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日記:叱らない、拗ねない

心理系の資格講座で印象に残っているのは、特に交流分析の中の心理ゲームのタームだ。 
習いたてであり、まだ深めていないので仮にはなるが記しておく。

人間には三つの自我があるとされている。
一つは 親(P)、もう一つは 大人(A)、三つ目は 子供(C)

2人の人間がいて、同じ自我状態、親同士、大人同士、子供同士のコミュニケーションはスムーズにいくとされている。一方が同じ自我同士の交流を求めているにもかかわらず相手は違う性格で交流してきた場合、交差交流となり交流が止まってしまう。
どちらかが相手の自我状態にシフトしないと交流は続かないとされている。

また、心理ゲームとは、いつも陥るコミュニケーションパターンのことで
ゲームと言われるパターンはそのやり取りの後に嫌な気持ちになってしまうものを言う。
破局的な行動であるにもかかわらず、またこのパターンをやっていたというのは誰しもあり、私にもある。

心理ゲームをしてしまう理由は「自分の破局的な信念を強化したいから」なのだそうだ。
嫌な思いという報酬を受け取ることがゲームをするメリット。
そこまでして自分の破局的な信念を信じたい自分がいる。
そうならざるを得なかった自分がいる。

心理ゲームを終わらせる方法が、
冷静な大人(A)同志の交流に2人ともがシフトするように持ちかけてみる。
というものと、
嫌な気持ちという報酬を、ゲームに気付いたとしても受け取らない、
ゲームを成立させないことで破局的な信念に餌をあげないことのようだ。

特に興味深かったのは裏面的交差交流についてだった。
思ってもいないお世辞を言って相手が喜ぶのを見ておだてた本人は「あんなのまぐれなのにおだてたらよろこんじゃって」などと思っている場合なども裏面的交差交流だ。
本心からの言葉ではない言葉で、さらに自我状態も一致しないままの交流で、
交流の中で1番避けるべき交流だ。

裏面的交差交流にたくさん出会ってきたということを講師に話し、
その過去の違和感を伝えると返ってきた答えが痛快だった。

裏面的交差交流を仕掛けてくる人は相手と信頼関係を築く意志がありません。
また、そういう交流を仕掛けてくるというのは仕掛ける側の問題であって
仕掛けられた側になにかトリガーがあるわけではないのですよ。

というもので、
コミュニケーション不全があった際、自分の落ち度なのではないかと考えてしまう私には
目から鱗の回答だった。

心理ゲームの一つに、キックミーというものがあり、
名前のまま「私を蹴って」と、叱られるようなことを繰り返し行い、実際に嫌われるとほら、みんな私のこと嫌い、という信念を強化させるゲームだ。
わざとルール違反を繰り返し相手を怒らせて、その思い通りのリアクションを得て喜んでしまう、そしてさらに嫌われる、を繰り返すゲームだ。

要は無意識で相手を煽って、相手が怒ったらそれがキックミーをする人にとっての報酬なのだ。

破局的な信念を強化させるために、破局的な行動をしゲームを仕掛ける人に共通するのは、
ストローク飢餓状態である、というものだ。

ストロークとは相手からもらえる関心、エネルギーのようなもの。
満たされない思いがある場合、それがたとえネガティブなものであっても、関心を持たれたい。煽って怒らせて嫌われるというストロークでさえ、ストロークがない無視よりマシという感じである。

これは裏面的交差交流を仕掛ける側の無意識の目論見にも当てはめられるのではないか。

キックミーがいい悪いではない。
ただ私の周りにキックミーがよく現れる、他の人にはそういう行動をしないのに私にはするということが多いからこれまでずっと気になっていた。
私の周りに多く現れるということはイコール私はキックミーを誘うゲームをしていると考えられる。

タイトルの叱らない、拗ねないというのは、キックミーに対して私のスタンスを書いてみたものだ。

また自分と向き合う際も、自分を責める叱るのでもなく、また拗ねて腐るのでもなく、落ち着いて、冷静に、自分を自立した大人として扱うことがポイントになるのではないかと考えた。

ツイッター(X)では市民と国家主体の交流にもこの交流分析を当てはめて考えてもみた。
叱らない、拗ねない、自立した大人同士のやりとりをどう可能にするか。

なんやかんやと、
拗ねてキレっぱなしになること、
叱ってイライラしっぱなしになることが多い。
そこからの解放への努力は惜しまないつもりだ。

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