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【40代 就活戦線異状なし】#6 スキルの掛け算できません!だって自分の強み、ホントに強み?

どもども、Hum川(はむかわ)です。
職場の営業終了で、あえなくリストラ。最近まで就職活動してました。

今回転職をするにあたり、動画やネット記事を沢山見ました。
そこで重要だと語られているのが、スキルの掛け合わせです。

20代は広げ、
30代は深め、
40代は掛け合わせる。
これが大事だよと。なるほど。

私は当初、この掛け合わせが全くできず、消沈しておりまして。

なぜなら、一番の経歴をもつスキルに対する自信が、限りなく0に近くなっていたからです。

理由は明白。

実力は無いのに、珍しい職種だから評価されている、ハリボテ社員だったから。

褒めてもらっても、自分の強みを、強みだと認められない。

実績と認識の折り合いがつかなければ、職務経歴書も書けません。

つくづく、転職って急にやると、前のめり転倒するものなんですね。

思いもよりませんでした。
スキルを活かすために、まずマインド整備が必要になるなんて。

今回はそんなお話。
それでは本編!いってみましょー。

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制作会社との窓口を担当。プロのチラシに修正を入れちゃう。

所変われば、評価も変わる…けど。

30歳手前でデザイナーをやめ、ホテルの販売促進へ転職しました。

実務経験が社内外で「やりやすい」「クォリティが高い」と歓迎され、働きやすく、いい職場でした。

フリーターから契約社員へ、そして正社員になったのもこの会社。転職としては、成功の部類でしょう。

でも…年々開いていく本職との差。どうしても「終わった自分」を意識してしまったのでした。



数年継続参加でした。

実力でとった席じゃない。

機会の多くは「役職」についてきます。 社外会議や勉強会への参加など、キャリアに有利なものばかり。

私は実力ではなく、業界における経歴の珍しさで役職が付いた、ハリボテ管理職。

「ハリボテが席を独占してる」自覚がある。

若い人や他のスタッフに機会が渡されるべきだ。会社に訴えたけれども、最後まで降ろしてもらえませんでした。




水道管のような役割でありたいと、本気で思っています。

自分では、むしろ前衛のつもりなのだが。

具体的な数字必須の、職務経歴書。

前年同月比120%を達成!…に対する自分の実績を、どう書いたものか…。 資格欄が真っ白な私は、後方支援力の客観性皆無!

ネットにはバックヤード向けのひな型が沢山あるのですが、うまく活かせません。

「資格コレクター」と揶揄する表現もありますが、自分の様な立ち位置には、絶対あったほうがいいと思いました。

「〇〇で貢献」の文字に、説得力が宿りますものね。


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職種ブルーオーシャンの底

実力があるからじゃない。珍しいから。

ホテル業界に入って以降、この認識があるために、後ろめたさを感じてきました。

そもそも、多くの職種で構成されるのがホテル。それでも地元に限れば、内製部門にデザイナー経験者がいるのは珍しい。

比較対象がないと、どうなるか。
実態はポンコツでも、「できる人にされちゃう現象」が起きるのですよ。

お山の大将に強制シフトイン!
これがかなり辛かった。


グラフィックデザイン領域は、私のキャリアにおいて最大のボリュームゾーン。スキルの掛け合わせにおいては、最大の数値を持っています。

しかし「社内にデザイナーがいるっていいね!」と喜ばれる度、私はだんだん自信を失くしていきました。

相手を騙している気がして仕方ない。
だって、もう本職としては戦力外なんですもん。

そんな気持ちで過ごすこと、10数年。

「自分の強みは〇〇です」と言えない中年(完全体)になりました。転職活動において、間違いなく最悪です。


本来なら、「十分に評価されるぞ。ここが自分の生息圏だ」と、正しい自信を持てばいいだけでした。

でも、それができなかった。

自分の経歴に、そもそも強い劣等感があったからです。


穏やかさは、致死量の麻酔

私はデザイン業界を、辞めたのではありません。過酷さに耐えきれず、敗走してきたのです。

シビアな苦しみのない「場外市場」。作ったものは、全て喜ばれました。
こんなに楽な世界があるとは、想像もしなかった。

このまま定年まで、のんびり暮らせらばいい。
本気でそう考えるようになっていきました。


けれどこの逃げてきた事実は、自分の一番の土壌(スキル掛け算の、一番数値が大きいところ)に霜を降ろし続けました。

芽吹きを拒む、終わらない冬を招いたのです。


冬の中で訪れたのは、自分への無関心。

穏やかな暮らしを守りたかった私は、強い守りの状態に入りました。

自分に期待などしない事。それさえ守れば、緩やかに朽ちていくことができると、信じていたのです。

しかし、穏やかさは麻酔なのですよね。しかも、致命的な強さの。


麻酔が切れたとき、痛いだけならまだマシです。

かろうじて生きているだけで、実は取り返しのつかない状態になっていることだって、あり得るからです。


グロテスクな表現ですが、人間ケバブ。
包丁を握っているのは、時間。そして自分。


もし最悪な段階に至ったなら。
いっそ目覚めないほうが、幸せと言えましょう。

安定した穏やかな生活。
でもその実態は、ただのチキンレースに過ぎなかったのですよ。



スキルがツールになって、冬が終わる。

「何かを作る時、自分はグラフィックデザイナーである」

自分の中にあった原則です。大した理由はありません。そういう人生を歩いて来たからです。

なので、デザイナーではない自分がモノを作っている日常に、まがい物感が付きまといました。

フェイクである自分に、どうして自信がもてましょうか。

けれど、このフェイクラベルが、べりっと剥がれるタイミングが来ました。
SUNABACOの卒業制作です。

衝撃でした。"デザイナーじゃない自分"が、目的を達成する物を作った事が。この驚き、お分かりいただけるだろうか。


プログラミングスクールの時は、酷かった。
コードがほとんど書けなかったので、写真探しや進行表づくりで頑張るしかありませんでした。

続くデザインコースは、さらに愉快です。制作したのは、ホワイトボードを素材にしたアナログツール。「The 物(ブツ)」。デジタル不在。

開眼です。
何かを成すにあたって、自分は色々な役割をとって大丈夫なんだ、と。

「転職は多い。でも職種は固定」の人生。
だからこその、盲点だったといえましょう。

これまで得ようのなかった発見が、ここにあったのです。

支えてくれたチームメイトの皆様方、本当にありがとう。


これらの経験を経て、仕事への感じ方が変わりました。

誰かの役に立つなら、それでいい。
なら、ハリボテも悪くない。目立つ道具箱なら、より使ってもらいやすい。

自分にできない事なら、他へつなぐ。私、水道管(調整役)なので。
僻みなく、そう思えるようになったのでした。

ディティールの甘いチラシを作って、落ち込むことはもうありません。
単純な奴だと、笑ってくださいな。


この時期を境に、ボリューム0になっていた掛け合わせの数値が、徐々に復活していきました。

できる事は多い方がいい。得意なら、なお良し。好きな事なら、最高だ。

この開き直りが、このあと応募職種の絞り込みに繋がっていきます。

スキルを活かすには、マインド整備がすごく大事。そう思ったのは、この体験からなのでした。


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残業200時間。

20年前は、別に珍しくもない数字です。でも私は耐えられなかった。

ブランクを経て、フリーターで社会復帰。
訪れたハローワークで、専門学校の就職課の先生に再会しました。

卒業後5年も経っているのに、先生は私の顔を覚えていてくれました。
そこで交わした雑談は、付箋がついて記憶に残っています。


「そうか、そうか。他の生徒たちも、ずいぶん業界を離れたと聞いているよ。こう言ってはなんだけど、Hum川は体が先に壊れてよかった。」

「こんな業界に送り出して、申し訳なく思っている…ごめんな。」

自分も今年で退職するんだ、と言った先生は、その大柄な体が半分透き通って見えました。

「謝らないでください、先生。
いいんです。私、人材なんかじゃ、ないですから。

単なる、消耗品ですから」


20代の、無邪気な発言。
道徳も心もない、ただの機械的な閃きでした。


賢くなってるはずの、40代。

私はいまだに、グラフィックデザインに携わっており、
さらに広義のデザイナーになりたいと思っています。

もしまた、奇跡的に先生に会えて、そう伝えたら。

今度は、いい表情を見られるでしょうか。
それとも、こりない奴だと呆れるでしょうか。

うん、楽しみです。


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《今回のまとめ》

穏やかな日常に潜む、安定→無気力のデスコンボ。転職時に自分を超安売りする原因になるので、早めに抜けておくのが吉!です。

最後までお読みいただき感謝、感謝です!

【よろしければ、帰り際にスキ❤️を頂けると、勇気がでます!】
ではまたー。

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