見出し画像

平成の旅路 その1

西暦2000年中学校一年生の春
放課後いつものように下校しようと学校の
校門をくぐると、当時の帰宅部仲間の1人であるワッ君が早速両脇を抱えられて強制連行されていった。

おそらくヘアーワックスで
某ハンター漫画の主人公かと見間違うくらいツンツンに髪の毛を逆立てていた事が原因であろう、校門での頭髪検査に引っ掛かったのである。

頭髪検査と言っても学校の先生方が行う
生徒指導的なものでは勿論なく、
自称◯尾一家と名乗る不良集団達が自主的に行っている毎年恒例の行事らしい。

そんなことはつゆとも知らなかった私を含めた帰宅部仲間達の中に数十人の不良集団にの特に強そうな二人に首をガッツリ回されて引き摺られていくわっ君を助けに行こうとする勇猛果敢な勇者などは勿論現れず、
かと言う私はおろしたての当時流行っていた
ベッカムヘアーが頭髪検査に引っ掛からなくて良かったと心から胸を撫で下ろすばかりである身長140cm前半のチビであったので
そそくさと難を逃れた帰宅部仲間達と帰路を急いだ。

次の日の朝登校すると、そこには見事なまでの青あざとたんこぶを右目上辺りに作った
ワッ君が昨日までとは打って変わって髪の毛がわっ君のテンションと同調するかのようにグッタリとこうべを垂れていた。

少し前書きが長くはなったが、中学生にもなると原付にも乗れるんだなぁと勘違いする程に、私の進学した二十一世紀初頭某横浜市内の公立中学校は中々に世紀末ではあった。

校内には至る所に落書きや破損が見られ、
全校生徒の殆どが茶髪か金髪に髪を染め上げていた。某ごくせんやクローズのモデル校かな?
と見紛うほどに治安が悪く
ピアスの数をいかに安全ピンで増やしていくのかと喧嘩の強さとどの女子とセックスをしたかが学校内の主な男子のステータスであり、それ以外の所謂普通の一般生徒達は突如牙を剥く理不尽な暴力に日々怯える小動物の暮らしそのものであった。

授業中にエアガンを持った不良集団が乱入してきて弾を乱れ打ったり、ただ窓越しに目があったからという理由で先輩が教室まで乗り込んできて男子を並ばせて順番に殴っていくなんて事は日常茶飯事であった。

かく言う私もそんな環境をなめていたのか慢心して慣れきってしまったいたのかは定かではないがおろしたてのadidasの銀のオールスターを何の警戒もせずに履いていってしまい、ものの二日で盗まれ上履きのまま下校して泣いた夜もあった。

ここで突然のタイトル回収なのだがなんとあの燃える闘魂ア●トニオ猪木も学び育ったと言われる我が誇らしい母校であると思わされる試される毎日の学校生活であった。

私も環境適用しなければと生存本能を磨かれる日々ではあったが、周りの環境を言い訳として、これ良しとばかりに飲酒喫煙から夜更かしなどの不良行為をついに解禁し、その間喧嘩や窃盗で警察にお世話になる事は正直一度や二度では済まなかった。

こうして私はこのまま平成の世の不良街道をこのまま猪突猛進に進んでいくのかと思われたのだが、なんと思わぬ形でその道は頓挫する事となる。

田舎の警察官産まれ元ヤン育ちでもある私の父は、昔の自分の様に徐々にグレていきこのまま世間様にどんどんと迷惑をかけて行く長男を見て、この環境は教育に良くないと考えてくれたのか、それとも50歳を前に財を為した証としての自分の城が欲しくなったのかは正直定かでは無いが、突如同じ横浜市にある一つ隣の区に
新築高級マンションをローンで買った。
3LDK14階建最上階角部屋でなんと億ションである。
それまで弟と寝床を共にしていた二段ベッドを即座に解体し、十四歳にしてにして産まれて初めて自室を与えられたのもこのタイミングであった。

丁度この時は世間の景気も良くいわゆるバブル全盛期で、父の経営する美容室の店舗も都内に同時に三つも構えるまでに成長を遂げており我が家の家計簿的にも最盛期であったのは間違いない。
それに伴い私は中学校二年生に進学するタイミングで隣の区の公立中学校へと転校する運びとなり、私の横浜ヤンキー伝説中学編は唐突の幕となったのである。

転校先の中学校は流石高級住宅地と呼ばれる
地区にあるだけあって、同じ横浜市内の公立中学校なのに一つ区跨ぐだけでこんなにも環境が変わるのかと思わされるくらいの違いがあり
茶髪や金髪など全校生徒見渡してもなんと
私一人だけしかおらず、授業中に寝るだけで
不良扱いの環境の中で私は明らかに異物そのものであった。
それでもそんな私がその環境では割と新鮮だったのか転校先の生徒達には割と歓迎されていた。そんな中でも普段よくつるむようになった友人Yは私のせいで最近生活態度が悪くなってきていると三者面談の際に担任から親に言われたりしたらしいが結局今でも私に連絡をくれる数少ない友人の一人となった。

そんな中でも後から何人か私と同じように転入してきた通称「転入組」は私と同じようにこの真面目すぎる環境にあまり馴染めず、よく一緒に学校をサボってはつるむようになったりしていた。
その中の一人に機械やアニメ、飛行機や乗り物などとにかく尋常じゃ無いくらいに色々詳しく今でいうオタク君という奴がいた。
オタク君は村田と呼ばれており当時皆が揃ってMDプレイヤーをこぞって使っていた時代にiPodを颯爽と使いこなし、学校にPDA端末を持ち込んでは海外のエロ動画や◯田さんの首斬り動画などをよく見せてくれたりなど今思うと最先端を行っていたと思う。
彼の家へと遊びに行くと漫画やアニメが所狭しと並べられており、益々私は興味を惹かれていった。
そんな最中夏休みの映画祭りか金曜ロードショーか記憶は定かでは無いが、
「新世紀エヴァンゲリオンAirまごころをきみに」
の再放送をたまたま見た私は目と口をアングリと開けたまま食い入るようにその画面に見入った。
落ちる綾波の腕、セントラルドグマ、絶叫するアスカ。
これまでアニメと言えばポケモンやデジモンなどのいわゆる子供向けアニメくらしいしか見た事が無かった私にとってまさに衝撃的出会いであった。
丁度夏休みということもありエヴァの世界に完全にのめり込んだ私はそれからサッカースクールに行くふりをしてはオタク君の家に行きエヴァのTV放送版や更に勧められた攻殻機動隊鑑賞会を他のオタク仲間とリプトンのミルクティーの空き箱がそこかしこに捨てられている汚くてカビとタバコ臭い狭い部屋にギュウギュウ詰めになってはあれやこれや言いながらアニメ鑑賞会をするのが主になった。

元々漫画に関しては母方の従兄弟が田舎で古本屋をやっていたのもあって毎年全巻セットで色々送られてきたり、帰省の際にはいつも漫画を持ち帰っていたのでそこそこ詳いつもりではあったが、所詮少年少女漫画止まりであった私はまだまだこの沼は深いぞと思い知らされたきっかけでもあった。
これに伴いオタク趣味が加速。
気付けば漫画とアニメとラノベなどに夢中になっていった。
今では一般人にも名を知られるようになったコミックマーケット通称コミケにも馳せ参じては同人誌を買い漁り、遂には販売側で参加までして同人グッズを作って売り捌いたりと中学を卒業する頃には立派なオタク君に私もなっていた。

そんな親も全く予想度にしない角度へと成長を遂げていた私は当然サッカーやヤンキー活動などもはやそっちのけで、もちろん勉強はおろか学校の授業すらマトモに受けていなかった。

高校進学に関わる内申書の点数に最低点の1が何個も付いていた私に進学できる高校は当然限られていた。
「私も長い教師生活をしていますが生徒の成績表に1をつけるのは貴方が初めてです」
と数学担当の担任教師に言われた際には、
「じゃあ付けんなよ!」と漫才師ばりのツッコミで吐き捨てたり、教室のロッカーの上で授業中にベンチコートに包まれて寝る私の授業態度と、テストの回答欄で大喜利ボケ回答を連発しては生徒指導室に何度も呼び出されていた私に行ける高校が存在するだけまず奇跡であった。

オタクになったからと言って前の学校からの生活習慣が当然突然抜ける訳ではなく、今では理不尽と叫ばれるようになってきてはいるが
金髪にブリーチしきった私の髪を黒に染め直して来いと毎日生徒指導室で怒鳴られ、
興味の無い授業は一才聞かず提出物も一切出さない。意味不明な事を言う教師には何度も楯突く立派な問題視であったと思う。

当時の私の中学3年最後の内申書は
国語4数学1英語2社会5理科2体育5技家庭5音楽4
とこんな感じであった。平均すると結構良い感じなのだが1が一つでも含まれると成績だけの推薦で行ける高校は何処にも無いと既に告げられていた。

正直高校進学も勉強嫌いな私にとって最早どうでも良かったのであるが、父親の昔の夢だった海外留学の話に興味をそそられた私は、
海外の高校なら行ってもいいと両親と何度か留学説明会に参加したりもしたが結局予算との兼ね合いで叶う事はなかった。

しかし私の幼稚園の頃からの一つ上の幼馴染が進学した私立の高校が最近女子校から男女共学になり特にサッカー部に力を入れているとありその幼馴染の紹介と何度かの練習参加で一応実力が認められ、サッカー推薦と言う形で唐突に高校進学が決まったのであった。
サッカー推薦なので学科試験はパスで入学出来るがサッカー部は辞められないとい条件での高校進学である。
半ば諦めていた高校生活を受験もする事なくすり抜けてラッキーと当時は思っていたが

しかしこれが後に人生最大の後悔をする事となる悪魔の契約だと知るのはまだ先の事であった。


面白い奴だと思ったら少しでもサポートしていただけると幸いです🙏 そのお金で旅費貯めて各国の体験記なども書きたいです🥰