめと滑らかに動くアニメ動画」っぽくて良かった”との意見も散見される。

 「だじゃれくりえいしょん」、「INTERNET OVERDOSE」、「それゆけ!学級委員長」のどれもが視聴者に"懐かしい"という感覚を抱かせることは、インターネット・ノスタルジーが手法として確立した段階にあることを示している。しかし、考えてみれば不思議な話だ。これらの「懐かしさ」は、せいぜい10~30年前の思い出に過ぎない。1989年に終わった昭和にノスタルジーを感じるならまだしも、「歴史」とするにはあまりに短かい。
 だがそれでもインターネット・ノスタルジーが成立する現状を鑑みれば、インターネットの時間速度を踏まえなければならない。現実と比べて、圧倒的に情報量が多く、消費スピードの早いインターネットでは時間が同じだと言う方が不自然だろう。テレビでいう「懐メロ」と、インターネットでのそれがいかなる感覚的な違いを持つか考えてみれば明らかだ。
 評論家の宇野常寛は、紅白歌合戦がその年のヒット曲紹介番組ではなく懐メロ合戦となっている状況を例に、これからの映像・音楽産業は新しいものを生み出すよりもノスタルジー消費がメインとなっていくことを指摘している(『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』)。若者にとってのこれからのノスタルジーとは、どのような姿をしているのだろうか。

 経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれたのは1956年。東京オリンピックや大阪万博、急激な経済成長を経て日本は圧倒的な上昇志向に突入した。日本未来学会が設立されたのも、ちょうどその頃である。しかしそれは、敗戦という過去に対するノストフォビアが人々を駆動していたと言い換えても良いだろう。ところが、高度経済成長の失速と学生運動の凋落を予感した日本において流行り始めたのは、上昇志向によるノストフォビアよりはむしろ、前近代的な日本像へのノスタルジーだった。国鉄が"ディスカバー・ジャパン"と称して原風景的な田舎は「発見」されていく。やがて経済成長も停滞し社会システムの欠陥がぽろぽろと露呈する「現代日本」でも、このノスタルジー志向は続いていると見てよいだろう。思い出を持たない若者は存在しない架空のノスタルジーをもとに、様々なレトロ趣味にのめり込んでいく。インターネット・ノスタルジーは、その一形態なのだ。
 ノスタルジーに浸る観点からして、インターネットは最適な材料となる。なぜなら、現実世界と比べて何倍も早いスピードで生産と消費のサイクルが回転するインターネット上では、たった数年で音楽は「懐メロ」となり、事象は「歴史」と化していく。インターネットは、ノスタルジーに浸りたいけれど記憶を持たない若者にとっての、お手軽な歴史製造機として機能する。
 『感傷マゾ vol.07』に収録された「架空のノスタルジー座談会」にて、参加者の一人である動物豆知識botは、リミナルスペースのことを「このポスト・インターネット/ヴェイパーウェイブ的な感覚が、オールドインターネットを知らない若い世代によるインターネットに残された遺物の収集のように感じられた」と述べている。先に紹介した「だじゃれくりえいしょん」や「INTERNET OVERDOSE」、「それゆけ!学級委員長」がどのような世代によって作られたかは曖昧だが、今後の「インターネット・ノスタルジー」は本物のインターネット老人ではなく、オールドウェブを知らない若者たちが担うことになるだろう。最近、「インターネット老人」に関して気になるツイートを見かけたので引用しよう。

 このツイートはインターネットにおける特殊な時間感覚をよく表している上に、現在の「昔のインターネット」がざっくりとSNS以前のインターネットを名指す用語として使われていることを示している。実際この感覚はかなり正確で、僕の身近にいる人間が「昔のインターネット」をスモール社会として機能する以前のインターネットを指していることは多い。
 今時のインターネットを見て、「昔はこうじゃなかった」とこぼすのは簡単だ。しかし、この発言をきっかけにインターネット住民の間には「世代」的意識が全体化され、旧世代vs新世代の構造が立ち上がる(この世代の対立構造は、現在ならばもっと細分化されて然るべきかもしれない)。そして、ミームに代表されるような「言葉の使い方」にその違いがある場合、旧世代の示す態度はしばしば過剰にも見える「拒否」になりかねない。
 だが、我々は受け入れなければならない。これからのインターネット・ノスタルジーは浸るものではなく、創出されていくものだということを。そしてそれを引き受けることこそが、おもちゃ箱のように様々な世代が混在し諍いが無限に起こるインターネットを生かす唯一のやり方なのだから。


【参考】
 波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本──ポップ/ぼっち/ノスタルジア』(講談社現代新書、2013年)
 宇野常寛『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版、2018年)
 「架空のノスタルジー座談会」『感傷マゾvol.07仮想感傷と未来特集号』(私家版、2022年)


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