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お前らの山月記2

前回


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今から一年ほど前、自分がコンビニエンス・ストアを訪れた夜のこと、陳列棚の向こうから他の客の声が聞こえる。その声には聴き憶えがあった。同じ学部の、崎田という、如何にも浮ついた頭髪と服装の男であり、成績は下の下でありながら一向に悔しがる様子もない、向学心の皆無の男である。親の手蔓による裏口入学だと、まことしやかに囁かれてすらいた。
 
その崎田の隣にいる女性もまた学部の同輩である。名を川村さんといい、肩口で切り揃えた黒髪が可愛らしい女性である。髪に下品な色を入れ、厚化粧を塗りたくる破廉恥極まりない他の女子学部生とは一線を画す存在だ。唯一自分が同輩の中で認めた女性でもある。
 
暗愚な崎田と可憐な川村さんという、奇怪な組み合わせの二人がともにおり、そして買い物をするとは一体何事だろうと、自分は聞き耳を立てた。
 
「ほら、どれにすんだよ」
 
「えっと…その、つぶつぶのやつがいい…」
 
「マジで?明子って、意外とスケベなんだな」
 
「もう…そういう事言わないでよ」
 
「へへ、今日はおれのテクで最高のホワイト・クリスマスにしてやるよ」
 
自分は店を出て、頬を伝うものを拭いつつ夜道を疾走した。
恐ろしい会話を聞いてしまった。川村さんは明子という名前だったのか。違う、そうじゃない!
今夜はクリスマスで、川村さんはあろうことか崎田と身を寄せ合って、だが川村さんに限ってそんなことは、だがしかし!
これは、悪夢か。
先程流れていた店内放送が耳に蘇る。

きっと君は来ない  一人きりのクリスマス・ナイト

川村さんは自分の所に来ないどころか、崎田とイクんだよ!
やり場のない怒りばかりが駆け巡る。
口からは、崎田と川村さんが未曾有の性病に苦しむように、という呪詛がとめどなく溢れた。

そして嫁であるルイズ・フランソワーズに懺悔した。自分が少しでも他の女に、しかも三次元に対して浮ついた心を持ったことに。
 
そのとき、誰かが我が名を呼ぶ声がした。声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追っていた。無我夢中で駆けて行く中に、いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は下駄をはいて走っていた。何か身体中に力が満ち足りたような感じで、軽々と岩石を飛び越えて行った。気が付くと、背中から何かが生じているらしい。鼻も肥大化している。

少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、自分はすっかり天狗になっていた。
 
自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。しかし、どうしても夢でないと悟らねばならないと悟った時、自分は茫然とした。こんな姿では、コミケに参加などできない。そして恐れた。もし、将来、二次元の世界に行ける何らかの装置が発明されたとき、果たしてこんな姿となった自分をルイズは愛してくれるのかと。
 
自分はすぐに死を思うた。しかし、その時、遠くに民家があるのが目に入った途端に、自分の中の人間はたちまち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分は背中の翼で飛翔しており、自分の手には民家に干してあった女性物の下着が握られていた。淡い、水色である。

これが天狗としての最初の行いであった。
 
それ以来今までにどんな所業をし続けてきたか。若い女性の下着に始まり、くたびれたベージュの下着、年端のいかない子供の下着、そして使い込まれた介護用の下着まで。これ以上は語るに忍びない。

ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還ってくる。そういうときには、かつての日と同じく、2ちゃん語も操れれば、賢者タイムにもなるし、アニソンの歌詞をそらんじることも出来る。その人間の心で、天狗としての己の三次元の女性に対しての窃盗行為の跡を見、再びルイズを裏切ってしまったことを知る時が、最も情けなく、恐ろしく、憤ろしい。
 
しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなっていく。今までは、どうして三次元の女なんかにと怪しんでいたのに、この間ひょいと気付いてみたら、ワシはどうして以前、絵なんぞに夢中だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。今少し経てば、ワシの中の人間の心は、天狗の助平な心にすっかり埋もれてしまうだろう。
 

東條は、息をのんで、草中の語る不思議と猥褻に聞き入っていた。天狗になることに、些か憧憬を憶えてさえいた。声は続けて言う。
 

他でもない。自分は元来、同人漫画家として名を成すつもりでいた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところのキャラ絵と漫画数百枚、もとより、まだ世に知られておらぬ。それらの所在も最早分らなくなっていよう。恥ずかしいことだが、今でも、こんな浅ましい身となり果てた今でも、ワシは、ワシの作品がコミケで長蛇の列の下で争われながら買われている様を、夢に見ることがあるのだ。嗤ってくれ。同人漫画家になりそこなって天狗になった哀れな男を。
 
そうだ。お笑い草のついでに、即席でイラストを描いてみようか。いまでもペンを握れば少しは描けよう。この天狗に、まだかつての佐川が生きているしるしに。 そう言うと、佐川は、東條の渡したペンと紙で、己が魂を込めるが如く、線を走らせていった。然る後、会心の出来だと呟いた。
 


続く
 

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