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嵯峨野綺譚~ゴボテンと山越えの坂~

ゴボテンはちょっと嫌なところのあるやつだった。

当時流行っていた人生ゲームやモノポリーなんかのボードゲームをやっていると、ルールの抜け穴のようなものを見つけては姑息な駆け引きをやって優位に立とうとした。
北嵯峨の観空寺あたりにクワガタを採りに行っても、クヌギ林に近づくと抜け駆けをして獲物を独り占めしようとした。
勉強はまずまずできた方だったがずば抜けていたわけではない。
小柄で頭が大きくてどこか爬虫類じみた顔つきをしていて、身のこなしがいかにもギクシャクしていた。
スポーツは苦手。

昭和の時代、このタイプがクラスにいるといじめのターゲットになることがしばしばだったが、ゴボテンの場合は地味な性格だったことが幸いしたのか「ゴボテン」という如何にもイケてない仇名を奉られただけで男子からも女子からもほとんど黙殺されたような扱いだった。

家が近かったこともあり、僕は何故かゴボテンと仲が良かった。
というかゴボテンの方がなぜか僕になついてきたという方が正確だろう。

うちに来て将棋をやったりボードゲームをやったりしたが、将棋は僕の方が強かったのでゴボテンはじきにやりたがらなくなった。
ボードゲームではさっき言ったようなありさまで、ちょっとむかついたりしたが「まぁいいか」と我慢できる範囲だったので一緒に遊んでいた。

僕がゴボテンの家に遊びに行くと同じように爬虫類顔をした両親や姉が大変歓待してくれた。
あまり友達のいない息子や弟のところに遊びに来てくれて嬉しかったのかもしれない。
なぜだか昼間っからおでんを食べさせられて、それが我が家のおでんとは随分違った味付けだったので閉口した記憶がある。

小学校6年生も3学期が半ばを過ぎたころ、「ゴボテンが有名私立中学校に合格した」といううわさが流れた。
「ホンマかいな・・・?」と皆は半信半疑だったが、やがてそれが本当だと知れても、素直に祝福するクラスメイトはあまりいなかった。
「へぇぇ。ゴボテンがね」とやっかみ混じりの冷ややかな反応をする者が大半だった。

ゴボテンは地元の中学に進んだ僕たちの前から姿を消し、ゴボテンという「どんくさいやつ」が存在したという記憶もまたいつしか消えつつあった、たぶん中学2年の冬。
3学期もそろそろ終わりに近づいたころ、ゴボテンが亡くなったといううわさが流れた。

京都市内を東西に走る一条通りの西の端は嵯峨の釈迦堂前あたりから始まる。
大覚寺の門前をかすめて広沢池のほとりを過ぎると坂道にさしかかる。
坂を上ると鳴滝とか福王寺といった地名が続き、下りに入ってしばらくいくと巨大な仁和寺の山門に至る。
この坂のことを地元の人は「山越え」とか「山越えの坂」と呼んでいる。

ゴボテンはこの山越えの坂で亡くなったという。
冬の寒い朝、凍った路面で自転車を滑らせて頭を打ったのだそうだ。
ゴボテンは自転車で、私立中学校に通っていたらしい。
葬儀がいつ行われたのか、僕の周りは誰も知らなかった。

その朝、僕は所用があって原付で一条通りを東に向かっていた。
冬の寒い朝、水の抜かれた広沢池のところどころ残っている水溜まりには氷が張っていた。
道は山越えの坂にさしかかった。
「凍っとるかもわからんな・・・」
スピードを落とした。

坂の上から自転車に乗った高校生が降りてきて、坂を降りきったあたりでブレーキをかけた。とみるや後輪がロックして自転車は見事にスライディング。横倒しになった。
僕は停車して原付から降りたが、高校生に駆け寄る間もなく彼は起き上がり、肘の辺りを痛そうにかばいながら、そのまま再度自転車にまたがって走り去った。

「前後に車が来とらんで良かったですなぁ」
振り向くと広沢池に隣接する宗教団体の施設の門衛が立っていた。
「北嵯峨高校生ですな。ひと冬に二人か三人ああやってコケますな。夏はエエんですが、冬はね、凍りますんでね。遅刻気味の子がスピード出しとると危ない」
「そうですか・・・」
「でももう十数年、ここで門番やっとりますが、不思議と大怪我した子はいませんな。ウチの教祖のご加護とは申しませんが」門衛はにやりと笑った。
(もっと前には一人死んでますがな)とは口に出さなかった。
「上りでコケた子はいませんか?」(ゴボテンはたぶん上り坂で転んだはずだよな・・・)
「いいや。上りでコケた子は見ませんな。やっぱり下りでスピードに乗って降りてきて・・・。っちゅうパターンが多いですな。上りでコケるのはよっぽどどんくさいでしょ」

そのどんくさいゴボテンのご加護なんやで。きっと。

僕は原付のエンジンをスタートさせて、ゆるゆると坂を上り始めた。
(了)

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