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Blankey Jet City〜浅井健一の詩の独創性について〜

Blankey Jet Cityは90年代のロックシーンを彩ったスリーピースバンドである。メンバーは浅井健一(Vo,Gt)、照井利幸(Ba)、中村達也(Dr)。

余計なものを極限まで削ぎ落とし、音楽の骨となる部分を荒々しく打ち出すプレイスタイル。シンプルでいて太く厚みのあるバンドサウンド。

ライブで三人が魅せる、個のぶつかり合う演奏について書きたいのも山々であるが、今回は浅井により手掛けられた歌詞を取り上げることに専念したい。

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彼の詩は「言葉による説明」から離れたところにあり、不可解な論理に基づく「非現実的な現象」を語ることに終始している。そのため、そこで描写される背景を再現可能なイメージとして捉えるのは難しい。つまり、自分自身を登場人物に投影し、過去の実体験と照らし合わせてその時の感情を思い起こすことができないのである。

それにもかかわらず、何故かその"感覚"は実感を伴って伝わり、不思議と腑に落ちる。コンテクストを想像して共感するのではなく、漠然とした"感じ"を直感的に理解するのだ。

現実には起こり得ない、体験しようのないシチュエーションを提示しながらも、一言では形容し難い感情を"雰囲気"として詩に漂わせる。具体的な説明を伴わずして抽象的なモノを捉える、その感性こそが彼が「詩人」と称される所以だと思う。

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核となる部分を説明したところで、歌詞を具体的に取り上げよう。

ここで挙げる3曲は、いずれも94年のアルバム『幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする』に収録されている。個人的には、浅井の詩的感性が最も研ぎ澄まされていた時期の作品だと思う。

太陽が死んで 空が笑ってる
白い雲が悲しい目をした
僕はうれしくて少し狂いそうさ
三ヶ月あわててBellを鳴らしてる

鉄の柵にもたれかかり
それをながめてたGround mother
風に火を点ける

夜が燃え上がり 朝がとけてゆく
僕はうれしくて少し狂いそうさ

神様の悪口 言うのは
とても危険な行為さ 誰か僕を止めて
いつかは天国へ行きたいと願う
こんなオレだけど

つける薬が 売り切れちまった
つける薬が 売り切れちまった
つける薬が 売れ切れちまった

——嘆きの白

海賊は頭にバンダナを巻きつけ
はだかで叫んだ 皆殺しにしろと

飛行機乗りは落ちてゆく仲間の姿を
こめかみで感じながら逆流する血の
味を予測している 進んだ奴がやってきて僕の
腰に腕を巻きつけた 汚れた真珠のような瞳で

悲鳴を上げる女の足首ほど純粋なものはないさ
最後まで

めぐまれない大人たちが空を見上げて
僕は路上につばを吐きすてた
水色の森の中で水色の花を見ていたら
僕の心はとけはじめ 火薬のにおいに
変わってゆくだろう

大きな炎を上げて 燃えあがる車が僕を見ている
とても悲しそうな目で
その前で裸足の子供たちが
手を叩いて遊んでる もっと強く燃え上がれと
僕はあわてて皆んなに言うだろう
早く彼を助け出そうと

——円を描く時

悲しくはない うれしくはない
恐くもなく 寂しくもない
憶えているさ おまえがいつか触った
あの見せかけの虹

幸せすぎて涙を流す 雪より冷たいおまえの影
知ってるぜ 見たこともない夜の色
滑らかな落ち葉に倒れ伏して

夢を見たのさ すごくせつない
砂の山に向かって走る
古びた汽車 静かに揺れる 乗客は僕達ふたりだけ
耳をすませば微かに聞こえる
氷みたいに冷たい車輪の音が

鋼鉄のドアを叩き壊して 逃げ出したふたりは
太陽に燃やされる

僕の目は澄んでいるかい
何も隠さずに言ってくれないか
知ってるさ 僕にはもう
何ひとつ理由がないことを
もっと近くに来てくれないか
氷みたいに冷たいこの景色さ

鋼鉄のドアを叩き壊して
逃げ出したふたりは息を切らしながら
見渡す限り何もない 景色の前で
ただ とまどうだけ

——砂漠

どの文脈も、いやものによっては文章単位で意味を把握しにくい。しかし、狂気、刹那、絶望、諦観、焦燥、孤独、そういったものが歌詞から確かに読み取れるのである。(歌詞は音に乗るからこそ意味を持つのであり、テキストだけ提示したところでその感覚が充分に伝わらないのは承知しているが)

これらの感覚は単に"それを示す言葉"を直接的に歌詞に組み込み、状況を説明するだけでは喚起されない。「君に会えなくて寂しい」と先に言われてしまっては、そうと納得する他なく、それ以上の情感を能動的に汲み取ろうとしないためである。

『円を描く時』の一節、

悲鳴を上げる女の足首ほど 純粋なものはないさ

が良い例だ。

「悲鳴を上げる女の足首」が"純粋"。純粋とはつまり、余分な要素が全て排され、それ単体が剥き出しの状態であるということだろう。この言葉から、女の足首の細さや白さ、震えがありありと目に浮かぶ。そして、その"儚さ"が鮮明に伝わってくる。

初めから"純粋"の部分が"儚い"と結論付けられていてはこうはならないはずだ。"純粋"という予想外の展開を受け、そのように形容される「悲鳴を上げる女の足首」を懸命に想起するからこそ、儚さが切実さをもって感じ取れるのである。

言葉の配置——単語と単語、主語と述語の結び付け方——を工夫し、文の意味や印象を明瞭にする。その追及が、浅井の詩には見て取れるのである。おそらく彼自身はこの作業をテクニカルにでなく、無自覚に、感覚的に行なっているのだが。

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ここで、浅井の詩を色の観点から考察したい。浅井の詩において色は頻繁に登場する重要なファクターである。以下に列挙しよう。

ドロドロにとろけたピンクのプラスチック
そいつをイッキに飲み干して

——RED-RUM(夢見るBell Boy)

ゆりかごは揺れる きれいな午後に
窓の外には 真昼の白い月

——カモメ

テーブルの上には グリーンのゼリーが
小さく震えていたんだ

——Soon Crazy

港区にある クリーム色のビルディング
12階建てのスクラップ

——螺旋階段

紫色のジェリー その中へ行きたい
あまりにも冷たくてやさしい

——PurpleJerry

そしてお前の愛を感じたい
太陽が傾いて この部屋がゆっくり
あたたかなオレンジ色に染まっていく その中で

——斜陽

車の街に住むオレ達2人は
水分のない乾いた水色だから

——Bang!

ピンク、白、グリーン、クリーム色、紫、オレンジ、水色。様々な色が使われているのが判る。

色を歌詞に用いること自体は特異でない。その使い方が斬新なのだ。一つ目に挙げた『RED-RUM(夢見るBell Boy)』を参考にする。

どろどろにとろけたピンクのプラスチック

プラスチックを「とろけた」「ピンク」の二つで飾っている。それだけなのに、なぜこんなにも不気味なのだろうか。

我々が「プラスチック」と聞いて思い浮かべるのは「透明」「硬い」「無機質」といった要素だろう。それを、「粘性」「流動」を思い起こさせる「どろどろ」という擬態語と、「柔らかい」「有機的」な印象を与える「とろける」という動きに結び付ける。

この手続きによって、普段は意識されないような、プラスチックが内包している得体の知れなさや気味の悪さが露わになる。その性質を強調しているのが、「可愛い」「喜び」「華やか」といったイメージを持ち、おおよそ不気味さとは無縁なところに位置する「ピンク」という色の働きだ。

普段から怪しげなものとして認識されやすい「グレー」などではなく、むしろそこにミスマッチする「ピンク」を敢えて置くことで、補色のように「(どろどろにとろけた)プラスチック」の不気味な様相を際立たせ、その性質を強める。浅井は、この素材と色の組み合わせ方が抜群に優れていると私は思う。

これは、先述した言葉の配置の工夫に繋がる。素材に対して意外性のある色を結び付けることで、その情景や状態を強く喚起させ、素材が潜在的に有する性質を再確認させる。それにより、対象に圧倒的な存在感を持たせるのだ。

二曲目に挙げた『カモメ』の

真昼の白い月

から月の神秘性や幻想性が浮かび上がってくるのも、「白」という色の働きによるところが大きいだろう。

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一つ一つの言葉自体は難解でなく普遍的。それらをいかに組み合わせ、独創性のある詩にするか。ここが重要である。

エピソードそのものがどれほど充実していても、結論が安易なら面白味がない。 提示したエピソードをどう形容するのか、どう締めるのか。聞き手の推測を裏切った上で、何か新しい感覚を喚起できるか。ここが、作詞家としての力量が問われる点だと私は思う。

しかし、そのような結論を無数の語彙の中から引き出すのは至難の業だ。ともすれば「桜を見た、……美しかった」と安直に結んでしまう。「桜を見た」に続く粋な言葉を、「桜」という単語や「桜を見る」という経験が持つイメージを膨らませられるような言葉を、果たしてあなたは何か思いつくだろうか?