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【短編小説】夕日色の島【改訂版】

過去に公開していたものを改定しました。

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目を覚ますと同時に、頬にひんやりと濡れた感触を覚えた。枕にある小さな染みを見付け、頬のそれが涙の跡だとようやく気付いた。

 夢を見ていた。思い出せないけど、とても悲しい夢。悲しくて悲しくて、私は夢の中で子供みたいに泣きじゃくっていた。この涙は、たぶんそのせいだ。

最近、よく夢を見る。内容はあまり覚えてないけれど。

体の奥から欠伸が溢れ出た。再び布団にもぞもぞとくるまった。
しかし、またあの夢がむくむくと蘇ってくる気配を感じて、私は慌てて飛び起きた。
目を擦りながらカーテンを開ける。久しぶりに朝日が山から顔を覗かせていた。

珍しいな、空に雲があまりない。
窓を開け、肺いっぱいに外の空気を吸った。朝の匂いが体中に染み渡る。
うん、今日はいい天気になりそうだ。

階段を降り、キッチンに入る。戸棚から大きなパンの塊を取り出し、ナイフで適当に2枚切り取った。それからチーズの欠片を半分に切り、それぞれパンに乗せた。
 
「アベル、ご飯ー」
 
私がそう庭に声をかけると、彼はすぐにパタパタと駆けてくる。そしていつも通り私の前に座り、そのシッポを振ってみせた。その褐色の目はパンの乗った皿をじっと見つめている。これも、いつもの通りの光景だ。
 
「よし」

私の声と同時に、アベルはあっという間に皿のパンとチーズを平らげた。

「相変わらず良く食べるね」

私は呆れがちに笑い、私の分のパンも半分ちぎり、彼に皿に入れてやった。彼はそれも鮮やかにペロリと片付け、再びしっぽをぱたんとやってねだった。

「だめ。あとは私の分」

私はアベルの羨望の眼差しを受けながら、手元に残ったパンを頬張った。


私が皿を片付けていると、急かすように玄関でアベルがウォン、と一声鳴いた。

「待ってて、今行く」

私は家を出て自転車にまたがり、走り出したアベルの後を追った。

海岸沿いに伸びる道を、アベルは軽やかに駆けていく。私もその後に続く。ひび割れたアスファルトを走り、風を切る。潮の匂い。
なびく髪に、朝の光は柔らかかった。

 
 ●

 
海岸から少し奥まった所に、集落を見付けた。どれもこの辺りではよく目にする、昔ながらの海辺の家だった。木造で金具は潮風で錆び付いている。何件かは崩れかけていたものの、多くはまだその姿を保っていた。

「ここら辺はまだ大丈夫だな…」

私は誰に言うともなくそう呟いた。そして、なかでも一番その姿をしっかりと保っている家に入ることにした。

玄関の戸はすっかり錆びていて、なかなか開かなかった。私は何度も叩いたり蹴ったりして、しぶとく動こうとしない玄関の戸を金具の悲鳴と共になんとかこじ開けた。

戸の向こうには、ひどく静かな空間が広がっていた。入り口の土間には、何足かの靴やサンダルが幾重ものクモの巣にまみれて散乱していた。その先に続く廊下や居間には、すっかりホコリが積もっていた。そして、この家に住んでいた人のものだろう本や衣類、家具などが、部屋のあちらこちらに少しだけ残されていた。
沈滞した空気が、家の中全体で層をなして積み重なっている。この家の時間も、すっかり止まっていた。

「バウバウッ」

アベルは楽しいそうな声を撒き散らしながら、家の中を駆け回った。

「もう、足汚れちゃうよ」

彼は私の小言など気にも留めず、ホコリだらけの床を足跡で塗り潰していった。私はため息をつき、彼を放ったまま、キッチンを探した。

見つけたキッチンにも、例外なくホコリの層は溜っていた。私は手当たり次第に戸棚を開けていった。だいたいはガランとし、割れた皿やカップの破片があるだけだった。

「収穫なし…」

一人言ち、ため息をつく。
そのとき、棚の奥に差し込んだ指の先に硬い感触があった。掴んで引っ張り出すと、それはところどころ錆びかかった缶詰だった。
 
「やった!」

小さく歓声をあげながらそのラベルを見る。色褪せたラベルの印刷からは、うっすらと丸っこい絵のシルエットが見てとれた。そしてその周囲を「OUTOU」という文字が縁取っている。

「桃缶!」

私はガッツポーズをとった。そして更に同じ場所を探った。

結局この家で見つけたのは缶詰六つだった。桃缶二つと、乾パンの缶三つ、そして魚と思しきラベルの缶が一つ。他はカビだらけの食べ物だった何かもあったが、そっと扉を閉めた。

今日は久しぶりの大収穫だった。缶詰を全部自転車の籠に詰めた。

「アベル、もう行くよー」

そう呼ぶと、家の中から体中ホコリまみれのアベルがやってきた。嬉しそうに舌を出している彼を見て、私はため息をついた。


 
 ●

 
私には、好きな景色がある。
島の反対側にある岬。そこから見える景色だ。それが見たくて、毎日長い道をアベルと行く。

登っていた太陽も、もうすっかり西の彼方に傾いていた。その夕日を眺めて、私は今日もこの岬で膝を抱えている。もちろん隣にはアベルがいる。今日は、払いきれなかったホコリを少し付けているが。

私はこの景色の、特にこの時間が好きだ。
草も、土も、海に沈むビルや電柱の残骸も、私の体も、空もーーみんな夕焼け色に染まる。そして夕日は、紅々と燃える。その色はとても綺麗で、なんだか切ない。

昔、お父さんが私によく聞かせてくれた話がある。まだお父さんが子供の頃には、『秋』という季節があったという話だ。
『秋』という季節には、樹々の葉がみんな緑から赤や黄色に変わるそうだ。

「それが一面に広がって、街や山も染めあげてーーまるで夕焼けのようなんだ。あれは本当に綺麗だ。お前にも見せてあげたいよ」

『お前にも見せてあげたい』
お父さんはその話の最後に必ずそう言った。そして『また秋が見られる時代が来てほしい』とも。

この数十年で、環境はずいぶん変わったとお父さんは言った。昔は四季というものがあり、今よりずっと陸地も多かったそうだ。今は海に沈んでしまった街にもかつては人が溢れ、夜もネオンが輝き、街が眠ることはなかったらしい。

それがいつしか強力な台風が度重なるようになり、年々水位も上がり津波にも襲われるようになって。
——そして街は、死んだらしい。

街からたくさんの人々が逃れてここにやって来て、暮らし始めた。しかし、それからもやっぱりたくさんの人が災害で死んだそうだ。お母さんも、その時に。

そして、数年前。
その頃にはもう、この島で暮らす人は随分少なくなっていた。
その日、突然どこかの国の軍隊がやって来た。軍隊は、島の人達を端からみんな殺していった。いつの間にかこの国では戦争が始まっていたらしい。

その時、私はこっそり入り江の洞窟に行っていた。まだ仔犬だったアベルをお父さんに内緒で育てていたのだ。私だけが、軍隊に見つからなかったのだ。
家に帰って見たのは、お父さんの遺体だった——。
 


 ●

 
夕日はちらちらと水平線を焦がし、沈んでいった。東の空からはもう夜がやって来ていた。

「そろそろ帰ろうか」

私の声にアベルも立ち上がった。

「お父さん、お母さん、みんな。またね」

私は海に向かって、小さく手を振った。

墓碑はない。島の人全員分の墓碑を私一人で建てるなんて無理だし、遺体もほとんどが海に流されてしまっている。
お父さんも海に流した。お母さんと一緒の方が、寂しくないだろうから。
 

戦争はどうなったのか。
日本という国はまだあるのか。
分からない。何も。

お父さんの言っていた『秋』。その景色を、いつか見られる日が来るだろうか。 

一番星が輝き始めた空の下、私とアベルは来た道を歩いた。
僅かな風。カタカタと鳴る籠の中の缶。アベルの息遣い。私の足音。
遠くの波の音が私達を撫でた。


終わり

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