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母親

昼食を取っていたとき今年7回忌なんだ~と同僚が言った

ふと思った、
母が他界してから13年が経つのか

当時の私は、病気で入退院を繰り返す母が
亡くなるなんて思っていなかった。

小学4年生の春休み
今まで母のサインだった音読カードが
父のサインに変わった。

父は お母さん絶対良くなるから、何でもいいから元気になる言葉言ってあげて と私に言う。

私はできなかった
なんでかって、当時小学校高学年、思春期真っ只中 照れ臭くてただそれだけの事すら言えない、ましては母親が癌だなんて知らなかった

具合が悪いから病院に行ってる、悪化したから入院した、その位の内容だと思っていた。

父は言えなかったんだと思う。
私が取り乱すのではないかとか、
今までの生活が送れなくなるんじゃないかとか、
良くなること、それだけを父は願っていた。

進行していく母の癌
おかしくなる精神状態

ある日、ただいま とドアをあけると返事がなかった
いつも家に帰ると玄関で出迎えてくれる
お母さ~ん?と家中探しても母は居ない

台所には私のヘアブラシが綺麗に洗って置いてあった
少しすると、母が救急車で運ばれたと父から連絡がくる

だから居なかったんだ、体調大丈夫かなぁ

なんで救急車で運ばれたか、未だに父から
聞かされていない、

でも、今なら 分かる
しんどかったんだと思う
そうするしかなかったんだと思う
あんなに強くて、しっかり者で、誰かの為に一生懸命だった母の精神状態を壊していく病気

母は大きい病院に転院した

毎週高速を使い1時間かけ向かうお見舞い
着くと笑顔の母がいた
付き添う祖母もいた

濃い話を父としていたんだと思う
内容は分からない
時には面会室で涙する母

泣く母を今まで見たことが無かった

徐々に弱っていく
私より体重が軽くなった、
動くのも辛そうになった、
いつの間にか病室が一人部屋になっていた

帰り際、またね~と手を振る母
その記憶が母とちゃんと話した私の最後の記憶だ

その数日後、母が残り僅かの命だと私は父に告げられた
そんな状況だなんて、知らなかった
小学校の卒業式には来てくれる、ずっとそう思っていた

週末、いつものようにお見舞いに行った
母は喋れなくなっていた
口は動いている、何か伝えている、ただうまく喋れていない
私には何を言っているのか分からなかった

数日後、母は亡くなった

GW直前だったと思う
母は亡くなった時まで優しかった
私達の学校と父の仕事
GWと重なったお陰で勉強に然程支障があった
覚えはない。

火葬の日、火葬場へ向かう途中、母を乗せた霊柩車と、家の近所の坂をバスで登った

母と何度も見た光景
その日は桜が散りはじめ、クルクルと宙を舞っていた、ピンク色の絨毯の上を母と登った。
綺麗な景色だった

全てを終え、母の遺骨と一緒に家に帰った。

学校へ行く、下駄箱に着くと校長先生が
笑顔で迎えてくれた。
何を言われたかは覚えていない
でも、優しさは覚えている

登校中、近所の人に会った
まだ小さいのにお母さん居なくなって大変だね
頑張ってね
そう言われた
その人にとっては精一杯の励ましだったんだと思う

そうか、私は可哀想なんだ。

お弁当の日、誰が作ったの~?と興味本位で聞いてくる友達
置いてあったから分かんない~と笑って返す。

父が作ってくれた、いまに始まったことでは無い。冷凍食品を使って母のいない間お弁当の日は頑張ってくれた。
母が居たときは冷凍食品を食べたことが無かった。全て手作りだった。

強く生きよう
その思いでこれまで生きてきた

祖母は私に言った
代わってあげられたら良かったのに と。

か細い声で目を潤ませながら話す祖母に、正しい返答の仕方が分からなかった。

未だにくる母の友達からの手紙に年賀状

先日、親戚の定期演奏会に行った際
母のいとこに会った

葬式以来だった
私を見て、会場で泣き出す母のいとこ

何を思ったのかは分からない

今も尚、各々の中で生き続ける母

どうか、みんな幸せであります様に

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