人文書を読む(8)ひろたまさき『福沢諭吉』(岩波現代文庫)

 福沢諭吉といえば、やはり「1万円札の人」というイメージが強いでしょうか。そして「文明開化」の時期に『学問のすすめ』を書いた人物ということがすぐに思い出されるかもしれません。いわゆる明治初期の「啓蒙主義者」だと。しかし、それは一面的な見方だという反応もすぐに出てくるでしょう。高校の倫理や日本史の教科書には、後年の福沢がいわゆる「脱亜論」を唱えていたことが記されています。

 本書は、そんな福沢の人生を民衆思想史などの研究者、ひろたさまさきが検討したものです。現在は岩波現代文庫の一冊となっているが、当初は朝日新聞社の評伝シリーズの一冊として刊行されたものになります。内容としては『学問のすすめ』や『文明論之概略』などを記していた、いわゆる「啓蒙期」の福沢を中心に据えながらも、九州、中津での少年時代から、日清戦争を経た後の晩年までバランスよく触れられています。福沢の思想内容の検討を中心にしつつも、あくまでも「評伝」であることを意識しているようで、個人的なトピックやエピソードにも適宜触れられているので、そういう意味では読みやすく感じました。

 本書を通して読んで見えてくるのは、やはり福沢の主張の変遷というか、タイミングによってその主張が少しずつ変わっていくことである。「自由」や「平等」を説いた近代的な啓蒙主義者という一般的なイメージとは裏腹に、本書では国会開設後に福沢が、民党を批判し、また選挙干渉を公然と認めているような言説を残していることが触れられています(p.p.241-242.)。

 また「官尊民卑」の状況に批判的だったと触れられることもある福沢ですが、「官」の立場にある人との距離感の取り方には複雑さがあり、またその背景にも政治的な問題が存在していることなど、検討が加えられている点は興味深いです。そういった意味で、本書はそれなりに分量があることもあってか、福沢の多面性、多層性を一定程度描き出すことに成功していると思われます。

 それでは、そのような福沢のいわば「影」の部分に着目し、「啓蒙主義者」としての福沢の活動を偽りのものだと否定してしまう必要があるのでしょうか。少なくとも本書は、そのような立場で書かれていません。ひろたは正当にも、特に『学問のすすめ』という本が、当時の「民衆」に与えたプラスの影響を評価しています。その意味で、本書が一方的な断罪を行っていない点には好感を持てそうです。

 評伝を読む、ということは単純にある人物の生きざまを追うだけではなく、評者によって描かれた、特定の人物に接するということです。そのような評伝の在り方にはメリットもデメリットもありますが、本書を読むことで福沢諭吉という人物に対する理解を深めることができるのは間違いなさそうです。

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