見捨てられ不安と自分との戦い

最近遊びの予定を詰めすぎている。何も予定の無い日が週に一日必要なタチだ。忙しさを理由に遊びを断ったあと、その人と遊ぶ前に別の友達と予定を入れてしまったとき、非常に申し訳ない気持ちになる。いや、申し訳ないは格好付けた。正直に言うと、見捨てられるのではないかと不安になるのだ。
遊ぶ順序なんて考えすぎなのだろうか。しかし、わたしが逆の立場だったら、わたしと遊びたくなかったのかと落ち込むと思う。ただ、今回の場合においては、久しぶりにその友達と会ってきたが、その人はその人で忙しくしており、わたしが遊ばなかったことに腹を立てているのではないかという邪推は、わたしの自意識過剰に帰結したのだ。わたしが抱えていた心配は、わたしが遊んであげなかったらこの人は悲しむであろう、という傲慢さから来ていた。しかし、前述したようにわたしの不安は見捨てられ不安であるので、自身としてはイコールには感じられない感情だ。

まるで思春期のようである。仲間外れが嫌だから。嫌われたくないから。そんなことが行動原理になって今忙しくしている。とにかく自信がないのだ。自己肯定感の獲得の第一歩として、今自分が感じていることを認識することから始めるといいらしい。それに則ると今は自分の行動が自信のなさから来ていることを認識しただけで成長と言える。しかし、そんなのいいから必殺魔法ではやくこの状態から抜け出したいと思ってしまう。動画も短時間で見れるものを好んで見たり、ドラマも最後まで見ないことが多い。結末をはやく知りたい。すぐ分からないならもう見ない。そんな感じで、人生においても結果をはやく求めてしまっているのかもしれない。

それと、頭のなかがザワザワとまとまりがなく、忙しなくなっているのはずっとなにかしら動画や音楽など音を流しているため脳が疲弊してきているのだと思った。わたしはこの行動を頭のなかが整理されていない時に取ってしまう傾向にあるようだ。
理由は、頭のなかのゴチャつきを認識したくないから、余計な音を入れて目を逸らしているつもりなのだ。ただ、根本的なリラクゼーションや解決法にならず、気休めでしかないため、脳疲労が蓄積していってしまう。
わたしにとってとりとめなく文章を書くことは、頭の整理となっているため、習慣として続けようと思ってはじめた。
それ以外の方法として、寝る前二時間はスマホやテレビの視聴をやめて過ごすというのはよく耳にするが、実践できたら頭のなかごちゃごちゃ問題は解決しそうだ。
しかしこれは正直自分のなかで無理難題なため、まずは30分前と設定して実施してみよう。
高すぎるハードルは跳ぶ前に飛ぶことをやめてしまうが、低いハードルだってまったくやらないより何倍もいいにきまっている。

自分の人生はshorts動画や早送り再生みたいに消費できないし、そうはしたくないから、もどかしいけどゆっくり少しずつ自分を認めていこう。
今の自分はカッコつけたがる癖があるから、昔みたいにダメなままで生きていきたいな。そっちの方がカッコよかったんじゃないかな。あっまた自己否定してる。難しい!

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