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ルームメートとの生活 日本人とは。。。

2件目の滞在先はブルックリンのキャロルガーデンだった。一軒家の半地下に部屋を借り、キッチンとバスルームはシェアする形だった。今度のルームメートはアメリカ人とオランダ人の夫婦にシーズーが二匹。上の階には若い女の子が2人でシェアしていた。日本ではいつも犬といたので、小さなシーズーたちが帰ると迎えてくれる環境はありがたかった。職場まではバスでも地下鉄でも歩いてもいけた。天気の良い日は歩いて出勤、帰りはスミスストリートを歩きながら、晩ご飯を仕入れて帰ったりした。しかしここでの滞在がアメリカに生きる日本人として目を覚まされる経験となった。

アメリカに来て1年が過ぎていた。それまでに日本人として苦労したことはなかった。寿司やラーメンブームもあり、日本から来たと言うだけで、食べ物の話になったし、ルームメートを見つける時も、日本人は綺麗好き、静かだなどのイメージもあり、断られることがあまりなかった。そんな中で、オランダ人のルームメートのお父さんがオランダから遊びに来ることになった。それを事前に教えてもらったのだが、そこで忠告がひとつあった。彼のお父さんは昔第二次世界大戦の頃、シンガポールに滞在しており、日本兵に捕まり捕虜として奴隷のように働かされた経験を持っていたのだ。いまだに日本人への怒りが収まっていないと言う。新しいルームメートが日本人だと話した時も猛反対されたと言う話だった。それまで私は中国や韓国で反日感情がいまだにあることは知っていたが、中国人や韓国人の友達ともそう言った話をすることはなく、その事実を今まで目の当たりにすることがなかったのだ。そしてルームメートのお父さんがニューヨーク入りした。私はどんな顔で対面すれば良いのかと正直緊張して前日は寝られなかったのを覚えている。初日は歓迎のバーベーキューパーティーが開かれ、私も参加した。ルームメートのお父さんは、私に挨拶した時に、昔辛い経験をしたせいで、あなたにはフレンドリーにできないかもしれない。けれど、あなた個人が悪いのではないことはわかっていると言うことを最初に話してくれた。その後も私はあまり知識がないことを誤った後、もし彼が日本人の私に話したいことがあるなら聞くし、話題を避けたいのであればそれでも良いと言う話をした。そして私もできるだけ普通に会話をできるように努力をした。最後には少し打ち解け、最初の緊張感は無くなったのだが、この経験は私にとって、とても大事なものとなった。

私は小さい頃にアメリカのフルタイムの日本人学校に通っていた。日本の教科書に日本から派遣される日本人の先生。クラスメートもほぼ日本人であった。そこで学んだのは、私は日本人であること。現地校との交流会では餅つきをしたり、コマやけん玉、お手玉に折り紙をアメリカ人の子供たちに教えたものである。普段も休み時間にもクラスメートとコマを回して遊んでいた。日本に帰国後、日本の子供たちはみんなそうやって遊んでいると思っていたので、逆に日本人らしからぬ日本の子供達にカルチャーショックを受けたと言う笑い話もある。また、パールハーバーの日は学校から外出をする際には、気をつけるように学校から注意が出ていたのを思い出した。子供の頃はそれが何を意味するのかわかっていなかったのだが、ルームメートの家族と会うことで、アメリカにはいろいろなバックグラウンドを持った人が集まっていること。日本人のイメージは必ずしも良いものではないと言うことを改めて学んべた良い機会となった。アメリカではマイノリティーの権利が毎日のように叫ばれるようになった2020年。あのバーベキューの日から長い月日が流れたが、幸いにも私はその後もマイノリティーとして嫌な思いをすることはなかった。しかしどんなバックグラウンドの人に出会うかわからない。話してみないとその人がどんな人かわからない。アメリカ滞在の初期段階でこの体験をできたことで、その後のアメリカでの暮らしに大いに役立ったのではないかと思う。

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