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ドラマ『琅琊榜』で習いたかった中国語~第三集①

ドラマ『琅琊榜』で習いたかった中国語を紹介する記事をすでに4回も書いておいて、いまさらなことを言う。

もし、これまでのように2回に分けて全54話を書き続けたら、54×2=108回分の記事が必要になる。既に2話分書いたので、今回を入れてあと104回。

これを続けるのか?そして記事の公開は毎週土曜のみ。途中で他の記事を書かなかったとしても、2年以上かかる計算である。

・・・・・・・・まあ、いいか。
今回は第三話で、サブタイトルは「両家の息子」。

今儿我非打死你不可

太皇太后との謁見が終わり、梅長蘇が霓凰に非礼(太皇太后の前で手を取ったこと)を詫び、宮中を一緒に歩いていると、宦官に折檻を受ける奴婢の子どもがいた。その宦官の言葉。

今儿我非打死你不可
ーただではおかんぞ

琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~第3話
掖幽庭の奴婢を打つ宦官

「今儿」は北京方言で「今日」、「非~不可」で「ぜひとも~でなければならない」というフレーズ。勉強した記憶はあるけど、すっかり意味を忘れていた。「非」と「不可」の間の「打死你」は、「お前を打ち殺す」である。つまり、直訳すると「今日私がどうしてもお前を打ち殺さなければならない」。

非常に物騒である。字幕は意味が変わらずとも直接表現を避けている。失敗した奴婢の子どもを𠮟りつけて虐待しているのだ。そこに靖王がやってきて宦官を止める。宦官はへりくだって詫びる。

だが、皇太子の母親である貴妃の名前を出して、靖王を牽制するような態度を取った。この様子に、霓凰がキレて宦官をその場から追い払った。不遇の皇子である靖王の立場がより悪くならないようにする配慮であった。

你叫什么名字?

梅長蘇は打たれていた奴婢の子どもに名前を尋ね、子どもは「庭生」と答えた。罪人家族の収監場所「掖幽庭」の奴婢だから名前からすると、もしやそこの生まれだからなのだろうか。何て名前だ。

你叫什么名字?
ー君の名は?

琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~第3話
梅長蘇

鈴木京香さんの昔の朝ドラでもなく、数年前の大ヒット映画でもない。これまた中国語の初級テキストの会話文に出てくるような基本の相手の名前を聞く言葉である。中国語を大学で習った当初、こう聞かれたら通常はフルネームを答えると言われた。庭生が掖幽庭生まれなら、もしかすると苗字がないのかもしれない。

このシーンで初めて主役の3人である梅長蘇、霓凰、靖王が揃って会話する。靖王は日頃から、庭生に目をかけているという。靖王によれば、庭生はもともと名家の血筋らしい。

这本书你能全看懂吗?

庭生は奴婢だが、書物を隠し持っていた。梅長蘇がそんな庭生に言う。

这本书你能全看懂吗?
ー書の意味は分かるか?

琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~第3話
梅長蘇

「这本书」は「この本」「この書」と言う意味だが、「本」は中国語における量詞で、指示詞が着くある一つの特定のものを指す時の表現である。ここでの「能」は、第一集②の条件的に「~できる」ではなく、能力的に「~できる」のニュアンスになる。「全」は「全部」、「看懂」は「(見て)分かる」という意味。ちなみに「听懂」だと「(聞いて)わかる」である。ここでは、書の文字を庭生がわかるか聞きたいので、「(見て)分かる」の方になる。

「吗」は疑問の文末助詞であり、全体で直訳すると「この書を君は全部読んで理解できるのか?」である。教育を受けられる身分ではない庭生は首をふる。梅長蘇は学問は基礎が大事と言い、ある提案をした。

我家里有好多书,如果你喜欢我教你念书好不好?

我家里有好多书,如果你喜欢我教你念书好不好
ー(私の家にはたくさん本があるし)よかったら私が勉学を教えてあげよう

琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~第3話
梅長蘇

()の中は字幕に訳されていないため、私が付け加えた部分になる。
「我家里」は直訳すると「私の家の中」、場所を表す言葉の後ろに「里」がつくと、その場所の「中」を意味する。日本語だったら「私の家」というだけで家の中にあることも想定されるが、中国語では「里」がないと通じるけど不自然だ、とかつてソフトな声の年配の教授が言っていた気がする。

「有」は「ある」、「好多」は「たくさんの」と言う意味で、「我家里有好多书」は「私の家にはたくさんの本がある」になる。

「如果」は仮定を表す「もし~なら」で、「喜欢」は「好きである」、「如果你喜欢」の後ろには実は「书」が略されているので、「もし君が(本が)好きなら」になる。梅長蘇の自宅にはたくさんの本があり、もし庭生がそんな本を読みたいと思っていて好きなら、「我教你念书好不好?」と続く。

「我教你念书」で「私が君に読書(学問)を教える」、「好不好?」は肯定形と否定形を重ねた反復疑問文で、「良いかな?」という意味だが、ここでは積極的に誘っているニュアンスだろう。字幕では、「私の家にはたくさん本がある」の部分は時数の関係で省かれ、「よかったら私が勉学を教えてあげよう」という提案の誘い文句となっているようだ。

只要想做办法总是有的

梅長蘇の庭生への提案に、霓凰と靖王が意見する。そうは言っても掖幽庭の奴婢に自由はないし、滅多な事で自由にはならない。梅長蘇に学問を習える状況になるわけがない身分だ。方法を問われた梅長蘇は言う。

只要想做办法总是有的
ーその気になれば見つかります

琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~第3話
梅長蘇

「只要想做」が前半部分で、「办法总是有的」が後半。
「只要」は「~さえすれば」、「想+動詞」が「~したい」で、「做」が「する」だから、「したいと思いさえすれば」になる。「办法」は方法、「总是」は「いつも」、「有的」は「ある」と話し手の肯定的なニュアンスを表す語気助詞「的」を合わせて、「ありますよ」の感じか。全文を直訳すると「したいと思いさえすれば、方法はいつだってあるものです」になるが、これでは不自然なので、字幕の表現がすっきりしていてわかりやすい。

那我等着看

安請け合いしたようだが、梅長蘇は実はこの時すでに勝算があった。でも、靖王はそんなことは知らないし、後の回で本人が梅長蘇に白状するが、靖王は実直な武人なので、梅長蘇のような謀をめぐらすような人物を信用していない。そのため、以下を言ってその場を庭生と立ち去った。

那我等着看
ー楽しみだな

琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~第3話
靖王蕭景琰

「那」はこれまでの回にも出てきた「では」「それでは」、「等」は「待つ」で「着」を挟み、「看」は「見る」が主な意味だが「様子を見る、判断する」などの意味を含む場合がある。

動詞と動詞の間に「着」が入った場合、意味関係はさまざまな読み取り方があるが、ここでは前の動詞の状況下で後ろの動詞が行われる意味と思われる。「待って様子をみる」ということは、梅長蘇の言う庭生を掖幽庭から自由にする方法について「お手並み拝見」と言った感じだろうか。字幕の「楽しみだな」だと、皮肉がオブラートに包まれて、皇子の育ちの良さも感じられる。

霓凰は「我也等着看(私も楽しみだわ)」と続けた。「也」は「~も」という意味である。彼女の表情と口調から、靖王よりは好意的な意味で言っているようだ。

主役たちの会話だけで3000字弱も使ってしまった。第三集の残りはまた次回に。

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