見出し画像

懺悔

男は、山を登っていた。

男は日本人にしては浅黒く、鼻は高く、険しく前を見据えた両目は顔の中央に若干寄っている。おそらく彼に出会った人はまず端正な印象を受けるだろうが、どこか不均衡な感情が芽生えるのを抑えきれず、彼を正視し続けることが出来ないであろう。彼の全身から滲み出る自己否定の情調は他人を不安にさせた。その男が今、憑依されたかの如く、一心不乱に山を登っている。目にかかる黒々とした髪が汗で額にへばりつき、平常はめったに歯を見せて笑うことのない口は酸素を求め薄く開いている。樹木の根の隆起に躓き、足がもつれた。しかし男は歩みを止めない。

男は、深く樹木に囲われた細い獣道で、突然足を止めた。全ての音が静止し、風は男の挙動を見届けんと息を潜めた。男は前触れもなく跪き、雑草に覆われた地面に三度接吻した。そして額を地表に擦り付け、とめどなく涙を湛え、嗚咽を漏らした。そうしたかと思うと、今度は跪いたまま、あらん限りの声で絶叫した。

「ああ、ああ、神よ!私をお赦しください!真実を、真実をお話いたします!ええ、私は罪を犯しました!神よ!私はここに自らの血肉と魂を全て、全て捧げましょう!どうか、どうか真実が明るみに曝け出される今、私は苦しみに打ち震えています!しかし言わなければならない!どうか!」

男はそこまで言うと、嗚咽で喉が詰まり地面に打ち伏せた。肩を震わせ、草と泥を掻きむしり、男はそこで息を詰まらせ息絶えるかのようにも見えたが、全身の力をかき集め顔を上げ、震える声で話始めた。

「恐ろしいことです……。私は、不貞を働いたのです。こんな男に何の価値がありましょう。しかし、恐ろしい女です。ええ、あの女は悪魔です!あの女は全てを破滅へ追いやります!そして私はそれに抗うことができない!あの女は、妖艶に、強引に、それはそれは悪魔的な力で惹きつけ、唯一無二の存在となることを妄信しているのです!私には愛しい妻があります。あの女の罠に罹るまでは、ごく普通の、幸福な夫婦でした。それが今は、ああ!あの女は私の生き地獄の灼熱に焼かれのたうち回るのを楽しんでいるのです。そして、わざわざ傍まで来て、『情慾が過ぎたかしら?』なんて嗤うんです。ああ神よ!私は悪魔に魂を売り、愛する妻を冒涜しました!死をもって償うことも許されず、狂気的な邪豹に翻弄され、今も地獄を、終わりのない地獄を生きているのです!どうか、お赦しください!地獄からの解放を!神よ!」

男の懺悔の最後は、喀血せんばかりの叫びであった。男は力尽きたように身体を投げ出し、ぐったりと地面に伏した。濡れた頬は泥にまみれている。全ての自然は、沈黙を続けた。網を張る蜘蛛さえも息を憚った。男の悲痛に満ちた、一方で安堵さえ宿る乱れた呼吸のみが、深海のような静寂に吸収される。

もうすぐ日が沈もうとしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?