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筋肉痛=がんばった証拠!全身で感じる成長の喜び

ランニングをする者にとって、「筋肉痛」はまるで勲章のようなものだ。あの痛みが訪れるたびに、何か大きなことをやり遂げた気分になる。「がんばった証拠!」と自分に言い聞かせるが、その瞬間、階段の前で立ちすくむ自分の姿は全く成長していないようにも見える。だが、痛みの先にある成長を夢見て、我々は何度でも走り出すのだ。

ランニングをした翌朝、目が覚めると、まず最初に感じるのは全身の鈍い痛み。「やばい…動けない…」と布団の中で小さく呟く。脚は鉄のように重く、階段を降りるのもひと苦労。まるでバンジージャンプのようなスリルを味わいながら、手すりをしっかり握りしめ、一段一段ゆっくりと降りていく。「筋肉痛ってこんなに痛かったっけ?」と自問自答しながらも、どこか誇らしげだ。「これがあのランニングの成果か!」と、無駄にポジティブな自分を見つめ直す。

ランニング後の筋肉痛は、もはや体と心の共同作業のようなもの。体は「ちょっと休ませて」と悲鳴を上げるが、心は「もっとやれる!昨日の自分より一歩前進だ!」とやけに前向きだ。筋肉痛が訪れるたびに、今まで何も感じなかった筋肉がこんなにも存在していたのかと驚かされる。「こんなところにも筋肉があったのか…!」と、新たな自分の発見にニヤリとしてしまう。

だが、筋肉痛の最も面白いところは、ランニング直後には訪れないことだ。走ったその日は「意外といけるじゃん」と調子に乗って過ごしているが、翌日、もしくは翌々日、まるで時限爆弾のように突然襲いかかる。まるで筋肉たちが会議を開き、「さあ、今だ!痛みを感じさせよう!」と決議を通したかのようなタイミングでやってくる。この遅れてやってくる感じがまたたまらない。もはや「お前たち、待ってました!」と歓迎する気持ちすら芽生える。

ランニングをしていると、筋肉痛はしばしば「成長の証」として捉えられるが、実際には「昨日の自分、がんばりすぎだろ!」という体からのツッコミでもある。ポテチ片手にソファに座っていた頃の自分には想像もできなかった痛みだ。しかし、それこそが今の自分を象徴しているのだ。筋肉痛は一瞬の不快感ではあるが、その裏には「自分は変わっている」という確かな実感がある。走り続ける限り、筋肉痛は我々の相棒であり、成長の証拠だ。

そして、今日もまたランニングシューズを履き、スタートラインに立つ。「今日はどんな筋肉痛に出会えるのか?」と、ちょっとしたワクワク感を胸に秘めて走り出す。痛みを感じるたびに、「昨日よりちょっと成長している自分」を噛みしめながら。筋肉痛が訪れるたびに、心の中でガッツポーズをしながら。今日もまた、全身で感じる成長の喜びを味わい尽くすのだ。

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