符亀の「喰べたもの」 20210808~20210814

今週インプットしたものをまとめるnote、第四十七回です。

各書影は、「版元ドットコム」様より引用しております。


漫画

児玉まりあ文学集成」(3巻) 三島芳治

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文学部の入部希望者である主人公と、唯一の文学部部員である少女が、入部テストと称して文学について思考実験的に語りあう作品。第十二回以来の登場です。というか第十二回の文章がクソすぎたんですけどなんかあったんですかこの日。

本作は文学をテーマとした単話完結型作品ではありますが、話を重ねると共に、作品全体を貫く要素も出てきました。2巻で示された世界の設定にまつわるミステリーと、この巻で大きく進展した恋愛要素です。特に世界観設定はかなり衝撃的で、しかし気になりすぎて文学要素がどうでもよくなるほどではない、絶妙なバランスだと思います。

雰囲気が強みの作品は、その良さが作品というよりも1話1話に依存しがちで、その作品をずっと追いかけるというモチベーションを生みにくいと考えています。その解決策となる、話を重ねるごとに重みが増してくるものも「ストーリー」であり、オープニングとエンディングがあるものだけを指さなくてもいいのではないか。そう思えたのが、この巻で一番の収穫かもしれません。


アオのハコ」(1巻) 三浦糀

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バドミントン部に所属する主人公は、同じ体育館で練習をする先輩に恋をした。校内外を問わず人気の彼女に釣り合うためにも、彼は高校1年生ながらインターハイ出場を目指す。スポーツもの×恋愛ものな、ジャンプの新連載です。

「ヒロインに似合う男になる」がストーリーの軸になっており、スポーツ部分は極論「がんばっています」「成長しています」で終わらせられるようにしているのが面白いところだと思います。これにより、ルールや試合展開の説明、窮地をひっくり返す必殺技など、面白く納得感がある描写が難しい諸々を省略できています。1セット何点で何セットとったら勝ちか、という説明すらしておらず、その分ストーリーやキャラの心理描写にページが割けて面白さを盛れるのはシンプルに強いです。

表情がコロコロ変わる男女ペア(主人公+幼なじみ)と比較的落ち着いている男女ペア(幼なじみ+ヒロイン)を中心に据えているのも、その出番の調整によって紙面のテンションを変えられて上手い仕組みだと思います。コマ割りも的確で、単純に漫画が上手いのもすごいですね。


パリピ孔明」(3~6巻) 四葉夕卜(原作)、小川亮(漫画)

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現代日本に転生した諸葛亮孔明が、シンガー見習いの歌に心動かされ、彼女のマネージャーとして活躍する物語。第十回で「3巻は完売して重版待ち」と書いてから買い損ねていた分を一気に読んだ形です。

漫画は音を聞かせられないので、当然歌や音の表現は難しくなります。この作品では歌が心とストーリーを動かす場面が多いのですが、その良さが読者に伝わらないと展開の納得感が下がるため、そこが刺さったかどうかという一要素が全体の面白さを左右してしまいます。

この歌の表現ですが、「空気が変わった」ことを表す背景や効果線の演出が基本だと思いますし、本作でもそれがしっかり活かされています。しかし、こうした演出はそれを隠す文字との相性が悪く、重要なコマにセリフも効果音も無くなりがちです。するとほんの少し視線誘導をミスっただけで目が滑って読み飛ばされてしまい、山場の印象が薄いぼやけた話になりかねません。正直、3巻4巻はそういった場面がいくつか見られた気がします。

一方5巻冒頭のエピソードは、音の表現を上手くストーリーで補助できていた気がしますし、話自体もとても面白かったです。リズムが合っているかというぱっと聞いただけでわかる部分を中心に据えて、観客がそこを認識してしゃべる(おかげで上手くいっているのかを読者もわかる)のに違和感を抱きにくくしているおかげで、セリフを読むだけでトーリーが追えるようになっています。なのでストーリーの山場がいつくるか予想しやすく、そこに「空気が変わった」コマを挿入しているおかげで、読者の目を釘付けにしやすくなっています。

この音の絵的な表現と、それを適切に活かすための工夫を勉強できたのは、一気読みして比較できたおかげかなと思います。


撃滅のジェノサイドギグ」 フセキ

世界的ピアニストの娘として自分を押し殺して生きてきた主人公が、転校先でヤバいジャズマンに出会う読み切りです。

こちらも演奏シーンが重要な漫画ですが、上手いかどうかは作品の納得感に影響を与えないストーリーであり、故に巧拙が伝わるかどうかはあまり重要でない展開になっているのが面白いです。唯一上手さを伝えなくてはいけない場面も、ヤバいジャズマンが独特の語彙で評価するので雰囲気で飲み込むべきところだと察っしやすい構造になっているのも、そういう工夫なのではないかと思います。今回は音とその上手さの表現についての観点から喰べましたが、ストーリー自体も面白いのでぜひリンク先からどうぞ。


恋するワンピース」(136話) 伊原大貴

「もしここに私がいたらっ!!」「やってみますか!」じゃないんだよ。


考察がまとまらずに非常に筆の進みが遅かったのですが、最終的にはそれなりになったのではないかと思います。まあ「児玉まりあ文学集成」4巻読んだときにこの回読み返して、「クソすぎた」って書くかもしれませんが。


一般書籍

「僕がコントや演劇のために考えていること」 小林賢太郎

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元ラーメンズの小林賢太郎氏が、自身の考えをまとめた本です。(初版は2014年)某騒動を受け、ラーメンズのコントも数本しか見ていない中ですが気になったので購入しました。

タイトルにもある通り、あくまで氏が考えていることをまとめた本といった感じで、読者に何かを伝えるための一冊にはなっていないと思います。そういう意味では、正直本として不合格といえるかもしれません。

ですが学びがないわけではなく、特に1度完成させたコントを寝かして後日素材として使う(P60「完成品を素材にする」)という手法には感銘を受けました。その他、私的に面白いと思った章を備忘録としてまとめます。

P23「情報を制限して、観客のパーソナルに入り込む」、P38「仕事は重ねない、重なったら机を変える」、P55「勉強に発想が負けてはいけない」、P89「劇場のサイズにきちんと反応する」、P92「観客が『芸』を感じる瞬間を織り込む」

先述の通り読者へのメッセージというよりもただ考えをまとめただけという本であり、氏のファン以外には「へー」でしかないページも多いと思います。その上で私は読んだ価値があったと思いますが、正直他人には勧めにくいですね。あとごめんなさいちょっと高いです。(1296円+税)


Web記事

『言語化』を言語化する

言語化を「頭や心にあるものを言語に化けさせ、他者に伝えること」と定義し、どのようにそれを行えばいいのかを考察したnoteです。

理想からすぐにできる1ステップ目までを覚えやすいキーワードを用いて「言語化」している、学びの多いnoteです。


2021年、言葉が持つ底力を信じてみたい(前田裕二note始めます)

上記noteで引用されていたnoteです。

構成が上手くて面白く、「どこかで『自己紹介note』をじっくりしたためたいな」という入りでパーソナルな序章への他人事的嫌悪感を減らし、箇条書きの中で出ただけの例かと思いきやそこから論を展開して話を広げ、独特な視点と熱量を感じさせる記述で読者をのめりこませ、と序盤だけで勉強になる部分が多い記事です。特に「好き語り」に持ち込む部分の展開は、どこかで真似したいですね。


「借景とは『隠す』技術である」

日本庭園に用いられる技術の一つで、庭園の外にあるものも構成の要素として取り込む方法である「借景」が、実は邪魔なものを隠す技術でもあると論じたnoteです。

筆者は情報系の方なのですが、日本庭園の技術を新たな観点から述べつつ、さらに自分の専門に交えて結んでさえいます。とても面白いnoteです。


クレしん映画の歴史を塗り替える大傑作 『謎メキ!花の天カス学園』レビュー
アラサー独身男性が本気で観た『映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』

映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園」、良かったですね。という訳でそれをネタバレに配慮いつつ勧めてくださっている記事を2件持ってきました。

映画については後で触れますが、ここではレビューについて述べます。今回のしんちゃんの映画はいい意味でこども向けで、つまり色々考えながら引いて見るよりも前のめりになって見た方が面白く、またそうさせる力があったと思います。しかし、レビューは文章を論理で組み立てるものなのでどうしても理知的になりやすく、それを見てから映画を見る人の姿勢を正させてしまうリスクもあると思います。これはゲームの宣伝にも言え、盛り上がって前のめりになるタイプのゲームをどう伝えていくべきかを考える際に、頭に入れておくべき課題だと思います。


さて、前述の通りしんちゃんの映画を見てきました。同じ日にあと2本見てきました。肩と腰が終わりました。

その中でしんちゃんが一番良かったと思うのですが、それは「これいる?」というシーンが他の映画に比べて非常に少なかった(というか体感では無かった)からかと思います。これは単にシーンの面白さ、もっと言うとそのシーンで観客が余計なことを考えられるぐらい冷めているかそうかにもよるとは思うのですが、それ以上にそのシーンが挟まれることへの納得感が大きいのかなと思っています。例えばキャラの顔見せのシーンで、「そんな性格と行動のキャラにする必要ある?」と思われないかどうか。例えばクライマックスでキャラが集結した際に、「別にお前が来る必要なくない?」と思われないかどうか。こうした疑問が演出でもないのに浮かんでしまう度に、観客のノリはどんどん悪くなってしまいます。そこが結構評判のいい映画でも多かったのに対し、今年のしんちゃんの映画では少なくとも初見でそう感じることが無かったと思います。ただし、これは「しんちゃんのノリ的にいるよな」と見逃した部分があるからだとも思いますが。

おそらくボードゲームでは、これが「フレーバーとシステムの親和性」に対応しているのでしょう。最近以前よりはフレーバーをちゃんと考えるようになりましたが、そういう観点からも、フレーバーへの違和感を無くす作業が必要なのだろうと思いました。新作に活かします。

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