人文書を読む(6)鈴木範久『内村鑑三』(岩波新書)
前回内村鑑三自身の著作を引き続き、今回は内村のコンパクトな評伝に挑戦してみました。本書は、コンパクトでありながらも、割と直球の評伝で、内村の学生時代から晩年に至るまでの時期を、その著作の解説を交えながら紹介しています。
内村というと、本意ではなかったキリスト教の入信やいわゆる「不敬事件」が有名ですが、これらは最初の章「若き日の夢」や次の章「独り立つ」で触れらています。本書の特徴は、この割と若い時期のみならず、年齢を重ねてからの内村の活動にも紙幅を割いて紹介しているところではないでしょうか。
第3章、第4章ははそれぞれ「野に吼える」、「平和の道」と題して、主に内村のジャーナリズムの中での活動が取り上げられます。足尾銅山の問題や、いわゆる「非戦論」に関しても言及されています。最後の2章「木々を育てて」と「コスモスをのぞむ」では、主にキリスト教の信仰と伝道などに(ほぼ)専念した晩年の活動が取り上げられます。「再臨運動」などについても触れられていて、この点も興味深いところです。
本書を通読して感じるのは、2つのJ(JesusとJapan)という内村の大事にしたものの間での葛藤です。それは特に前半生で顕著ですが「不敬事件」のみならず、新潟の「北越学館」での騒動など、内村が真剣にこの2つの間で悩んでいたことがわかります。また、そこには内村が完全無欠の「聖人」ではなく、悩みを抱えつつ、また一定の「ブレ」のようなものも示しつつ人生を送っていることも示されています。この点が描けているのは本書の良い点だと思います。
また、研究者の立場からかかれたものらしく、内村の文章の文体(p.86)などについても論じられていて、その点も興味を引きます。ただ、かなり客観的で落ち着いた文章になっているため、その点は物足りなく感じる人もいるのではないでしょうか。
内村の著作は現在もなお読み継がれていますが、それらを読む際の参考として、また近代日本で独自の生き方を貫き通したひとりの信仰者の記録として、本書は意義のあるもののように感じます。
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