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はつ恋

―消しゴムのすり減りは恥じらいのある証拠。
 そう言われたのはいつだったけ。

 背景に桜木と舞う花びらがあしらわれた原稿用紙に文字を連ねながらふと思った。

「あ」

 『だったっけ』の最後の『っ』が抜けている。豆粒ほど小さくなった消しゴムで『け』の字を消す。ちょうどそのマスに収まった桜の花びら達は、地面に落ちて踏みに踏まれた時のように黒ずんでいた。せっかくの綺麗なピンク色も台無しになってしまう。だからこの原稿用紙は好きじゃない。

 私が通う私立桜宮学園では、この原稿用紙が伝統になっている。創立十周年記念に作られたものらしいが、綺麗なのはまっさらな状態の時だけで、書き直しが多い私にとっては消し跡でところどころ黒ずんだ原稿用紙を提出するのが毎回恥ずかしかった。また、私は文芸部に入部しており、その作文が張り出されることもあるから余計に注目を集めそうで怖かった。

 そういうこともあってか、私は中等部の時、クラスの男子によく消しゴムが小さいことから貧乏症とからかわれていた。黒ずみが薄くなるまで懸命に消していたらいつのまにか消しゴムは豆粒ほどに小さくなっていた。そこに付け込んで男子はことあるごとにからかってくる。消しゴムは真っ黒で私を闇へ吸い込むブラックホールのように見えた。

 高等部に上がった現在でも、私の消しゴムは豆粒大のままだった。だが、もういじめてくる者はいない。再び消しゴムに手を伸ばすと、取り損ねてコロコロと地面に落ちて転がってしまった。慌てて拾おうとした時、ある思い出が頭の中に過った。

 中等部一年生の時、私は誰もいない教室で原稿用紙に文字を連ねていた。間違えた。消しゴムに手を伸ばそうとした時、ある考えが頭に浮かんだ。消しゴムを失くしてしまえば、新しい大きな消しゴムを使える。その瞬間、消しゴムを人差し指でピンと弾いた。黒ずんだ豆粒は猛スピードで転がって、視界から消えていった。これでからかわれることはない。再びシャープペンを走らせようとした時、机に握りこぶしが置かれた。その手が退くと、黒ずんだ小さな消しゴムが机の上に現れた。

「はい、落とし物」

 見上げると、文芸部の部長・佐倉先輩がこちらを向いて微笑んでいた。

「……ありがとう、ございます」

 なんで拾っちゃうの? 喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込みながら、私はつくり笑いをする。ぎこちなさが伝わってしまったのか、佐倉先輩は「どうした?」と優しく訊いてくれた。男の人にこんなことを話すのは少々躊躇われたが、覚悟を決めて事の経緯を話した。すると、佐倉先輩はどこか遠くを見つめて「なるほどね」と呟いた。彼は元々端正な顔立ちをしているが、その時の表情は窓の外に見える桜の木と相まって一層綺麗に見えた。佐倉先輩は私に向き直ると、こう言った。

「消しゴムのすり減りは恥じらいのある証拠」

 唐突な言葉に私は「え?」としか言えなかった。佐倉先輩は構わず続ける。

「消しゴムが小さいってことは、もちろん物持ちがいいって印象も与えるけど、生まれた言葉を人に見せるのを躊躇して、さらに良い言葉に仕上げていく努力ができる『恥じらい』を持っている人とも見れるっていう意味の言葉だよ」

 佐倉先輩は言い終わると、また小さく微笑んだ。

―良い言葉に仕上げていく努力ができる『恥じらい』

 心の中で繰り返すと、胸が温かくなった気がした。返す言葉に困っていると、佐倉先輩が先に口を開いた。

「それに、男は女の子の恥じらう姿に引かれるものだから。そいつらもちょっかいかけたくなっちゃったんじゃないかな。俺も草村のそういう一生懸命なところ」

 その瞬間、急に突風が吹いて、教室中に大量の桜が舞い込んできた。

「好きだよ」

 辺り一面に広がったピンク色は先輩の微笑みを優しい美しさで包み込んだ。その光景は絵画のようだった。少しの鼓動とともに私の目に焼き付いて離れなかった。この時、自覚していなかったが、私は彼に恋してしまったのだった。

 そして月日は経ち、現在私は高等部三年生になった。先輩はいない。だが、あの時を思い出し、こうして文字を連ねては消している。拾い上げた消しゴムは淡いピンクのはつ恋色に染まっていた。

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