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嵯峨野綺譚 ~篁(たかむら)の井戸 vol.1~

 どこか甘い香りのする晩春の夜の空気に乗って「シャリン、シャリン」と鉦の音が聞こえてくる。久々に聞く鉦の音だった。
 僕は鉦の音のする御旅所(おたびしょ)の方に向かって歩いていた。

 5月の下旬は嵯峨の地にとって祭りの季節。愛宕山頂にある愛宕神社と渡月橋にほど近い野々宮神社の合同祭が行われる。
 鎌倉時代に遡るという古い祭りだが、戦後は廃れて神輿の担ぎ手もいなくなり、神輿を載せたトラックが嵯峨一帯を走り回るというなんとも無粋な時期もあった。
 それが20年ほど前から復興し、人が担ぐ神輿が練るようになり、先端に鉦のついた3メートル近い巨大な鉾を上下に揺すりながら練り歩く『鉾んさん』も復活した。
 春になり祭りが近づくと、鉾を揺すって鉦を鳴らす練習が始まる。
 御旅所は祭りの基点。神輿も鉾もここから出発し、ここに帰ってくる。おんぼろの能舞台が真ん中にあって、隅には神輿や鉾の格納庫がある。いつもは子供の遊び場になっているが祭りの当日は露店がいくつか店開きする。
 そして祭りの前には『鉾んさん』の練習場となる。

 御旅所に程近いところ、はす向かいの脇道に入ったところにその診療所がある。
 診療所の前にさしかかった時、鉦の音がひときわ大きくなった。

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