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【小説】混濁にて

 私を迎えにくるのは、いつだって混濁だ。
 混濁は毎晩、挨拶もなしに底なしの海へ誘う。行く、なんて一言も伝えてはいないのに。私は混濁に抗えない。
 海はドドメ色の泥で覆われていて、全てが汚れきって自分が何者かも分からなくなる。呼吸は次第に苦しくなり、泥に少しだけ混ざる酸素を探す。手を伸ばそうとすれば、隣にいる混濁は緩く微笑みを作るのだ。まるでグロテスクな御伽噺。どうしようもなくなった私は、泥に身を任せようして瞼を閉じる。だって、もう助からないでしょう?
 話は完結しない。所詮は夢だからだ。エンドロールも流れやしない。夢から醒めた私は荒い呼吸を整えようとして、勢いよくむせてしまう。年を取って、締まりがなくなった唇からは唾液が零れ落ちた。
 いつものことだ。  
 慣れたように、額に伝う汗を指で拭う。乾燥しているくせに、ちっとも水分を吸わない肌に嫌気がさすことも、いつものこと。遮光カーテンは私を守ってくれない。ベッドから上半身を起こして、正面を向く。
「またやったわね、混濁」
 私は諸悪の根源を睨みつける。本当は水でもかけてやりたいのだが、あの人の遺したものだから遠慮をしている。じゃなかったら、ただではすまさない。
 視線の先には、一枚の絵画がある。タイトルは混濁。画家であった夫の作品だ。
 モデルとして描かれたのは、かの有名なモナリザでも、真珠の耳飾りをつけた少女でもない。二十歳そこそこの女だった。ガリガリに痩せっぽちなくせに下腹だけが膨らんでいて、整えていない眉毛はボサボサに太い。ぶっきらぼうな目をして、少年のような短い髪をしている。いっそのこと、とんでもない美人だったらよかったのに。なのに、私は混濁から目を離せない。
 混濁は、長いあいだ燻っていた夫を美術界に復活させた。それまでは、もう時代遅れだ、とか上手くないくせにふんぞり返っている、などと好き勝手に言われていたのに。
 モデルの女ーー私は混濁と呼んでいるーーが裸になって、ただ横たわって丸まっているモノクロの絵。しかし、そこには「ただ」とはすまされない感情が渦巻いていた。
 絵を一瞬でも視界に入れると、私はいつだって呆然としてしまう。見透かされている気がするから? 夫の傑作が私の知らない女だから? それとも、私が彼女を夫の愛人だったのではないかと疑っているから?
 愛人という言葉は俗だ、適切に言うならば、……唯一。
 混濁にはじめて出会ったことを昨日のように覚えている。夫の新作は久しぶりだったから、楽しみだったのだ。どんな絵なのだろう、と会えることにワクワクしていた。そう、「出会う」という感覚。いつだって、絵には出会うものだ。見る、と言う一方的な行為を私は好んでいない。夫は素っ気ない口調のくせに「きっと気に入るさ」と言葉端は弾んでいた。私はいつものように笑顔で挨拶をしようとしたのだ。
 こんにちは、新入りさん。
 でも、できなかった。網膜に焼きつくのは、コンクリートのような滑らかな肌、こちらを見ようとはしない一重瞼、そして絶対的に伝わる、画家からの柔らかな感情。
 縺れる舌でいい絵ね、と呟く私に、あの人は自信満々にそうだろう、と頷いた。嫌みさえ通用しないほどあの人はこの絵に入れ込んでいた。それはもう、妻である私よりも。簡単には言い表せない、惨めな感情が私の中を渦巻いていた。
『とんでもないものを描きましたね!』
 ある人は絶賛し、またある人はモデルがいいからだ、と吐き捨てた。評価は大逆転どころではなかった。混濁を欲しがった人はわんさかいた。好きな金額を書いてくれ、とも言われた。いくらお金を積まれようとも、鳥海は首を縦に振らなかった。
 混濁は、寝室に飾られる選ばれしとびっきりたちのひとつになった。モノクロの混濁は存在するだけで、どれだけ色彩豊かな絵画だってたちまちにただの背景だ。脇役にすらなれない。この絵だってとびっきりなのに。
 無防備な姿をさらす混濁の前に、人は身ぐるみを剥がされる。かくしごとなど、できやしないのだ。
 逃げるようにして 私はアトリエへと移動する。色とりどりの絵の具と油の匂いがたっぷりと染み込んだ綿のカーテンを勢いよく開けて、眩いばかりの太陽にわざとらしく微笑みを作る。夫が見れば、きっと訝しげにしただろう。
「貴方もお日様を浴びなくてはだめ、健康のためにね」
 そこにはちっぽけな木箱とたった一枚の写真がある。数多くの絵画たちが彼を取り囲んで寂しくはないだろうけど。もっとも口うるさいあの人はもういない。
 夫の鳥海が亡くなったのは、六年も前のことだった。病気なんて風邪でさえならなかったくせに、あっさりと逝ってしまった。あの人の骨は、うんざりするほどに真っ白でちっぽけだった。 
「いただきます」
 いつも食事は向かい合って。それは、鳥海がいなくなっても同じ。カメラが嫌いな彼はこちらに向かってぶっきらぼうな顔をしている。返事を待たずに、こんがりと焼けたトーストにかぶりつく。まあ、返ってくるはずがないが。トーストには、もちろんジャムやバターもつけない。シンプルこそ最高なのだ、と私は信じている。それに、バターの匂いは苦手だ。幸せの押し売りみたいだから。
 手早く食事を終えると、皿を片付けることなく私はキャンバスへと向かう。習慣だった。納得がいくまで手を動かす。モデルは仲違いをした昔の友人だったり、ご近所の野良猫だったり、林檎や茄子だったりもする。どれも頭の中に線はあるが、実際に手を動かすとでは訳が違う。理想の線が引けたとき、私はいつも瞬きを忘れてしまう。一瞬すら惜しい。目を離したらすぐさまどこかに散ってしまいそうな眩さを必死に繋ぎ止めようとする。そして、キャンバスへと無理矢理縛り付ける。居場所はそこしかない、と教え込むように。
 私は絵を描くのが好きで、夫と同じように仕事にもしている。人が望むものを描くときもあるし、週に一度絵画教室としてアトリエを開いてもいる。相手は主に老後を楽しむご婦人たちだ。
 生徒たちには、思うがままに描くことを推奨している。慣れるにはまず楽しめ。何度もコピーペーストされた哲学を私も利用しているのだ。
 あの人だって言っていた。楽しまなければ勿体ない。考えたって仕方ない。描きたいものはいつだってキャンバスにいる。内なるものは自ずと出てくる。そして、私は思い至る。
 じゃあ、混濁はなに? 
 納得のいかない線をひとつ引いてしまったところで、インターホンが鳴った。
「いやあ、いつもいつもすみませんねえ」
 訪ねてきたのは、田中さんだった。私たちの絵描き仲間で、鳥海の教え子でもあった。汗ばむ首筋をしわくちゃのハンカチで拭っている。大の冷房嫌いで、愛用のプリウスはいつだって空気がゼリーみたいに佇んでいる。
「いいえ、こちらこそいつもすみません」
 彼にはいつも展示の運搬を頼んでいる。田中さんは頼られるのが嬉しいのか、すぐさま飛んでやってくる。ありがたいことだ。
 そう、展示をやる。蝉が鳴き始める頃には毎度するのだ。鳥海が生きていた頃からの決まりごとみたいなものだった。絵描き仲間と話し合って、今回は鳥海の晩年を中心にやろうとしていたのだ。本音は、六回忌の回顧展を理由とした、ちょっとしたお集まり会。
「調子はどう?」
「全然」
 彼が困ったように頭をかいたので、私はわざとらしく口角を上げた。
「遅刻はだめよ」
「分かっていますよ。まったく香先生は手厳しい」
 彼の絵はまた前日に描き上がるのだろう。もしかしたらオープニングの一時間前かもしれない。深夜四時のマスにそっとコインを置く。田中さんは慣れたようにかつ遠慮なく、アトリエに乗り込んだ。私は大きい背中を眺めながらゆっくりと着いていく。アトリエは皆の庭だ。鳥海の写真に軽く手を合わせた彼は、覚悟を決めたようにシャツの腕をまくった。
「じゃあ、ドンドン行きますか。よっと、これは……」
 アトリエに無数に積まれたダンボールに包まれた絵たちを開いては「これは違う」、「この子は連れていく」と手早く決めていく。これが結構厄介なのだが、楽しみでもあった。
 おしゃべりな田中さんは、絵との思い出を毎回教えてくれる。何度も何年も何十年も同じ話を聞いているが、鳥海との思い出を嬉しそうに語る彼の邪魔はしたくないし、私も聞きたかった。一年に三度はやるのだから、どうしようもない。そして、どうしようもないほどに重要なのだ。くつくつと喉奥を震わせる私とは別に、田中さんは豪快に声を上げる。
「ああ、あのときの。天気が最悪だったのよね」
「そうです、でも先生ったら山に行きたいってごねるから危ないですよって何度も引き留めて、結局ここで朝食のバナナを描いた」
「ふふ、ふて腐れているのが出てる。バナナなのに」
「でもいい絵だ」
 ふて腐れたバナナなど聞いたことがない。でも、鳥海の描いたバナナは実際にふて腐れている。今か今かと食べられるのを熟して待っていたのに。喉が震えるのが止められない。
「最後には皮だけになったのよね」
 そう、鳥海は食べてしまったのだ。食べられるのを待っていたバナナもびっくりしたことだろう。今なの!? って。 
「僕もびっくりしましたよ。気が付いたら横で食べてるんですから。先生ってば、こいつが食べられたがってたから食べてやったんだ、って」
 とんでもない悪党。田中さんも耐えられなかったようだ。凛々しい眉毛が八の字に垂れる。しわくちゃの顔で笑って、改めて梱包したバナナの絵を脇下に抱える。この子も連れていくのだ。
 残りは寝室だ。狙いは決まっている。ギシ、と重い音を立てる扉を開けば、田中さんは立ち尽くしていた。これも何度も見た光景。
「相変わらず、ですね」 
 何が「相変わらず」なのだろうか。私にはただの厄介者だ。暗い寝室の中でも、混濁の肌は目立つ。まるで熱でも発しているかのようだ。田中さんは慣れたように椅子に乗っかって、混濁を壁から外した。太く、ふしくれだった指でキャンバスの埃を優しく払う。どうしてそんな目で見るのだろう。
 混濁も梱包して、田中さんのプリウスにさっさと乗せてしまう。これで当分は解放されると、私はゆっくりと息をついた。助手席に乗り込んで、窓を少しだけ開ける。風が入ってこないから、水の足りない朝顔のように萎れてしまいそうだ。
 田中さんがアクセルを踏む。私の意思には関係なく、身体は前進する。
「さあ、行きましょうか」

 展覧会はそれなりに盛況だった。大学で教授もやっていた鳥海の教え子たちがたくさんきてくれて、その度に私は機嫌がよくなった。みんなは揃ってうっとりとした。
「やはり混濁は最高ですね」
 そのときの落ち込みといったら。もっとも、取り繕うのは慣れている。ありがとう、と曖昧に笑えば、教え子たちは満足気だった。何が「ありがとう」なのだろうか。私は混濁が好きではないのに。
 そんな私に気付いているのかいないのか、ギャラリーのオーナーは「ワンピース、素敵ですね」と常套句。去年も一昨年も同じものを着ていた。新宿の高島屋で買った、一張羅。
「香先生はどこがいいですか? いつものイタリアンにします?」
 最終日のラスト一時間も前になれば、話題も飲み会のことになった。
「そうねえ、久しぶりにあそこのペペロンチーノが食べたい気もする」
 私が言えば、田中さんも仲間のみんなも声を弾ませた。ペペロンチーノが食べたいのは、みんなの方だ。企みは成功。鳥海がいない今、決定権は私にあった。流れるように口車にのる。
「じゃあ、」
 穏やかな会話を遮ったのは重いガラスドアに付いている鐘だった。リ、リ、リ、リンゴーン。穏やかながらも、重厚にギャラリー中に響き渡る。私は音の原因を見つけようとして、振り向く。瞬間、瞼の筋肉が収縮した。
 それは女だった。静まり返った部屋では、彼女のスニーカーが出すキュッキュという音が耳障りだった。髪は男の子みたいに短髪だった。背筋は私と同じくらいで痩せっぽっち。脳は手早く視界を情報化して、身体の隅々にまで伝えていく。唇の震えを止めようとするが、無理だった。
「すみません、まだやってますか?」
 女は急いでやって来たのか、服が汗で湿って、肌に張り付いている。まるで雨の中走ってきたみたいだった。オーナーが嫌な顔ひとつせず頷けば、女は笑った。そんな顔で笑うのか。そんな声だったのか。
 まるで判決を待つ被告人だった。木槌を今にも鳴らそうとする裁判官。私はまだ準備ができてやしないのに。待って、時間よ止まって。まだ迎えに来ないで。しかし、女は何かを見つけたのだろう。迷わずにこちらへとズンズンと進んでくる。思わず後退りしそうになる足を私は鼓舞する、鼓舞している、一応鼓舞している!
 女は私に目線を合わせて、嬉しそうに目尻を下げた。
「あなたが鳥海先生の奥様ですか?」
 混濁。
 咄嗟に私は何も言えなかった。何を聞かれたのか理解できずに、口をぱくぱくと動かす。酸素すら吸えちゃいない。隣にいた誰かが「そうですよ」と答える。きっと田中さんだろう。そうだ、私は鳥海の妻だ。簡単なこと。なのに、心臓はさっきよりも強くリズムを刻んでいた。女は言う。
「あたしは……」
 私は彼女の自己紹介に声を被せた。頭が混乱していた。自分に言い聞かせるように大袈裟な口調になった。
「ええ、知っているわ。あの人のモデルさんよね。知ってるわ、よおく知っている」
 女ーー混濁はかすかに眉根を上げた後、不器用に微笑んだ。
「はい、初めまして」
 混濁はあっけからんとしていた。飲み会が行われると知るやいなや、遠慮のない口調で「あたしもいいですか?」と笑顔を作った。私だけではなく、田中さんたちも理解が追い付いてなかった。彼らは混濁というモデルを知っていたみたいだ。お久しぶりです、と混濁がにこやかに言っても、誰も目を合わせていなかったが。どうして言ってくれなかったのだろうか。私だけ知らないなんて。
 飲み会は異様だった。ほぼ主役である私がだんまりだったし、田中さんたちはおどおどとしていて、何故か混濁だけが陽気だった。私の隣を陣取った混濁が覗き込んでくる。
「酔っちゃいました?」
 違う、唇だけ動かす。混濁がこんなことを言うはずがない。いつだって興味無さそうに私を見透かすはずだ。ひっそりと私は苛立っていた。こんなの嘘っぱちだ、と信じたいのに、血色の悪い青白い肌はどう見ても混濁だった。
 ペペロンチーノにはいつもの素晴らしさなどなく、ただ胃の中を焼くだけだった。ワインで流し込んで、機械的に食事をする。鳥海の葬式だって、こんなことはなかったのに。最悪の晩餐。
 誰だかは言った。誰だろう。田中さんかな、尾崎さんかな。でも、どうでもよかった。目の前がぼやけて、声も遠く感じた。
「……女性同士で話もあるでしょう、香先生をよろしくお願いします」
 脳が言葉を捕まえた頃でも、理解はできなかった。なに、お開きってこと? 呆然としている私を他所にみんなは立ち上がる。混濁も立ち上がって、私の腕を掴んで立たせようとする。体温が低い肌に、電流が走る私の身体。
「香さん、家まで送りますね」
 最悪だ。ていのいい厄介払いだ。そもそも混濁はお呼びじゃない。田中さんは手際よくお会計を済まして、私と混濁をタクシーへと突っ込んだ。まるで計画的犯行のように。私に耳打ちするのだ。
「今日はもうワインは駄目ですよ」
 混濁は何が楽しいのか何故かずっと上機嫌で、にこにこと話を続けた。私は相槌すらできていないのに。
「あそこのイタリアン、美味しかったな。また行きたい」
 すべてが頭を通り過ぎていく。夜を走るネオンライト、だらしなく身体を寄せるカップル。私は窓から街を眺めるのに忙しいふりをする。混濁は未だに話し続けていた。どうでもいい話は、支離滅裂にあちらこちらに走り回っていた。以前飼っていたボーダーコリー、かき氷のいちご味、ノーベル平和賞を取った紛争地域に住む少女の話……。
 ただ、鳥海の話だけをしなかった。鳥海の話題が出ないことに安心と同時に恐怖もした。話せない秘密を彼女が抱えている気がして。
「もう深夜だな」
 家に着くまでに、どれくらいの時間が経っていたのだろう。とてつもなく果てしない道のりだった。庭に生えている金木犀が見えたとき、心底ほっとしたものだ。やっと解放される。私はそそくさと膝の上のバッグを拡げた。
「ここで大丈夫です。この子の分もこれで」
 財布からお金を取り出そうとした瞬間、またしても混濁が私の腕を掴んだ。こちらは疲労困憊なのに。仕方なく私はピントを合わせる。
 あっ。
 混濁は何故か崖っぷちに立っているような表情だった。この表情を私は知っている。目の前の人間は本物の混濁なのだ、と思い知らされる。混濁の声は震えていた。
「あたし、ずっと言いたくて」
 まだ話すことがあるのか、と私は半ば呆れようとした。出来なかったが。それだけ混濁が切羽詰まった目をしていたから。それはきっとこちらも同じなのだろう。審判が下されるのはどちら?
「貴女が『漂流』ですよね?」
 ヒュと小さく息を飲んだ。分かっていたはずだった。追い詰められるのは、もちろん私。言葉にならなかった。どうして知っているのか。動揺する私を見て、混濁は納得したようだった。
「やっぱり」
 夫の鳥海には代表作が二つある。目の前にいる女を描いた混濁と、ーー漂流。鳥見琢磨の名を日本美術界に初めて知らしめた作品で、私のもうひとつの名前でもあった。半世紀も前から、私は『漂流』だった。私は混濁が現れる前まで、鳥海の代表作で、寝室に飾られるとびっきりだった。今は脇役ですらないけど。混濁は勢いよく息を吐き出した。
「一度会いたくてっ、でもあたしに、そんな資格なくてっ」
 それはどういう意味なのだろうか。私にはわからなかった。いくつになっても、わからないことばかり。本当に嫌になる。見つめ合って身動きできずにいる私たちに、タクシー運転手は苛立っていた。
「お客さーん」
 慌ててお金を渡して、飛び降りるように車を降りる。ドアが閉まる瞬間、混濁は叫ぶように言った。割増料金。
「あたし、またきますっ。また会いにきていいですかっ」
 本当に嫌になる。きっと私の表情は無様に歪んでいただろう。それでも、混濁はよかったらしい。鼻下を膨らませて、そっと前を向いた。馬鹿みたいに真剣な表情。まさに混濁らしい表情だった。そのままタクシーは姿を消した。
 私は再びおいてけぼり。おいてけぼりで、ひとりぼっちで情けないけれど、ひとつだけ分かったことがある。
 混濁は存在する。息をして、二本の足で歩行して、息を吐いている。存在している。私は玄関を開け、急いで寝室へと向かった。壁からの無垢な視線に耐えられない。
 バッグから常備しているケースを乱雑に取り出して、白い錠剤を唾液で流し込んだ。数など気にしていられない、視界に入る限り飲み込んだ。ワンピースが皺になるのもどうだってよかった。もがきながら、ブランケットの中に潜り込む。手を足も少しだって外には出さない。誰も私に干渉できないように。
 部屋に残されていた若き漂流は、熱い瞳で私をじっと見つめていた。

 漂流は笑っている。その顔は何も知らないような無邪気さに包まれていて、目の前にいるであろう画家への憧れと焦れを滲ましている。
「貴方、三年後にその画家と結婚するのよ」
 もっとも鳥海も私も、まだ学生だった。学生同士でモデルをするのは、何も珍しいことではない。しかし、鳥海は一方的に私を描いた。それはもう熱心に。私には意味が分からなかったし、ただ描かれるのは億劫だった。モデルをすれば描く時間がなくなるでしょう。そう言った私に、じゃあ君も描けばいい、と大真面目に答えた。描いている姿を描かれるというちんちくりんで、居心地の悪い空間を昨日のように覚えている。
 今日も私は手を動かしている。一日でもさぼったら、感覚を取り戻すのに一週間はかかるからだ。集中しようとすればすぐに邪魔が入った。混濁だった。
 紙の上に混濁がいたのだ。私にも描かれたいのか。冗談を挟む隙間もなかった。私たちは真正面から向き合う。混濁は切羽詰まった顔をして、こちらを見透かしてくる。私は次第に苛立ち、スケッチブックから紙を破って、ぐしゃぐしゃに丸めてやった。それは夜に飲む錠剤に似ていた。
 医者は言う。そりゃ年もありますよ、旦那さんも亡くなってしまって寂しいんですよ。馬鹿、私は前からこうよ、と内心で答える。漂流として描かれてしまってから雁字搦めなの。私は順調に壊れていくのだ。
 夕方には、ダンボールに梱包された混濁が帰ってきた。私は大袈裟にため息をつく。運んでくれた田中さんは緊張で背筋を伸ばし、さっさと帰って行った。私は呆れていた、自分自身に。これでは八つ当たりだ。私は仕方なく全てを開いて、元の位置に飾った。本当は、混濁を破ってやりたかった。視界に入れたくないのなら、飾らなければいい。私は愚かにも自嘲する。また、日常が始まるのだ。
 混濁は宣言通り一週間後にやってきた。玄関扉を開けたら、アマゾンよろしく混濁がいたのだ。
「きちゃいました」
 今度は動揺する暇も与えられなかった。
「えっとあなたの名前は……」
 山田だったか金子だったか、それとも佐藤だったか。女はあっけらかんに言った。
「混濁でいいです」
 豆鉄砲を食らう私。
「じゃあ、混濁さん」
「はい、漂流さん」
 私も巻き込まれるのか。瘡蓋を勢いよく剥がされる感覚。痛い、痛いが。私はわざとらしく演技を取り繕った。まるで舞台に立つオペラ歌手のように。
「よろしくね、混濁」
 許されたと思ったのか、混濁の侵攻は進んでいた。毎日のように混濁はうちにやってきた。絵画教室にさえやってきた。私は素直に疑問だった。
「貴方仕事は?」
「今は転職期間中ですね」
 混濁も転職するのか。遠慮なく茶菓子を食べる混濁を眺めながら考えた。気づかないふりをしても、不快感は沈殿していくばかりだった。
 混濁は挑発しているのだ。警察でも呼べばいい? できたら苦労はしない。混濁が帰っても、私の思考は奪われたままだった。突然の痛みに動揺するのは当然だった。
 何年も手入れをしていない額縁は次第に緩んでいく。漂流も同じで、私は指を傷深く切ってしまっていたのだ。皮膚の上で赤黒く滲む血は、まさに私だった。全く嫌気が差す、一向に諦めない混濁にも、私自身にも。気に入らないのなら、寝室の壁から外し、段ボールに包んでしまえばいいのだ。何故しないのだ、と私は何度も自身に問いかけた。私はあの人の意思だから、とありきたりな言い訳をする。
 鳥海はこんな私を破り捨ててくれるのだろうか。
あの人に会いたかった。会って、文句を言いたかった。彼は言ってくれるだろうか。そんなこと気にしないでいい、と。鳥海は、今やただの骨だ。かびないようにとジプロックに丁重に仕舞われた灰。

「どうしてここにやってくるのよ」
 呆れている。どうしようもなく呆れている。混濁は毎日やってくる。苦々しい口調で聞けば、混濁はたった一言。漂流に会いたいから。同じ画家に描かれたモデルとして、私に興味でも湧いたのだろうか。
 他にもっとあるでしょう。言えば、笑う混濁。
「どうして貴方は漂流なの?」
 私が質問しているのにマイペースな混濁。
「そんなの……」
「あたしはね、そう名付けられたから」
 混濁は続けた。
「先生はあたしを生き返らせたの、混濁という作品として」
 先生はいつも言っていた。君はつまらなさそうだねえ。何が面白いのか理解できなかったけど、先生はあたしを見つけた。そして描き始めた。
 あたしを描くのはただ描きたいからだ、と何度も繰り返していた。描くことは祈りだからって。
「祈り?」
 私は乾いた喉でどうにか聞き返す。そう、奥さんが苦しんでるんだって。それでね、あたしと似てるんだってさ。私には話が見えなかった。
 若き日の鳥海は何て言っていたっけ。出会った頃の、お互いに横顔を描いていた頃の。
『漂流って素敵だろう?』
 舵が壊れたかもしれないのに?
『はは、それでも僕は憧れてしまうなあ』
 嘘ばかり。私は丸太にしがみついて流されているだけだ。貴方も混濁も知らないだけ。混濁は真っ直ぐに私の目を見る。鳥海の口調を真似る混濁。
「妻がね、君と似ていると言うかね。同じ症状と言うか、とにかく苦しんでいるんだね。で、君を試しに助けようとね」
 馬鹿らしいと思った。そんなこと意味がないのに、混濁は続ける。
「代わりでも何でもよかった。先生はあたしの神様だから。だから、あたしの名前は混濁。漂流するにはちょうどいいよ」
 いつの間にか目から液体が溢れていた。涙だ、私は泣いているのだ。そして何故か笑っていた。めちゃくちゃだ。これも医者の言う、年のせいなのだろうか。縺れる舌でどうにか口に出す。
「貴方野蛮ね」
「よく言われます」
 急にかしこまった混濁に、私は今度こそ声を上げて笑った。ほんとうに、愚か。

 混濁は、私の生活にすぐに馴染んでいった。私はどこへ行くでも、混濁を連れて行った。田中さんたちとの飲み会にでさえ。みんなの驚いた表情に、私たちはしてやったりと満面の笑みを作った。混濁の腕に自らのものを回して、わざとらしくくっつき合う。
「漂流は綺麗だね」
 その言葉にはどこにも嘘がなくて、私は乾いたスポンジのように吸収してしまった。その後に贈れられた頬への口付けは心地よいもので。首に腕を回し、引き寄せたのは私が先だった。
 裸ん坊でタオルケットに包まるのはいつぶりだろうか。遮光カーテンは光を通さない。真っ暗の寝室で思う存分航海をした。昼になって、カーテンを開けようとする混濁を私は遮った。ご近所に見られるかも。言えば、混濁は笑った。
「もうとっくにあたしに見られてるよ」
 自分の絵を指差す混濁に、私も笑った。恋ではないけど素敵だった。
「貴方、転職はどうしたの?」
「さあね」
 意地悪に言って見せれば、混濁は喉を震わせて笑った。私の太ももに頭を乗せて寝転がっている女は、やけに機嫌が良さそうだった。誰も彼もが、私たちのことを訝しんだ。口出しはさせなかった。始めるのには怖気ついたくせに。
 山から川へ流れ、海に辿り着く。そこから行き着く先はどこだろう。陸地など見えやしない。でも、それでよかった。それがよかった。混濁がどこにでも連れてってくれる。彼女がいれば、私は寂しくない。
 でも、ここは御伽噺ではない。現実だ。
 きっかけはテレビ取材だった。
 私は興味がなかったから、画廊のオーナーに任せたものだった。かつて幾度とも繰り返された残忍なショー。デパートに並ぶバッグのように私は見定められる。もう慣れてしまったが。
 何度も何度も隅々まで、顕微鏡で覗かれる行為。それは下品で、見苦しい。漂流のモデル兼妻の肩書きはたいそう世間に受けるらしく、昔は断っても虫のように湧いて出た。かつて鳥海が電話線をハサミで切ろうとしたくらいだ。だから、私は何とも思わなかった。私は。
 鳥海の作品を一堂に見渡せる中心に立って、オーナーは解説をしていた。たらたらとそれっぽいことを宣い、注目は『混濁』に行った。
「鳥海の大学教授時代に担当した生徒ですよ」
「怪しいですねえ」
 途端に囃し立てる芸能人たち。ひとりの男が口角を上げる。
「だって、ただの絵じゃないもん。一部には愛人説もあるんでしょう? 親密には違いないでしょうねえ」
 あまりの下世話にオーナーは苦笑いをする。もしかしたら田中さんたちは怒っているかもしれないな、と頭のどこかで思った。ここの画廊ではもう展覧会をやらないとすぐに抗議するかもしれない。男は続けた。
「過去作の漂流はどこか嘘っぽいですもんねえ。混濁は圧倒的」
 小さく映される若い私は心配そうに、こちらを見上げてくる。久しぶりのテレビ出演だが、今の私は批評されるのに慣れていた。好き勝手言って頂戴、と軽く流してしまう。
 漂流で賞を取ったけど、その後は振るわず。フランスへ留学してみたが特に成果はなし。燻っていた彼を救い出したのがミューズ混濁。初期とは違う、混濁の画風。漂流から混濁への変化、進化。進化?
 貴方は漂流派、混濁派? というテロップが流れたと同時に画面は消えた。混濁が消したのだ。次の瞬間にはリモコンが壁に投げ付けられていた。私はやっとこさ目を見開く。混濁が怒っているのに気づいたからだ。混濁は怒鳴った。
「この人たち何も分かってない。あたしは美しくない、こんなにも醜いっ。みんな自分の汚さをあたしで通して、美化してるだけだっ。それで分かった気になってさ、あたしはこんなにも醜いのに」
 私は混濁の腕に刻まれた傷を知っている。混濁が自らつけたものだ。かと言って、混濁が醜いわけではない。混濁は続ける。
「先生だってそうだ、これが本当の君だよって。じゃあここにいるあたしはなんなのっ? 漂流だって助けられてないじゃんっ」
 気休めでしかないんだけどさ。鳥海の声が聞こえた気がした。混濁はもはや叫んでいた。
「漂流もどうして怒らないの!?」
 支離滅裂だ。私は混濁の気の向くまま自由にさせた。自分自身を潤んだ瞳で睨みつける混濁の姿は、誰から見ても痛々しかった。散々怒り散らした混濁は、赤ん坊のように疲れ切って眠ってしまった。可哀想で可愛くて、私は思わず混濁を抱きしめた。細い身体を腕に閉じ込める。気付いたことがある。
 混濁は、何故今更会いにきたのか。鳥海ではなく私に会いにきたのだ。自らと私が同じだと知っていたから。
 私はベッドからじっと混濁の絵を眺めた。見るという行為は一方的で好きじゃない。でも、言いたかった。
「貴方、馬鹿よ」
 混濁に向かってじゃない。相手はあの人だ。本当に大馬鹿者。私はもう一度詰るように呟いた。祈りはいずれ呪いになる。混濁を起こさないように、そっとベッドから抜け出す。そして立ち上がって、絵を壁から外した。もう大丈夫よ。私はキャンバスの中で不安そうな混濁を優しく撫でた。

 朝からてきぱきと動く私を見て、混濁はやけに驚いていた。最近はふたりで堕落を極めていたからだろう。真っ赤に腫れた目で、こちらに尋ねる。
「どうしたの、漂流」
 私は構わずにスモッグを被った。集中している私をどう思ったのか分からなかったが、混濁はしぶしぶと寝室に戻っていった。自分の絵がないことにいつ気付くだろうか。もしかしたら、もう知っているかもしれない。
 でも関係なかった。私にはやるべきことがあるのだ。アトリエにある鳥海の写真に手を合わせる。ごめんなさい、今度あったときに説明するね。瞼をそっと開けて、ゆっくりと息を吸う。
「これからはあの子を守ってあげて、約束よ」
 迷うことなく、箱の蓋を開ける。そこにはジプロックに入った灰がある。粉になった真っ白い骨。もちろん鳥海のものだ。それを小皿に取り出す。風が吹けば飛んでいってしまいそうで、すばやく私は油に溶かした。繰り返し練るように溶かせば、綺麗な色になった。若き日の混濁に話しかける。
「私こそ野蛮ね」
 筆にたっぷりと乗せて、彼女の肌を塗った。パレットで固まりかけた絵の具も無理やり油で引き伸ばし、骨色に混ぜてやった。
 みるみるうちにコンクリート色が消えていく。彼女にキスをするよりも緊張していた。呼吸をするのさえ忘れていた。目を見開き過ぎて、乾いていく。しかし身体中は汗で湿っていた。暑過ぎて胸が痛い。諸処の問題を気にする暇もなく、私は筆を進めた。今しかないと思ったから。
 満足する頃には、すでに夜だった。私はやっと筆を離して、汚れたスモッグのまま廊下を走った。混濁に早く見せたかったのだ。混濁は一日中堕落していたらしい。ベッドでタオルケットにくるまっていた。
「もうどうしたの」
 急かす私を混濁は怪しむ。彼女の手を取って、アトリエに連れて行く。足を踏み入れた混濁は声にもならなかったらしい。私は自信満々に告げる。
「これが貴方よ」
 そこには、彼女がいる。コンクリート色の肌をしていない混濁。ベッドでの体温を私は知っていた。キャンバスの中で混濁は、ほてった肌を隠さずに笑っている。くしゃくしゃな顔をして、目尻に皺を作っている。
 もはやキャンバスの中の女は混濁ではなかった。混濁ーー透子と繋いでいる手が震える。私は強く力を込める。
「もう混濁じゃなくていいの」
 女はしゃがみ込んで、ただただ泣いた。小さな女の子。なんて愛おしいのだろう。私は震える肩に殊更優しく触れた。
 終わりが迎えにきていた。
 透子は全ての荷物をリュックに詰め込んでいく。家からみるみるうちに彼女の痕跡が消えていった。それは寂しく、清々しい出来事だった。私たちは日常に戻っていく。過去は消せない、消えない。知らなかった私には戻れない。元通りに戻るものなど ひとつたりともない。私は薄い身体を抱き締める。ゆっくりと離れていく背中にそっと祈る。ご無事で。
 玄関先でこちらを振り返る姿は晴れ晴れとしていた。透子は言う。
「ありがとう、もう行くね」
 もう二度と私たちは巡り会わないだろう。それでいい。私もそろそろ二本足で立って歩かねばならない。向こう岸に流れ着いてしまったのだから。
「またね」
 扉が閉まる。これが私のエンドロールだ。

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門

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