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読書感想文『落下する夕方』(江國香織 著)

人生がハードモードになっている時や身近な大事な人の不在による喪失感に苛まれる時、音楽や小説なんかは本当に心を落ち着けてくれると気づく。この曲、この本を書いた人もこんな気持ちだったのかなと思うことが、人の気持ちがわからない私という人間にも、少しは共感性が備わっているのかもしれないという安堵にも繋がる。
不謹慎だけど、恋人が突然亡くなってから、今の自分にピッタリな作品を本棚の奥やAmazonプライムの検索画面から引っ張り出してきて、それらをまとめたものを死別三部作とか、死別プレイリストと密かに称している。
江國香織の『落下する夕方』はその中の一つで、死別というかある種の大きな喪失感を本当に美しく素直に表現された作品で、自分にはとてもこんなに的確に言語化できないというような気持ちを、作家が書いてくれているというのは、本当にありがたいなあという気持ちになる。
(例えていうなら、自分で時間をかけて作ってもなんかいまいちパッとしない料理を、手軽に出来上がった状態で手に入られる、ご馳走になれる、そういう感覚に近い。)
この本を読みたい人がもしいたらネタバレになってしまうけれど、主人公の梨果が喪うのは最愛の恋人とかではなく少女のような自由人で、ファムファタル的な人物である。
こういう人は都会には実際存在していると聞くけど、華子は飛び抜けて美人とかではないけどなんか凄くモテて、仕事をせずに人の家を渡り歩いていて、ある日を境に梨果の家に住むようになる。
彼女は用事もしなければ日がな一日ソファーに寝そべっているにもかかわらず完璧な同居人である。そこにいることの自然さや、気を遣わない感じがそうさせているのだった。
いてもいなくても同じみたいな、空気のような妖精のような感じの人ほど、かえって不在時の存在感が色濃いように思う。
彼女がいない部屋の空気は薄く、色褪せていく。
物語の序盤と終盤、異なる二つの喪失感の中で梨果が日常的にやっていることはとても参考になった。掃除機をかけるという普通のことや美容室でシャンプーをしてもらって頭が軽くなるような息抜き。一番しんどい局面では彼女は全ての動作を丁寧に集中して行うようになる。あとがきで合津氏は、自身も励まされたというこうした習慣的な行動をgrief work-悲嘆を癒す作業-と書いている。

私はガサツな人間で、全ての動作に力が入りすぎてしまったり、横着して同時に二つのことをやったり両手に物を抱えすぎたりすることにより、落とす、こぼす、ひっくり返す、壊す、切る、ということが日常茶飯事という破壊的なところがあるため、一つのことに集中、丁寧にやるということをこの度はじめてやってみている。
大切な友人に連れられて行った鍼灸院で教えてもらったのは、食事のときには特に集中して五感を研ぎ澄ませるのが良いということで、これもなかなかどうしてテレビを見たりはしてしまうけど、思い立って消してみると塩気や香りが分かる感じがする。
食事を用意するときもそうで、油の温度が上がり切らないのに卵を鍋に入れればたちまちボソボソになってしまうし、狭いところで慌ただしく動いた結果食べ物が無駄になったりすることで少しずつ心が蝕まれていくのは避けたいものである。
そんなわけで梨果にならい少しでも多くのセロトニンを受容して、うんざりすることを減らすことが目下の課題となっている。そうするうちに本当の再生された状態がやってくると信じて。

この物語の中でのお葬式の描写もとても好きで、お葬式の時は色んな人が思い思いのことを発言するのだが、そのことを亡くなった当の本人が聞いていないということが、とてつもなくおかしくかんじられること、それを帰ったらあの子に話したいという気持ちがありありとわかり、なかなか実感が湧かない中で、不在が意味することが少しずつ、はっきりと分かってくる。シュレディンガーとかの説よりも断然分かりやすい。
身近な人との別れを経てこういう作品に触れる機会も少し増えて最近、生と死、存在と不在、二つの間にはたしかに決定的な違いがあるけれどどちらも同じ重さのあるものだなと感じる。
こういう時間が取れるのも何もかも、周りの支えあってこそだと本当に感謝して過ごしている。
生きているほんの少しの間を梨果たちのようにみずみずしく過ごせたらと思う。

以上

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