嵯峨野綺譚~雌鹿のハルミさん~
家の前に竹藪があって、落ち葉を掃いてると「いつもごくろうさま」と声をかけられた。
竹藪は僕がいる道端からは一段高くなっていて声は竹藪の中から聞こえてくる。
伸びあがってみると、雌鹿が一頭僕を見下ろしていた。
「いつもありがとうね」
「いえいえそんな」
「アナタのお父様も毎日のように落ち葉を掃いてくださって。道にはみ出した蔓や雑草を刈ったり、垣根を直したり。ホントによくしていただいたわ」
「父は昨年亡くなりました」
「そうね。救急車が来たのを覚えているわ。ここ2-3年、お元気がなくなって、以前ほどお見掛けしなくなっていたものね」
「ええ。なのでずいぶん竹藪も荒れちゃって」
「でもアナタが戻ってきてすっかり元どおり、綺麗になったわ。ありがとう」
「いえいえどうも・・・」
向かいの竹藪は落柿舎と地続きで、そこには鹿が何頭か住んでいる。特に雨上がりに草を食んでいる姿をよく見かける。
「雨上がりはね、葉っぱが柔らかいの。それに濡れた体を乾かすには、ほら、ここは少し開けているでしょ」
竹藪の北側は草地になっていて真ん中に桜の樹が立っている。
「春になると、ひと足早く咲くのよね。色もソメイヨシノより少し蒼白い山桜。綺麗よね」
「今日はずいぶん近くまで寄ってきてくれましたね」
鹿たちが現れるときは道端から距離を取って、いつでも逃げられる用意をしているのが普通だった。
「お父様がいらっしゃった頃は、よくこのくらいまで近寄ってたわよ。優しい方だったわね。私たちを驚かさないようにいつも気を遣ってくださって」
「ずっとこの竹藪に住んでいるんですか?」
「そうね。もう何年になるかしら。その前は少し離れたところ。鳥居本あたりにいたのよ」
「そうなんですか?」
「あの辺りもね、少しずつ変わってきたわね。私があそこに移り住んだ頃は、周りには家なんか数えるほどしかなかったのに。今はずいぶん家が建って。今度、大がかりな宅地造成があるんですってね。もう庵から曼荼羅山が見えなくなるかもね」
「いおり?」
「そうよ。庵。八体地蔵から少し清滝街道に向かって行ったところ」
「あなたは・・・」
「今はね、雌鹿なの。雌鹿のハルミさん。輪廻転生っていうでしょ」
二尊院の方から人力車がやってきた。
「ここの竹藪にはね、ときどき鹿が出てきます。今日は見れるかな」
「あら、元気なヒトたちがやってきたわ。それじゃね。どうもありがとう」
ひとつウィンクをして、ハルミさんは叢の中に帰っていった。
その後も雌鹿を見かけるが、声をかけられることはない。
(了)