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おもおか 看護学校

おはようワンワン

前回は正看護学校に合格したところまでを書きました。
今回は学校生活を主に綴ります。

この時代の私の年齢は20前半、
1年間、医師会の准看護学校に通い、
そこから正看護学校に通い直しました。

この2校の校風が全く違っていて、
結果的に私には正看護学校が合っていました。

というか、時間に余裕があって正看護学校に通える人は正看に通った方がいいと思う。

ここからは私の学校生活を綴ります。









学校の特徴 “ゆるすぎる校則”


私が住んでいた場所は異常に看護学校が多い。
大学の看護師科が1校、
病院系列外の学校が1校、
病院系列の学校が6校、

めっちゃ多い。

いろんな学校のオープンキャンパスに行った。



私は楽しく学校生活を送りたかった!



看護学校は異常なくらい厳しいのだ。
軍隊か?それぞれ独自のルールもある。
それって意味ある?


最初に通った准看護学校
1.授業欠席は反省文かつレポート数枚提出
2.実習に出れなかったらほぼ留年確定
     再実習は知らない土地でひとり実習
3.服装が少しでもズレていたら呼び出し
4.それに加えて人間関係のドロドロ

いやいや、反省文ってなに?大人よ?
授業のレポートって何のために提出するの?
ルールを守るのが当たり前と言われたらそうなのだが、私には合わなかった。


正看護学校を受験する際は、挙げたストレス要素が少ない学校を選んだ。


その結果、
授業を休んだら自己責任、提出物なし
系列の病院が学校の隣にある
かつ制服がない
正看護学校に通うことになった


そして、私でも入れたのでそこまで偏差値は高くない。笑



どんな学校生活になるかワクワクした!






1年生 人間関係の構築

◯性別の自認 "私のアイデンティティ”


服装自由の学校。

私はスティーブ・ジョブズかもしれない。
同じ服を何着も購入した。

余談だが私はスカートが本当に嫌いだ。

『女性』であることを自ら表現することが苦手。

前職の事務でもジーンズを履いていたし、前の学校でも教員とそれについて少し揉めた。

水商売でもドレスじみたものを着るのが嫌だったからボーイとして働いた。



『 性は中性、服装は男 』だった。

Xジェンダー。
身体も大きいし胸はサラシで潰していた。


男に間違われたり失礼なことを言われても、特に気にならなかった。



わたしは私だ。


そんなこんなで入学式。
ひと学年、80名。


パンツスーツにクルクルパーマでツーブロック
前髪をガッツリあげて臨んだ。


声を出すまでは男と思われていて、クラスがザワついた。

前の学校に比べるとみんな顔が幼なかった。
ほとんどが18歳だから当たり前だけどその光景はかなり新鮮。


当時20半ばの私はすごいおばさん!


そして歳が近い社会人は私のクラスにおらず、完全に浮いたのだ。

年齢不詳、性別不明、想像の倍は浮いた。
私はふわふわ浮いたのだ。


この子達もいつか仲間割れすんだろうな。

だって女の世界だもん。
准看のときみたいな光景はもう見たくない。

できるなら3年間、深く関わりたくなかった。


それも相まって、男性っぽい雰囲気を出したのかもしれない。





◯早すぎる仲間割れ “泣いたり笑ったり”


若い女子、まぁ〜固まるのも早いし、ハブるのも早かった。(ハブる=仲間はずれ)


私はグループ崩壊スピードの速さに笑った。
全てのグループで仲間割れが起こったのだ。

『そんなこともあるよね〜』

私はのらりくらり。


授業でペアを組む時は、仲間はずれにされた生徒と組んだ。

18歳にもなると無差別なイジメはなくなるのかと気づいた。

ハブられた子はまぁまぁ話が噛み合わない。

社会人になってもこの子は苦労するだろうなと思った。


現役生徒は、社会人のドロドロとは違って弱肉強食だ。がんばれ、みんな。


私は『みっけさん』と呼ばれていた。

みっけさんはイザコザには入らず、勉強も一人で適当にやって、お昼は外に出て猫を探したり、図書室でマンガを読んだり気楽に暮らした。


『みっけさん、猫探しに行くなら着いていく』
そんな子もいたりした。

准看護学校時代の『行動は共にする絶対感』は、なかった。

独自のキャラクターもあったかもしれないが、ひとりで過ごしても良いのだ!



最高に楽!お気楽に過ごしたのだ!






◯気味悪がる大人 “個別性は認めない”


最高な時間を過ごしていたのだが、それを良くないとする人もいた。

一部の教員や社会人の生徒だ。

教員に関しては、私に対する心配が原因にあった。

個人面接では大半は成績のことを言われるのだが、
私だけ『友達がいないことについて』だった。


めちゃくちゃ失礼だな!



実際はふつうに話す子はたくさん居た。というか面白がられていた。この頃、街中ですごい酔っ払った私を目撃した生徒がたくさんいるらしい。


たしかに、看護学校合格に浮かれていたのでしょっちゅう街の飲み屋に顔を出していた。地べたに座って男友達と肩を組んでビール飲んでたの覚えてる。

学校では一言も話さず、脱走するように帰ることの方が多かったみっけさん。
外での姿を目撃されて、もっと仲良くなりたいと話しかけてくれた生徒は結構いた。ありがとう、みんな。

だから、孤立をしていた訳ではないのだ。自由にやっていた。『みっけさんは面白くて変な人』と言われていた。

やんちゃな子からは『おいみっけ!おはよう!』とか、イジられていた。


そして逆にそれを面白くないと思っていただろう社会人もいた。ドロドロ系の女だ。


プライドが高く成績も優秀。ぱっと見は常識がある普通の女性だ。運良く違うクラスだったので関わらないようにした。


(その後、優秀そうな18歳たちとつるんで、気に食わない子をいじめていた。私の勘は当たっていた。)


とにかく、教師や大人ってあんまり人のこと見てないよなって感じていた。



看護ケアに対しては個別性を唱えてくるのにね。




2年生 “座学と実技の繰り返し”


2年生にあがると、テストの数が膨大になる。

再試代は3000円。再々試はなく、留年。

先輩から過去問のプリントが代々引き渡されるので、そこまで難しいものではなかった。

(人間関係が下手だと、過去問隠されたりするらしいが。)

看護や生理学の勉強はとても楽しかった。

図書室は知識の宝庫だ!


暇なときは面白そうな教材をずっと読んでいた。


私の勉強法は変わっていた。
学校のテストの過去問と国家試験の問題と、
教えられている範囲を授業中に照らし合わせる。
答えだけじゃなくて内容を理解した。
その日のうちに理解する。

意地悪そうな先生に対しては、
それに加えて教科書を全文読んで理解した。

私は再試率95%超えのテストでもほぼ100点で通過した。超意地悪なテストだった。

テストに対して先生に抗議する人も出てきた。
私が高得点だから抗議できないと文句を言う人もいた。
しかも社会人。お前が勉強してないのが悪いんだろう。




私は勉強ではなく、看護手技でつまずくことが多かった。
簡単なおむつ交換や口腔ケアの練習でさえ下手なのだ。

寝ている患者の下からオムツを引っこ抜く時にオムツを破いたり、患者が溺れるぞ!?ってくらい口の中が水で溢れたり。


生粋の不器用ってやつだ。


大人の不器用が現役の生徒にはかなりウケたらしく、『みっけさんかわいい』に変化していった。



…私は必死なのだけど。



3年生 “眠れないなが〜い実習”


2年後半から卒業手前まで、私たちは病院での実習へ以降する。


病院併設の学校に行って本当に良かった。
バスの路線を病院ごとに考えなくて良いし、
慣れた校内で実習着に着替えることができる。



『 なんて楽なんだ!!! 』

頭のなかの小峠が、あの顔で叫ぶのだ。


さらに病院の看護師のほとんどが看護学校の卒業生なので、存在を無視されることがない。


前の学校の実習、
無視され、学生が休憩中にわざと全てのケアをされた。レポートが書けずに提出ができなかった。そしてそれはお前の責任だ、と。


とんでもない学校と病院だった。


学生が行う看護ケアは絶対に看護師が見てくれている安心感、話を聞いてくれる親切さ。



毎日レポートに追われて2時間も眠れなかった日が続いたが、充実した実習期間だった。


本当に優しい看護師と患者さんには感謝しかない。


たまに私のチリチリ頭に関して、実習生の身なりとしてどうなのか、と厳しく注意する看護師もいた。

実習停止にもなりかけたが『中身は真面目』と教員がフォローしてくれた。


多分こんな学校は他にないんじゃないだろうか。


目をつけられて病態に関して厳しく問われたりもしたが、どうにか乗り越えた。


当時厳しかった実習指導者は、私が看護師になった時も覚えてくれていてよく話しかけてくれた。


実習でも、やっぱり実技に問題があった。


同じ実習班の現役生徒に半ベソで助けを求めた。

出来ないことは何回も練習した。


上手くできぬのだ。


看護師に何度も失敗することを笑われた。


できぬのだ。


暴れる君みたいな必死さだったと思う。
最終的には同情され、可愛がられていた。


『大人なのに』とか、そういうプライドはいつの間にかぶん投げていた。


現役生徒からも『みっけさん出来る!そこ!それ!』とか励まされた。

ありがとうみんな。



いまでも不器用だよ。



◯治らない病気 “場面緘黙症”


看護学生には事例発表会がある。

実習先で出会った患者にどういうケアをして、どんなことを学んだか全学年の前で発表するのだ。

私はそれに選ばれてしまった。

断ったが教員からは拒否された。

声が震える、手も震える。


一度だけ通しでやったが、
セリフの紙をもつと手が震えて読めなかった。
それを自覚すると息もできなくなって、声が出なくなる。
マイクの音声から私のへんな呼吸音がもろに聞こえてくる。

みっけさんに対する心配の声もあがった。
それでも教員は事例発表者を変えてくれなかった。



なんでだよ。


私はセリフの文字をバカでかく設定して、台にその紙を置いて手で持たなくても読めるようにした。マイクを遠ざけて自分の息継ぎが聞こえないようにした。


結果的には、一番堂々としているように見えたらしい。すごく良かったと褒められた。

その後はうどんを食べて、ぜんぶ吐いた

過度の緊張は本当に嘔吐をもよおす。


どうやっても治すことはできないのかもしれない。


◯国試の勉強 “私がセンセイ?”


実習期間があらかた終わると、今度は国試が迫ってきた。

実習班に別れて勉強が始まるのだ。

色んなグループで喧嘩が勃発していた。

なんでこうも人間は揉めるのか。

勉強しない、来ない、教えたがり、成績マウント。


めんどくさーーーー!

かく言う私は1年目の時点で国家試験を余裕で合格できるレベルだった。がんばれ、みんな。

そんな私のグループは、成績があんまり良くなかった。

やってる範囲を見て何で解けないのか分かんなかった。1人に教えると『待って私もそこが分からん!』と、連なって結局3人教えることになる。

学生が勉強する範囲は、あらかた絶対的な答えが存在する。その答えをなぜかみんな導くことができない。

夏休み期間、どうせグループで集まらなきゃいけないのなら、と考えて『みっけさんの時間割』を作っていちから生理学を教えることになった。


割とそれが楽しくて、教員になるのもありかもしれないとか思った。

成績が上がったのはみんなの努力のおかげだが、少しは助けになれたと思う。





国家試験 “個人勝負”



遂に国家試験がやってきた!

私は成績的には余裕だが、異常に本番に弱い。

その頃の恋人が国家試験周辺の管理をしてくれた。(看護学生でもない一般人なのにw)

学生みんな同じホテルに泊まるのだが、面倒くさそうだったので拒否した。私は恋人と国家試験会場の近場にあるホテルに泊まった。

恋人はリラックスできるようお風呂に良い香りの粉を入れてくれ、マッサージの予約をして、海の映像を見せてくれ、お酒を酔わない程度に準備してくれた。…お姫様か。お姫様だったのだろう。



とても良い人だった。



国家試験は笑えるくらい余裕だった。



そしてすぐに卒業。




受験した80人中、10人以上落ちていた。



なんでだよw


学校側も前代未聞の不合格者の数で相当問題になっていた。


がんばれ、みんな。


こうして私は3年間思い切り楽しんで卒業したのだ。



数ヶ月後、とんでもない日がやってくるとは知らずに。


次回、人生で1番挫折したお話をします。

私が通ったこの学校、地域のなかではまぁまぁ評判が悪かったです。ただ、資格を取ればみんな同じ看護師、と思っていた私は自分に合う学校を選びました。私の経験は参考にならないかもしれないけど、看護学校はちゃんと自分の理想に沿って選んだ方が良いです。オープンキャンパスに参加するのは大事かも。やるなら楽しく、やりがいがある学校生活にしてください!








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